波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

こめの学習帳:9ページ目【手の届かない恐怖】

2017年05月30日 | 【保管】こめの学習帳
手の届かない恐怖 

家庭の事情により、以前より飛行機に乗ることが増えた。高い所も、スピードが速いのも、離着陸時に下腹のあたりがフワリとする感覚も全て苦手で怖い。私は怖いと対象を調べたくなる。飛ぶ原理を調べたり、飛行機の事故を調べたりした。同様に、こちらに引越した時にはヒグマが怖くてよく調べていた。
                 
中学生の時に読んだ『心の底をのぞいたら』(なだいなだ著、筑摩書房、1971年)を思い出す。ここでは「幽霊はなぜ怖いのか?」の問いに、「幽霊がよく分からない、理解できないものだから」と答える。人はよく分からないものに恐怖を感じるのだという。だから人間は世界を切り取り、名前を付け、「分かるもの」にしていったという。私の行動は恐怖を克服しようとするものだったのかもしれない。
                           
現在は情報が多すぎるせいか、かえって「よく分からないもの」が多い気がする。政治家の説明も、ミサイルの意図も、分かるようでよく分からず、ぼんやりとした恐怖に身を包まれている気がするのだ。
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テレビの時間

2017年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

級老人(65歳以上)に昇格して一番の変化は、テレビを計画的に見るようになったことだ。居酒屋の「とりあえずビール」ならぬ「のべつまくなしテレビ」をやめた。いったい俺は何を見たいのか?を考え右図表を作った。これに、スポーツ番組や先週BSであった漱石と鴎外の特番などを加える。毎朝、新聞裏面の番組一覧にマーカーペンで印をつけ21時以降の『深夜番組』(20時ぐらいから転寝に入るので)はVDに取る。先週、その取り方をママヨさんに聞かず独学で知った。老人だってやる時はやるのである。

          

日3時間以内の視聴が目安。読書も同じくらい。起きている時間の半分が見たり読んだりだ。晴れた日は土や木をいじってる。人生の数ある感動体験の上位10傑に絶対に入るテレビが我が家に来た小5の頃からテレビはいつも側にいた。結婚して子供が大きくなるまでテレビを見る暇も気持ちも無かった。気づくとテレビの「お笑い」ばかり見ている50代になり、60代前半はその習慣が残ってしまった。

                   

だかしみじみしているような番組が好きな波風氏。知識を増やそうとか、生活に役立てようという気はあまりないが、見た後で「今日の料理」を買い作ってみることもある。「バリバラ」は驚きの連続だ。「新婚さんいらっしゃい」と「笑点」は高校生の時から見ているが下らなさにウンザリし「笑点」は昨年で止め、「新婚さん」は年内いっぱいだ。「通りの達人」は石ちゃんのマンネリだが磨き抜かれた芸に感服している。


先週は知人3人がご逝去し少し複雑な気持ちで静かに過ごした昨日の夕食のこと「本格的四川料理」を裏ブログに先ほど書いた日本は「滅びるでしょうね」という言葉を探し漱石「三四郎」を開く。こんな言葉を言ったら逮捕拘禁される時代が来るかもしれない、と思う実に気持ちの悪い今の状況。テレビもなあ…

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こめの学習帳:8ページ目【つくる技術】

2017年05月24日 | 【保管】こめの学習帳
つくる技術
 
最近、驚いたことがある。キャベツの千切りが、そこそこきちんと千切りになっていたことだ。特に練習していたわけでもないのに、である。できるようになった理由は定かでないが、おそらく毎日包丁を握って料理を作り続けていたからであろうと思う。継続の価値を知る。
                                                     
感覚的に、なるべく技術を身に付けたいという考え方がある。キャベツの千切りならば、スライサー等で手軽に作ることもできる。みじん切りもミキサーでできる。しかし、包丁一本で色々なことができるようになりたい、その方が楽しい、と思う。そして少しずつ磨かれて、精度や速度が上がっていくことに気付いてふと嬉しくなる。
                                                      
環境に刺激されたのかもしれない。父は還暦前から木工を始め、実家に帰るたびに作品が増えている。母は編み物を指導する資格を持ち、作品が売れる。祖父は鳥小屋や簡単な家具を自作し、祖母の作った木目込み人形は今でも実家の玄関を飾る。以前は何とも思わなかったが徐々に羨望に変わりつつある。自分は何を作ろうか。
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続 新聞のAとBから

2017年05月23日 | 新聞感想
(前回から続く)
え込んだのはBの方だ。Aの沖縄の方は、国のために犠牲になれというのはあまりに無責任だと自分に恥じる気持ちがずうっと消えない。だが、国のために犠牲になれと自衛隊員の人たちに対して思っていなかったかと言うと返答に躊躇する。そこらをきちんと考えてこなかったからだ。
 
とBは、一見対立するように見えて、自分の幸せのために他に犠牲を強いることでは完全に同じだ。AとBの文章だけでなく辺野古移設や憲法9条改正の最近の新聞記事で、「沖縄の方々」と「自衛隊の方々」を入れ替えても意味は通じる気がした。そんな問題意識で実際にやってみると本当に通じる。むしろ、後者の方々のどうしようもない立場と気持ちが痛烈に迫ってくる。
現憲法遵守で入隊したにも関わらず、昨年の集団的自衛権に次いで突然の憲法9条改正宣言に遭遇し、何かの勢いで憲法改正の国民投票がもしされたら、逃げようの無い決定的な犠牲を強いられることになるのか、自分の職業自体が否定される結果が待っているのか、どちらかが選択される道筋が浮かんでくる。良くも悪くも、そんなふうに庶民が分断されることがかつてあっただろうか。
 
風立男氏は、AとBのことをずうっと考えていこうと思っている。これからどうすると言うのではなく、政治や歴史や馬鹿なリーダーのせいにしたくてたまらないがそうせず、皮相な理解で自分をごまかさず、ふだんの暮らし方の問題の一つとして静かに考え続けたい。そう、あと何年生きられそうだからあれをしておきたいとか、自分が逝った後の骨の行方はどうするとか、少し遠いようでいて実は大事なことのように。(終わり)
 

 
小川糸著「食堂かたつむり」再読し、本の片付け中断。最新刊「にじいろガーデン」購入。ついでに木皿泉著「昨夜のカレー、明日のパン」までも。減らすはずが…ムック本の「井上ひさし」、江藤淳の「夏目漱石」を時々開いている。「猫」も途中。本格読書の準備体操のつもり裏ブログの方も「ヨモギ探し」で更新。
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新聞のAとBから

2017年05月22日 | 新聞感想
じ日の2つの新聞の文章、AとBのことをこの1週間考えていた。
 
は、「(日本へ)復帰前…国益のためと沖縄に犠牲をしいている姿勢を『醜い日本人』と表現…今、沖縄の基地反対の底流には『憎い日本』という負の感情がある」(5/14朝日「天声人語」)だ。Bは、「自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば命を守ってくれ』というのは、あまりに無責任…と(筆者の村山氏は)自分に問いかけた。自衛隊の人たちに、国を守るために命をささげよ、と言えるだろうか。死んでも仕方が無いと思えるか」(5/14道新「異聞風聞」:村山健編集委員)だ。
 
えていたのは、「他人の犠牲の上に自分の幸福を願ってよいはずはない」という単純至極な道理だ。ふと浮かんだのは詩『大漁』。明るく大賑わいの浜と暗い海の底の魚たちの弔い。だがここには救いがある。人間は誰かれなく幸せだ。では、沖縄はどうだ?
さて、当時大学3年の波風立男君にとって人生最初の政治体験が「沖縄返還」だが、「沖縄が犠牲を強いられている」「沖縄が差別されている」、その上に自分の暮らしがある、という感覚は年々強い。だから、Aの「憎い」はその通りだろう。45年間もあったのに、何もしていない醜い波風氏は間違いなく「憎い」一人なのだ。そして、考え込んだのはBの方だ。(次回に続く)
 

 
今日は裏ブログも更新。お題「映画『人生フルーツ』を見た次の日 漫画「聖 全3巻」(山本おさむ作:小学館)読む。同作者の続けて読んでいるがこれも傑作。ほぼ新品、全巻揃いで1冊分以下の定価。だから、古本屋ウオッチは欠かせられない。
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