波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

悪法の6月中旬(続々)

2017年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

(前号から続く)
ウンザリする6月の政治。冷たい雨が続き、畑で震えている苗に気持ちが重なる。逃げるわけにいかず、天に喧嘩もできず、晴れの日が来るまで耐え忍ぶ姿。それに比べましな我々庶民。60歳代の現政権不支持率が全年代中で一番高いそうだが、同輩の中級老人の反骨精神に安堵しつつ、近未来が不安。国会の投票札(法案に対する賛否)の積み重ね具合を見て、庶民の責任を思う。

そんな時の小さな新聞コラム「『記憶にない』ことこそ記憶」(6/22朝日:福岡伸一の動的平衡)。こんなふうに政治に関わる学者がいて、雲間からの明るい光みたく思う。道頓堀「くいだおれ太郎」を彷彿させるお方、なかなかやる。教育も科学も芸能も、あらゆるものが、政権に『忖度』している今。政権を巧みな風刺で笑い飛ばしたり、様々な視点からの批判するのを少しも取り上げず、争点ぼかしに誘導するマスコミにうんざりする中、にやりとする感じ。

憲法改悪の国民投票スケジュールを発表する首相。現憲法遵守が義務の国家公務員で、そのトップにある方が意見で無く違憲を平然と語る異常。さて、問題は庶民の受け止めだが、庶民による政治と国の根本的なあり方を問う機会を用意してくれたと思うことにしよう。老人どうし、老人と若者、ここで未来計画を語りあわなくては禍根を残す。ママヨさんの言う「雨はいつかは止みます」は、このことかもしれないと思う波風氏。親友の言葉を深読みする6月最終週の始まりであった。(おしまい)


タコとモヤシのナムルが3日続く。旨くて飽きない、ということだが、大きなタコ足を解凍したせいでもある。4月5月6月で、ニンニク消費量が昨年度分に匹敵。週に1度は中華 裏ブログ「本を売りに」で更新済み。4日書かないと「久しぶり」の感『波風食堂』のシンク作成再開。脚取り付け準備終わり、晴れたら塗装。着々とやってます。

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悪法の6月中旬(続)

2017年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

一昨日、劇場で観てきた映画『沈黙 -サイレンス-』(日本版予告編)

(前回から続く)
【場面】中級老人夫婦、映画「沈黙-サイレンス」を見た後の帰り道。
ママヨ (きっぱりと)私なら『踏み絵』踏みます。
立  男  (う-ん)俺も同じだけれど、今の時代だからそう言えるのじゃないかな。
ママヨ 命を賭けてまで、神や仏を信じる気持ち、私には無いですから。
立   男 宗教も政治も道徳も人間の『希望』。今は一人一人の自由と言われるけれどどれだけ時間がかかったことか。
ママヨ (素直に)そうかも。宗教弾圧もその歴史の一つだもんね。
立   男 うん。庶民の累々とした屍の上に、今の時代の自由とか希望があるんだろうね。
ママヨ 言葉としての自由や希望はあっても、それを口に出しづらい、心に対する「弾圧」は今だって安心できないでしょう。
 
【内心】寒々とした政治と国会。『希望』を感じない。庶民は、どこまで馬鹿にされ、利用され、言いなりにされるのか。庶民への「沈黙」の強制を自分の役割と任じる言葉づかいが天下一品薄ら寒い官房長官、わざとなのか無知なのか一貫して意味不明な答弁を長々繰り返す総理大臣。(彼が使いたがる、副詞「そもそも」「まさに」、連体詞「いわゆる」を耳にするたび、「いわゆる学力向上はまさに君の課題」を実感)。「信」は「人の言うこと」が語源。信じられる言葉欠いても「可」とするなら、何をされても仕方はないのか。(次回に続く)
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悪法の6月中旬

2017年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
【会話】中級老人夫婦、連ドラ「ひよっこ」を見ながらの朝食時。
立 男 (それが当然という顔つきで)家族は何でも話ができなくちゃあ。
ママヨ (納豆をかき混ぜながら)それが意外にできないんですよね。君主の前では。
立 男 (絶句しつつ)俺のこと?
ママヨ はい(微笑)、歯の無い絶対君主様と面従腹背の家来との間の話。
立 男 我が家の、言うこと聞かない家来、なかなか面白いこと言うなあ。苦しゅうない、納豆をこちらえ…そそっと…。
 
【内心】その日の朝刊一面、『「共謀罪」法 成立』の大見出し。実に寒々とした気持ちの朝。「庶民はここまで馬鹿にされているわけだ」。食後、テレビで照屋林助(戦後沖縄の娯楽・芸能をリード)のドキュメント(6/15BSの録画)。言葉「悲しみも笑いに包まなくては」が沁みる。前日に見ていたテレビ(6/14BS「まるごと赤塚不二夫」)の「ニャロメ」という言葉が浮かんだ。集団的自衛権で一歩目、共謀罪で2歩目、3歩めに行き着く憲法改悪か。「オリンピック」のこういう使い方は悲しい。
(次回に続く)※画像は赤川次郎氏の新聞投稿(6/15朝日)
 

 
 裏ブログも更新。「アボガドの芽」。随分と久しぶりにキーボードに指を乗せる感じi国語辞典で、「そもそも」「まさに」、「いわゆる」を調べる。言語明瞭、決断率先の自己演出が、無知蒙昧を世間に晒す我が国リーダー。
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こめの学習帳:11ページ目【読めない漫画】

2017年06月14日 | 【保管】こめの学習帳
読めない漫画
 
以前よりも自宅での自由時間が増えたため、本や漫画を好き放題読んでいる。特に漫画は近所の本屋で貸本をしているため、絵や雰囲気が気に入ったものを手あたりしだい試している。今日も仕事の疲れに流され本屋に行き、気になった絵の漫画の中身を見ていた。「これは無理だ」と思ったものがあった。子どもが凄惨な事件に巻き込まれて亡くなる描写があるものだった。
 
どちらかというと残酷な描写のある漫画は嫌いではなかったし、子どもが被害にあう描写も以前は特に気にならなかった。しかし長男が生まれた後、どうしても登場人物と彼とを重ねてしまい、そういう描写が辛くなった。体験・経験こそ重要だという言説には反論したくなるのだが、体験や経験が想像に勝ることはやはり多い。最近、その事実を強く突き付けられている。
 
普段、自分より年下の人たちと接することが多いため、相対的に自分の経験が豊富なように錯覚してしまう。読めない漫画も増えるかもしれないが、自分の想像を超える体験から学ばなければと思う日々である。
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新「バナナの教え」

2017年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム
聞に載っていたゲーテの嘆き。「人間は10歳で菓子に、20歳で恋人に、30歳で快楽に、40歳で野心に、50歳で貪欲に、それぞれ動かされる。いつになれば人は知性に従っていけるのか」。世界史的な人物でも生涯煩悩が尽きないのだ。それぞれの年代の欲望対象に何かしら思い出すものがある波風立男氏は、こういう言葉を見るとホッとする。
 
れと対極の孔子の言葉。「十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」。『知性』以外の何物でも無い年代別規範だが、孔子がゲーテと同じ煩悩に悩まされていたからこんな言葉を残したのに違いない。孔子は遠い人、ゲーテは近い人に思うが、二人の言葉は一人の人生の事実と願い、人の裏表であり、こんなので悩むのが人間らしさだろう。人生を肯定するとは、そういうことではないかと、波風氏のあるかないかの知性は断言するのであった。
 
真は、道庁資料室で見た石炭ストーブ。銅の湯沸かし、十能、石炭箱、タイル張りのストーブ台、そしてデレッキ。新聞に書いたコラム「バナナの教え」を思い出した。煩悩や人間の業もほどほどに、と考えられる「耳従う」知性はどれほどのものか。間違いそうになっても、いや間違ってしまっても、叱ってくれる親はもういない。
 

 
 「にじいろガーデン」(小川糸)と「昨夜のカレー、明日のパン」(木皿泉)読む。「事実は時に間違う。でも真実はどんなに世の中が変わっても普遍」(にじ…)みたいな言葉に何度も。身近だけれど普通で無い人間関係、それを補助線に人間に迫まる面白さ欲望に弱い芸能人の不始末。最初から知性の無いイヤラシい感じの役者さん。やっぱりな表は放っておいても裏ブログは割合真面目に更新しています。
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