波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

【その151】 年度末

2014年02月23日 | 【保管】一寸凡師コラム

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  2月も後半。あと1ヶ月ちょっとで新年度が始まるかと思うと、ドギマギしてしまう。今の職業について20年あまり経つが、気づいたことがある。この仕事は1年を通じて忙しい。1年間のまとめと振り返り、次年度に向けて何をどうして行くか・・・。通常の業務にプラスしてこれらの仕事に取り組んで行くことになる。「忙しいことはいいことだ」とはよく言うが・・・。考えただけで、またドギマギしてきた。あらゆるものを上手にコントロールしながら、『年度末の忙しさ』を乗り切りたい。そして、気持ち良く『新年度の忙しさ』に突入したい。


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物語の顛末Ⅲ

2014年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_2【前号から続く】立男が若かった頃、人生に決定的な影響を受けた出来ごとがある。立男は当事者の一人だ。ところが、それと全く関係ない人間が当事者然として振る舞い謝礼までもらっている噂を聞いた。講演や出版もしているのだから始末が悪い。白昼公然、堂々とやるから、「ちょっと変だが、まさか…」とまんまと騙される。実践に謙虚な当事者一同は唖然とし呆れ果てた。立男は根が不良だからケンカしてやると決めた。だがその機会がなかなか来なかった■■■
 
     

 運命というのは怖いもんだ。その決定的な職場に回り回って戻ってしまい、何が事実で何が嘘かを語らざるを得ない立場になってしまった。ケンカせざるを得ないわけだ。そんなこんなしているうちに、一面識もない人から抗議の電話がきた。いわく、「二宮金治郎が本当に立派な人間かどうかはどうでもよい、子どもが立派さを信じて立派な大人にさせるのが教育というものだ、なんでお前は感動的な話をありがたがっている面々に無礼を働くのだ」という内容だった。立男の「事実はこの通り」が流布し始めた実感が湧いた。自分は当事者だから会って話したいというと電話は切れた■■■

 
 騙された鬱憤を晴らしたい気持もわからないではないが…。「物語」で酔わせて欲しい、お前たちが酔わせたんだから責任取って簡単に冷めさせるな、という感じがヒシヒシと伝わる。偽「物語」を演じた偽物先生だけの責任だけとも言えない後味の悪さがある。これにあの偽物作曲家にまつわる話が重なる。何だか可笑しいような、何だか悲しいような、人間にはこんなふうな物語が裏切られても騙されても必要なんだろうなあ。だからいつになっても偽物も求められ続けるのだろうなあ、なんて思った■■■【終わり】


画像は桃の花。花屋でこんなのを見つけると嬉しい。腹ばいで読む「三四郎」にこんなふんわりした感じも「不良老人伝」(東海教育研究所」)、強い人は間違いないが功なり遂げた人ばかりでは書名が泣く。不良の資格は、せこく、無名で、潔くでなければ…。 

Photo_3公式裏ブログ、久しぶりに更新。2/20「青い影」、2/22「かき卵うどん」。

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物語の顛末Ⅱ

2014年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

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【前回から続く】この偽作曲家の世間を騙す気持はどのくらいだったのだろう。「作曲家」は嘘だが、交響曲的な物語の作家で演出家で役者で、我々庶民に文化的な感動サービスをしてくれたのは間違いない。見事な芸能関係者、商売人なわけだが、今の時代の空気を的確につかみ緻密なプランで受ける物語を表現できるプロデューサーだ。甚大な被害を受けた方も大勢いてそれは償わなければならないだろうが、なかなかな達者な悪者だと思う。

                    

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 きっと、こんな偽物はそこらにいることだろう。立男だって小物だけれで何人かの顔が浮かぶ。人様が努力して成し遂げたのを「宣伝」しているうちに、いつしかその宣伝担当者を周りが当事者と誤解し先生、先生と持ち上げているうちに、最初は「私じゃ無い」と断っていたのだろうが、宣伝も回数を重ねるといつしか巧みになり、聞いている側も「物語」が嫌いじゃないから、それが謙遜みたいに映ってしまい天まで持ち上げてしまう場合だ。素材が元々感動的だから周りから賞賛され「俺のせいでこんなんに感動してくれるのだから俺のこういう役割も大事だ」「俺がやったと周りが誤解しているだけだ」なんていう気持ちを支えに、いつしかちやほやされるのにも慣れて数年経つと、もう引き返すのはまず無理だろう。
 だが、こうした間違いも「物語」を待ち望む観客がいるから生まれる。世間は昔からそんな劇場を求め続けているから、感動物語の脚本、役者や演出家も必要になるのだ。怪しい、怪しくないを問わず、感動呼び起こし人がいてくれて成り立つ商売もあるのだ。【次回に続く】

イラストは芋科の観葉植物、名前は忘れた。大きくなって枯れる頃に新しいのが芽吹くTVのソチオリンピック、アナウンサーと解説がうるさくて辟易する「こころ」読み終わり「三四郎」読み始める。こんな風に新鮮だったんだ。

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【その150】 スキー

2014年02月17日 | 【保管】一寸凡師コラム
Photo  土曜日、家族でスキー場へ。荒馬さんと長男はスキー、凡師と次男は車で留守番。こんな時も、車内で横になれる車は便利。天候にも恵まれ、ポカポカ陽気だったため、ついウトウト。ハッと目を覚まし、ゲレンデを見ると、長男坊が斜面をスイーッ。しかも、長い距離をノーストックで滑っている。昨年まではスキーを履いて歩くのも怪しかった長男の成長ぶりに感動。戻ってきた荒馬さんと感動を分かち合おうとしたら、2つの事実が判明。

    1つ目は、ストックを持つと上手に滑れないこと。2つ目は、止まり方を知らない為、自然と止まる所まで滑っていってしまうこと。やはり、凡師家の長男坊はこうでなきゃ。一緒に滑った荒馬さんは、その日のうちに筋肉痛。まだまだ若いということか。とにもかくにもいいリフレッシュになった。また行きたい。
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物語の顛末Ⅰ

2014年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_3  別人が作った曲を自分が作ったという嘘。耳が聞こえないという悲劇も、嘘がばれてから実は聞こえ始めてましたというのも何だかなあ…。昨年3月、最近はすっかり国営放送みたいな公共放送が現代のベートーベンとして紹介したもんだから、新しもの好きの立男は「すごい奴がいるものだ、CD買わなくちゃ」と本気で思った。ママヨさんは「この話、どこか変」とつぶやいた。どこが?と聞いたら「変なものは変!」と断言した。ふーん、と思ったが前から、ママヨさんのここらの嗅覚は意外に鋭いから黙っていた。立男が絶賛した人物が数年後に底が割れた、ということが今まで何度もあったが「今度は確かだべ」と思った。いや、思いたかった。

                

 そのわけは、つまりまんまと騙された理由になるのだが、一般庶民には想像も出来ない①困難な環境での壮絶な努力と天才性、②極めてまれな栄光、それを裏付けるような言動の神秘性、③庶民の立男とも連帯してくれそうなヒロシマや3.11、そして障がいに対する温かなメッセージ性…ここらに悲劇の天才を見たからだ。庶民は叙情的「物語」に弱いのだ。昔、「一杯のかけそば」で何度も涙した立男も実に弱いのだ。【次回に続く…本編は3部作です】

「こころ」を半分読んだ。定年退職したら漱石を読むと前から決めていた。百年前の物語なのに古くない。イラストは昨年から帚木蓬生を読んでいるママヨさん。

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