言葉に守られる~稚内の暮らしを振り返る【中】~
大学教育に興味がある。その延長に1960年代における学生運動への関心もある。最初は集団心理として興味を持ち、その後、学生が大学のあり方や学生の位置付けについて議論を繰り返したのだと知った。引越し際に訪れた札幌で『三島由紀夫vs東大全共闘~50年目の真実~』を観た。映画の評価には触れないが、最後に重要なこととして「熱、敬意、言葉」とあった。言葉についてはこの映画の冒頭から示されていた。自分にとって「言葉」がフォーカスされるのはタイムリーなことだった。
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稚内以前の暮らしの中で、言葉について考えたことはあまりなかった。それまで意識してこなかったわけではないが、正確に使う道具としての意味で言葉があったし、専門性を獲得するものとして言葉があった。特に研究として言葉を使う中で、そうした言葉の位置付けが確定していったと思う。ただし、過去に読んだ小説や小論においては、自分にとって「落ちる」言葉に何度か触れていたのだと思う。いつのまにかそれが損なわれていたのかもしれない。
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稚内で過ごした諸先輩方からいただいた言葉は自分に「落ちる」ものが多く、大変な時や困った時に思い出すことがたびたびあった。稚内で過ごした後半は「ほんのおつきあい」で自分が読まない類の本を知り、馴染みのない言葉にもたくさん触れた。そういう言葉に囲まれて、面白いと思ったり落ち着いたりしたことで、稚内での暮らしが支えられていたと思う。前回の最後に「自身」と表現したが、「安心」が正しいかもしれない。