ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

そして、外に出るのだ

2019-04-22 20:56:12 | Weblog




 4月22日

 相変わらず、晴れた日が続いている。 
 三日間ずっと快晴の日が続いたとしても、もう驚かなくなってしまった。 
 この冬は、雪が降った日が少なかったし、さらに続いて今日にいたるまで、雨さえもあまり降っていないのだ。
 “お天気屋”の私としては、実に喜ばしいことであり、気温も25℃の夏日を超えることが度々で、頭も浮かれてヨイヨイヨイ状態になってしまうのだが。

 庭のツクシシャクナゲは、次々に大ぶりの花を咲かせて、今では満開からすでに花が散り始めているほどだ。
 しかし、このシャクナゲの花は、ツボミの真紅色のころから、少しづつ赤みが薄れていき、最後には白い大ぶりの花がまとまって咲き、それはまさに豪華な花衣装と呼ぶのにふさわしいのだが、できればその中に、まだ花が咲く前の、薄赤色のツボミが混じっているころが、一番いいと思う。(写真上)

 7月、額に汗して、あの北アルプスの縦走路を歩いていると、その尾根筋のコル(鞍部)あたりで、ハイマツの緑の中に、白くあるいは薄赤色に咲くハクサンシャクナゲの花を見ることがあって、いつもその花の明るさにどれほど励まされてきたことか。
 あるいは、北海道の大雪山の所々に、一大群落を作るキバナシャクナゲの花の集まり・・・私は、そこで立ち止まり、その景観を写真に撮るのだが。 
 さらにその後でも、またその青空の下の花々を見ては、周りの山々を眺めなおしたりしていると、ついでに傍らの岩の上に腰を下ろしてしまい、とうとうそこでひと時を過ごしてしまうのだ。
 盛夏の、名高き大雪の山々とは言え、行き交う人は少なく、風の音と、少し離れた所で鳴くギンザンマシコの声だけが聞こえている。
 日ごろから、いくら静かな田舎の家に住んでいるとは言え、家の中でぐうたらに過ごしていては、とても味わえない、山の上ならではのひと時だ。

 さて数日前、前回登ってきたばかりの、自宅裏の山にまた行ってきた。
 さすがに2週間もたてば、大きな株いっぱいに咲くアセビの花は、もうどこでも満開になっていたが(写真下)、ミヤマキリシマのツツジの花はまだ小さなツボミだけで、わずかに足元にキスミレが一輪咲いていただけだった。



 
 今回の目的は、もちろんん山歩きを楽しむことなのだが、前回、急斜面の下りでヒザを痛めてしまい、それが回復の見込みのないほどひどいものかどうか、同じ下り坂で試してみたかったからである。 
 前回よりは時間をかけて、ゆっくりとなるべくジグザグを切って下りて行くようにして、3時間ほどの山歩きを終えたその結果、ヒザはほとんど痛むことはなかったのだ。 
 ありがたい。
 これで、自分の年相応の能力で歩いて行けば、まだまだ山歩きが続けられるということだから。 

 前にも、このブログで取り上げたことのある、あのイギリスのロマン派時代の田園詩人、ウィリアム・ワーズワース (1770~1850) の詩の中から、「発想の転換をこそ(The Tables Turned) 」という一編を。

” ・・・。
 自然は、人間の精神と心象を浄(きよ)める
 無限の富を貯(たくわ)えた宝庫なのだ。
 その健康な姿を通して、知恵が脈々と迸(ほとばし)り出、 
 その快活な姿を通して、真理が脈々と迸り出ている。

 春の森の一瞥(いちべつ)がもたらす感動は、
 すべての賢者以上に、人間について、
 人間の善と悪という論理の問題について、
 我々にさまざまなことを教えてくれる。

 自然が与えてくれる教訓は、快(こころよ)く胸をうつ。
 我々の小賢(こざか)しい知性ときたら、
 事物の美しい姿を台なしにしてしまうだけだ。━━
 人間は分析せんとして対象を扼殺(やくさつ)している。

 科学も学問ももうたくさん、といいたい。
 それらの不毛の書物を閉じるがいい。
 そして、外に出るのだ、万象(ばんしょう)を見、万象に感動する
 心を抱いて、外に出てくるのだ。”

(『イギリス名詩選』平井正穂編 岩波文庫より、この一編は「ワーズワース詩集』田部重治選訳、ならびに『ワーズワース詩集』山内久明編(いずれも岩波文庫)には未掲載のものである。)


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