4月8日
まさしく、春になった。
快晴の日が、数日も続いている。
それも時間のめぐり合わせで、夜の間に小雨が降り、日中は連日、青空の下で、気温は20℃前後にまで上がり、家のヤマザクラの花も咲き、木々の新緑の葉も芽吹いてきた。
あ、ヨイヨイヨイヨイと・・・ご承知の通りの”お天気や”のこのじいさんのこと、今にも踊り出さんばかりで・・・いやあ、春はいいよな春は、とつぶやくのでした。
あれほど、冬には、雪景色になる冬が一番好きだとほざいていたのに、この冬はその雪がさっぱり降らなくて、雪景色の九重の山を歩いたのもわずか2回だけだという情けなさ・・・ということもあってか、そのどこか中途半端な冬が終わり、春になればやはり春が一番だと、小躍りしては喜ぶというありさまで、”手のひら返しの変わりよう”というべきか、すぐに周りに迎合(げいごう)するタヌキおやじの”豹変(ひょうへん)”ぶりには、われながらいささか後ろめたい気もしないのではないのだが。
冬の間には、よほど穏やかな日以外にはベランダに置いてある椅子に座ろうとも思わないのだが、この春の盛りの時期、何かとベランダに出ては椅子に腰を下ろして時を過ごすことになるのだ。
まずは周りの樹々を眺める、コブシの白い花、赤いヤエツバキの花、見上げる上に白いヤマザクラの花、そして芽吹き始めたばかりの、モミジやカツラの小さな葉(写真下)など、青空を背景にした樹々が視界のうちに入ってくる。
そこで、新聞や本を読んだりするのだが、すぐに眠たくなってしまい、そのまま目を閉じてうつらうつらとして・・・ああ、このままあの世とやらに行くことになるのではないのかとも思ってしまうのだが、まあそれはそれでいいし、一方では、せっかくの残り少ない人生を無駄に過ごしているのではと、考えないわけでもないのだが、それは、こうしてあの世とこの世のはざまにいるようなひと時を感じることこそ、ある種の死への穏やかなリハーサルになっているのかもしれないのだと。
前回書いたモンテーニュの言葉のように。
”もっとも単純に自然に身を任せることは、もっとも賢明な任せかたである。ああ、無知と単純とは、よくできた頭を休めるのには、何と柔らかく快い、健康な枕であろう。”
”自分のおめでたさに満足し、最後まで気づかないでいられるなら、狂人と言われ、馬鹿とさげすまされても、賢いためにイライラしているよりはましだ。(ホラティウス、紀元前古代ローマ時代の詩人)"
(『世界文学全集11』「エセー」モンテーニュ 原二郎訳 筑摩書房)
つまり、幸せな気持ちでいられるためには、自らが馬鹿になることが大切であり、そのためには、いつも頭の中に”チョウチョが飛んでいる状態を作れるようににすべきなのだろう。
とはいっても、九重などの山に行ってきたのではなくて、いつものこの集落の裏山を歩き回ってきただけのことなのだが。
少し前までは、標識もない登山口というか山道が始まる所まで、家から1時間ほどもかかって歩いて来ていたのだが、最近はすっかり横着でぐうたらになってしまい、そのわずかな距離さえもクルマで行くようになってしまったのだ。
さてそこから、いつものコナラやヒメシャラの、まだ冬枯れの林の中をゆるやかに登って行くのだが、休日以外にはめったに人に会うこともなく、細い木々の枝の間に青空がのぞいている中を歩いていると、いつも自分が今、自然のただ中にいるのだと実感するのだ。
やがて、薄暗い静まり返ったスギ林の中を登って行き、枯れ沢に下って、再び雑木林の小尾根の斜面をたどり、そこを抜けると視界が開けて、カヤトの斜面からなだらかな尾根へと続いている。 風があったけれども、汗ばんだ体には心地よいほどだ。
所々にアセビの大きな株があって、ちょうど花が咲き始めたところだった。
まだ十分に開いてはいなかったが、鈴なりに咲く、白や、薄桃色に黄金色も交えた株が点々と連なるさまは、山の春を告げるにふさわしい眺めだった。(冒頭の写真)
ともかく、頂きの所まで行って周りの山々の眺めを楽しみ、帰りは旧道の急斜面が続く道を降りてきた。
この道は一時荒れ放題になっていて、歩くのもままならないほどだったがが、その後測量のための刈り払いなどが入って、今ではまた普通に歩けるようになっているのだが、やはりこちらから登る人は少ないようだ。
もっとも、昔の話をすれば、道が荒れるまでは最短のこの道を往復することが多かったのだが、雪の時には、両側のササが倒れ掛かってきていて、そこを抜けるまでが一苦労だった。 さて、その道をたどると、頂上から1時間ほどで降りてくることができるのが、思いもしないことが起きてしまった。
下りでのヒザの痛みである。3年前に大雪山は緑岳から下りで、ヒザを痛めてしまい、歩くのがやっとという状態で登山口の高原温泉にたどり着いたのだが、その時は往復7時間ほどの歩きだったのだが、今回はほんの3時間ほどにしかならない山歩きの下りで、ヒザ痛が起きてしまったのだ。
もともと、最近気になっていたのは左ヒザだけだったのに、今回は残り15分くらいの所で、それまでかばって下りてきていた左ヒザだけではなく、右側も痛みはじめて、一歩歩くたびに声をあげたいほどで、やっとのことでクルマを停めていた所まで戻ってきたのだが。 確かに思い当たる節はあって、最近ではぐうたらさに輪をかけて外に出るのも面倒になって、すっかりものぐさじじいになってしまい、今話題になっている”引きこもり中高年”問題をからめて言えば、そこで思わず下手な川柳(せんりゅう)を一句、あの有名な明治時代の”ギヨエテとはおれのことかとゲーテいい”にちなんで、”引きこもりおれのことかと隠居爺”・・・しーん。
ともかく、そうして登山回数がめっきり減っていたこともあって、厳しい生き物としてのおきてを知らされた気がしたのだ。
それは、私が歳をとったということであり、いつものように山に登るなら、もっと日ごろから坂道の上り下りなどの訓練をしておかなければならないということであり、年齢の分の歳相応の鍛錬が必要なのだということなのだ。
”老人よ大志を抱け”、そのためには、毎日鉛の靴を履いて20㎏のザックを担いで歩いている、あの”三浦雄一郎さんを見よ”というべきか、あの年寄りの鑑(かがみ)でもある85歳の登山家のことを思うのだ。
今回の、もう思い出したくもないような下山時のヒザの痛みは、私の山登りへの、行くかとどまるかを示唆する大きな警告だったのだ。
まだまだ登りたい山はいくつもあるし、ここであきらめて、ふんどしヨレヨレ姿のじじいになってはあまりにも情けない。
私は、少年漫画のように、キッと顔をあげまなじりをあげて、輝く瞳で、山を見つめながら思うのだ。”きっとくるーきっとくるー。
と言った口先の乾かぬうちから、いつものように、テレビの前で横になって、鼻をほじりながら、屁を一発こいて、馬鹿なお笑い番組を見ては、ひとりニヒニヒと笑っている、まあ薄気味悪い”クソじじい”ではありますが・・・はい私がその”空想じじい”ですと、おちまでつけて。
今回も、例の『ポツンと一軒家』の話で、毎回ごとにはなるが、やはり気になる話だからここに書いておきたい。
長野県は諏訪大社近くの山の中の一軒家の話で、先祖は近くにあった戦国時代の山城の武士だったというが、戦に負けて近くの山里に降りてきて、そこで山伏の一つである法印(ほういん、祈祷師、あの清水次郎長一家の法印大五郎など)の仕事を受け継いで、今は6代目になるという69歳のご主人と奥さんに、93歳なるというおばあちゃんの三人暮らしで、もちろん法印などは過去の仕事であり、今は棚田で米を作っているとのことだった。 その棚田で作った米を3人で美味しくいただきながら、脚の悪くなったというおばあちゃんが言うのだった。
”なんぼ貧乏であっても、家族が健康であったら、億万長者より幸せです。貧乏人は強いけんのう。”
残念なことは、こうしたおばあちゃんの言った言葉の意味が、若い時には決してわからないということだ。
様々な経験をしてきて、やっと年寄りになって、しみじみと分かってくるものなのだろうが・・・。
下の写真は、近くにあるベニシダレザクラである。 やはり、春はサクラよ、青空よ。