ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

いやしけよごと

2019-04-01 22:05:48 | Weblog




 4月1日

「新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)」

 言うまでもないことだが、あの『万葉集』全二十巻は、その編者でもあった大伴家持(おおとものやかもち、718~785)の、この一首を最後として閉じられている。
 しかし、今はもう”年の初めの初春”と呼べる時期を、とうに過ぎてしまったし、今ここでは雪も降ってはいないけれど、伝統的に続けられてきた日本の年号が変わるということで、何かとあわただしい世の中を見ていて、ふとこの歌のことを思い出したのだ。

 ”新年になった今日から、降り続いている雪だけれども、その雪が降り積もるごとに、良いことも重なり増えていきますように”
 大伴家持は、なんのてらいも他意もなく、素直な気持ちで、降り積もる雪を見て思ったのだろう、これからも人々によいことが続くような、平和な大和の国でありますようにと、併せて私たち歌人の歌が、今までこうして雪のように降り積もり、『万葉集』としてまとめらるほどになったように、これからも同じように歌人たちの歌が詠み継がれていきますようにと。

 それまで、気温が20℃ほどにもなるような日が続き、春本番を思わせるような陽気になっていたのに、一転、昨日から強風が吹き荒れて、気温も一気に下がって、今日は朝の気温1℃で、日中も7℃くらいまでしか上がらなかったし、東北や北陸地方も雪になり、中国・九州地方の山沿いでも雪が舞うだろうとの予報が出ていた。
 満ちてくる潮にも、寄せ波と引き波があるように、まだまだ季節は小さく出入りを繰り返しながら、それでも確実に移り変わっていくのだろうが。

 今回もまた、例の『ポツンと一軒家』を見て、いろいろと思うことがあって、どうしてもここに書きたくなってしまったのだ。
 特に今回は2時間半もの番組だっただけに、今までと同じような高齢者たちの住人の話であったとしても、そこにはそれぞれの人生模様が刻みこまれていて、そのおじいさんおばあさんたちの言葉が、深い意味をもって私の胸に響いてきたからだ。
 
 その中の一つ、四国の山奥に住む高齢者夫婦の場合。もともと兼業農家だったが、ご主人は若いころ、あの有名な別子(べっし)銅山へと働きに出ていたのだが、なんとこの家から片道2時間もかかる道を歩いて往復し、毎日通勤していたとのことだった、今元気でいられるのもそのころの山道通勤のおかげだと笑っていたが。
 銅山が廃止になった後は、林業作業の手伝いに出て、そのころから、庭づくりや樹々の剪定(せんてい)作業に興味をもつようになって、今ではこんな山奥の家なのに、独力で600坪ほどもある立派な日本庭園を作り上げていたのだ。
 さらには、木の切り株などを加工して作った見事な手工芸品の置物などがあって、小屋いっぱいになるほどに置いてあった。
 そんな自分だけの趣味に没頭するご主人を見て、結婚60年になるというおばあさんは、まじめな人ですからと黙って見守り、午前と午後それぞれのおやつの時間にお茶を運んでいって、二人で庭の景色を見ながら過ごすのが楽しみだと言っていた。

 これほど立派な庭なのに、もしおじいちゃんがいなくなった後はどうなるんですかと、取材スタッフが尋ねると、おじいさんは当たり前のことのように答えた。
 ”子どもたちは下の町でそれぞれに暮らしているし、親が持っていたものを守らなければならないということはない、好きにしていいと言ってある。
 わしが死んだ後のことなんか知らん。わしは生きとる間はこうして庭を作っていればいい。”

 さらに今回は、九州は熊本の山奥にある一軒家を探す旅がメインになっていて、それも目指すところには、それぞれに2㎞ぐらい離れた一軒家が5軒もある地区があって、それぞれに70代から90代までのご高齢のご夫婦や、一人暮らしのおばあちゃんたちが元気に暮らしていたのだ。
 そのうちの二人のおばあちゃんは、見合いをして他所から嫁いできたそうで、嫁入りの時には、下の家で嫁入り支度をしてカツラをつけ着物を着て、2㎞の山道を歩いて、2時間もかかって、当時電気も来ていなかったランプだけのこの家に来たというのだ、昭和の30年代の話しだそうだが。
 普通に考えれば、いまだにやっと小型車が通れるだけの細い道しかない、こんな不便な所にと思うのだが、おばあちゃんたちが言うには、祖先が苦労して切り開いた土地を放ってはおけないし、体が元気なうちはこの家にいたい、何より気兼ねなく一人でいられて、ここは天国ですと、明るく答えるのだった。

 きらびやかな都会の景観の中で、自分の子供を虐待(ぎゃくたい)してはその果てに殺してしまう親がいて、同僚の女の子の部屋に忍び込んで殺してしまう男がいて、ネット上の書き込みだけで知り合い殺されてしまう娘がいて、外国にアジトを構えてそこから”オレオレ詐欺”の電話をかけて9000万円ものお金をだまし取っていた若者たちの集団がいて、さらに日々刻刻、似たような都会型の犯罪は増えていき・・・、そうした都会の暮らしとは別に、周りにコンビニ一軒すらない不便な僻地の山奥での暮らし、介護施設に世話になることもなく、自分の力だけで毎日を生活していき、狭い自分の世界の中だけで、自分の“今を生きる”お年寄りたちがいて・・・。

 それは、私ごとき隠居老人がとやかく言う問題ではないのかもしれない。それぞれに、自分が選んだ人生なのだからとは思うのだが。
 しかし、自分の父親に虐待を受けて死んでいった子供の場合は、あまりにもつらい気持ちになってしまう。 
 大人になれば、それからの人生は自分の決断対応次第なのだろうが、しかし、親の保護のもとに育っていく子供の場合、すべてをゆだねて守ってもらっていた自分の親が、一転自分を攻撃してくる者になれば、子供はどこに逃げればいいというのだ。 
 子どもは、親を選んで生まれてくることはできないのだ。
 父親に虐待され、母親にも見放された子供・・・その娘はひとり風呂場で水をかけられて死んでいったのだ。
 誰にすがるすべもなく、やせ細った自分の体を抱いて。
 
 私は幼い時に父親と別れて、母親一人の手で育てられた。 
 死に物狂いで働き、私を育ててくれた母親の苦労もよくわかっている。
 まだ小学生になったばかりの私の手を引いて、田舎の誇りまみれの道を歩いていた母が、その小さな橋の上で立ち止まり、”死のうか”と私に言った言葉を今も憶えている。

 今日から始まった,NHKの朝ドラ『なつぞら』は、舞台が私のもう一つのふるさとである北海道は十勝地方の話であり、あまりドラマを見ることのない私が、最初から見ることに決めていたドラマなのだが。
 第一回目から、東京の空襲で母親を亡くした少女の話しであり、亡き父の戦友のおじさんの家に預けられることになり、不安な思いのままその家に行って、やさしい言葉をかけられて、思わず緊張が解けて、その家のお母さんの胸に飛び込んで泣き出すシーンがあり、私も同じ年頃のころ一人伯父さんの家に預けられていて、その思い出がよみがえり、思わず涙してしまったのだ。

 その母も今はなく、私はこの年まで生きてきた。
 そして、自分自身の胸に手を当てて、よく考えてみる。 
 多くの人の手助けと、数多くの幸運と不運、そして良かれ悪しかれ、これまた数多くの偶然によって、ここまで生きてこられた私の人生に、ただただ感謝するほかはない。
 さすれば、そうして生きながらえてきた私の人生を、最後まで自分の思いに沿うべく、このまま、わがまま気ままにまっとうしてみたくなる。
 ということは、外界世間の様々な出来事などに、いちいち気をまわすべきではないのかもしれない。
 より狭い自分のいる場所だけに目を配って、外の世界の話に一喜一憂しないことが、何よりも自分の気持ちを穏やかな状態に保つことなのかもしれない。

 前にもここで何度も上げている、あの江戸時代の医学者であり儒学者でもあった、貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』の中からの一節。

 ”老いの身は、余命久しからざる事を思い、心を用いる事わかき時に代わるべし。心しずかに事少なくて、人に交わる事もまれならんこそ、あいにあい(相似合い)てよろしかるべけれ。是も亦(これもまた)、老人の気を養う道なり。”

 ”世の中のひとのありさま、わが心にかなわずとも、凡人ならばさこそあらめと思い、天命をやすんじて、うれうべからず、つねに楽しみて日を送るべし。人をうらみ、いかり、身をうれいなげきて、心をくるしめ 楽しまずして、はかなく年月を過ぎなん事、おしむべし。”

(『養生訓』貝原益軒著 石川謙校訂 岩波文庫)

 今回は、『ポツンと一軒家』の話しから、別のことについて書いていこうと思ったのだが、ちょうど今日から始まったNHK朝ドラ『なつぞら』の第一回を見て、思わず幼き日の私の姿にダブって、ついついお涙ちょうだい的な話の展開になってしまったのだが、これは当初の本意ではないものの、考えてみれば、こうした哀しい経験こそが、良くも悪くも今の私を作っているのだからと、勢いのまま書いておくことにしたのだ。

 冒頭の写真は、庭のコブシの花、七分咲。
 それにしても、人生は長い話の連続ながら、ひと瞬(またた)きの間に、通り過ぎていくものだと、白髪まじりの老人はひとりうなずき思うのでした。

 

 

  


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