ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

テンペスト

2018-12-24 22:49:05 | Weblog




 12月24日

 暖かい日が続いていた。
 11月中旬に九州に戻ってきて、一か月余りになる。
 普通には、九州だから暖かいだろうと思われるのだが、わが家はその九州の内陸部にあるから、冬は寒くて天気が悪く、山陰地方なみの雪の日々が続き、クルマのタイヤをスタッドレス・タイヤに換えているのは常識だが、今年はまだその出番がない。かろうじて小雪が舞っていたのを見たぐらいだから、やはり暖冬だという長期予報は当たっていることになるのだろうか。

 さてそんな中、天気の日を見計らって、庭のあちこちの植え込みなどの刈り込み作業をした。
 植え込みの高い所では、樹の高さが3mほどもあるから、ハシゴに上がっての作業は危険極まりなく、今年の春にそのハシゴから落ちて大けがをしたくらいだから、できることならやりたくはないのだが、植え込みがふぞろいなボーボー頭になっているのを放っておくこともできないし、あとは、それらの大きな植え込みの木を切り倒してしまうしかないのだが・・・。
 もっとも、この剪定(せんてい)作業は、日ごろぐうたらな私の良い運動にはなるにしても、あちこち筋肉痛にはなるし、この危険な”年寄りの冷や水”の仕事がいつまで続くことやら。

 今回は前回までの、日本の古典とは入れ替わって、西洋の古典の一つでもある、オペラを主題にしたことを書きたいと思ったのだが、それを取り上げるはなから言うのもどうかとは思うが、現在のヨーロッパでのオペラは、その古典の精神である音楽そのものには、さらなる洗練さが求められるとしても、歌手オーケストラともにまずは申し分なく異存はないのだが、その舞台表現においては、その歌芝居が作られた当時の、意図された時代のものとしての伝統を受け継ぐのではなく、自分たちが生きている今の時代へと、置き換えているものが多くみられるようになっていて、そのことについて、一言書きたくなったのだが。
 取り上げたいのは、2週間ほど前にNHK・BSの”オペラ・アワー”で放映されたオペラについてである。
 この時の、番組の時間枠は4時間余りあり、前半の多くの時間は、あの有名なヴェルディの「マクベス」に充てられていた。
 何と言っても、キャストがものすごい。マクベスを今年77歳(!)になるというプラシド・ドミンゴがつとめ、相手役のマクベス夫人はアンナ・ネトレプコで他にも次代の歌手たちがそろい、オーケストラはベルリン歌劇場管弦楽団に、指揮がダニエル・バレンボイムという、一昔前の超弩級(ちょうどきゅう)の組み合わせでそれだけでも一見の価値があったのだが。
 そして、番組の始めでそのさわりのところが紹介されていて、それを見た時にもう私の見たい「マクベス」ではないと思ってしまった。
 本来、シェイクスピアが書いた脚本の舞台は、中世のスコットランドだったはずなのに、やはりここでも現代劇化されていて、その舞台上には、第二次世界大戦のナチスの時代をイメージさせる軍服姿が並んでいたのだ。

 いつも最近の、現代劇化されたヨーロッパのオペラを見る時に思うのだが、どうしてこうまでして現代の人々に迎合(げいごう)してまで、舞台を作り変えて上演しなければならないのだろうかと思う。 
 それは、オペラ離れが進む今の時代に、若い人たちに来てもらうための、営業的な打開策なのか、それとも演出家・スタッフ・出演者を含めた演じる側が、そうしたほうが芸術的に優れていると思うからなのか。

 それに対して思ってしまうのは、わが国の伝統を受け継いで上演されている古典芸能である、歌舞伎、文楽、能・狂言などの世界である。 
 もちろん、その成立当初の姿からは、様々な面で変わってはいるのだろうが、おおもとになるその演目の時代設定や、舞台背景は時代を受け継いで、変わらないように守り続けられているようだし、役者たちの”かた”によって、多少の個性的な違いはあるのだろうが、伝統芸として大きく逸脱するものではないということだ。
 確かに故中村勘三郎などが演目の所々に、現代を思わせる遊びを入れて今の時代の観客たちを喜ばせたものだったが、(あの勘三郎という不世出の才能を失ったことが現代歌舞伎界にとっていかに大きな損失だったことか)、それは古典芸能である歌舞伎というものの、基本的な枠組みを超えるものではなかったし、いずれにせよ、オペラの舞台が現代劇化されるというような、劇的な変化を求めるものではなかったと思うのだが。

 確かに、オペラは”歌芝居”であり、歌手たちのアリアやデュエットにコーラスなどの歌の部分が変わるわけではなく、舞台や衣装だけが変わるだけなのだから、そのうえ現代劇化することにより、今生きる人により理解されやすくなるだろうからと考えてのことなのだろうが。
 しかし、芝居を見ることとは違うけれど、例えば私は、ギリシア神話やギリシア悲劇の物語などを読むときに、頭の中に浮かべるのは、当時の陶器などに描かれているギリシアの人々の姿であり、何も現代のギリシア人たちの姿を思い浮かべているわけではない。
 
 ちなみに、私は若いころヨーロッパを3か月にわたって歩き回ったことがあるのだが、その時に私が感じたのは、確かにヨーロッパは大きな一つのくくりの中にあるけれども、北欧のノルディックや中欧のゲルマン、ケルト系の人種から、南欧と呼ばれるラテン系のイタリア、スペイン、ギリシアまでには明らかな人種の違いがあり、さらにはそこに東欧のスラブ系の人たちが加わるのだから、ヨーロッパは一つでありながら、まとまりのない人種のモザイク模様からなっていて、それは都市国家的に永遠に独立する部分があって、完全にまじりあい一つの色になることなどありえないと思ったのだが。
 人類は、アフリカを起源として世界中に広がり、それぞれに独自の言語と文化をを創り出して、自分たちの地域を作り上げていったのだろうが、それらの人々が、将来は一つに還元されて、もとの一つの形にまとまっていくなどということがありうるのだろうか。

 話がそれていってしまい、門外漢(もんがいかん)の私にとっては難しすぎる、人類の将来の話にまで及んでしまったのだが、ここでもう一度オペラの話に戻ろう。 
 その日、私はNHK・BSでの”オペラ・アワー”で放送された、メインのヴェルディの「マクベス」は見ないで、その残りの時間に合わせて組み込まれたような、もう一つのオペラ、パーセルの「ミランダ」の方を見た。 
 それは何より、演奏するのが古楽器演奏団体の”ピグマリオン”だったからでもある。
 最近ではすっかり、ルネッサンス・バロックの音楽だけを聴いている私には、おあつらえ向きのオペラだったからでもある。
 まず、ヘンリー・パーセル(1659~1695)については、そのアンセムと呼ばれる英国国教会のための宗教音楽や、いくつかの器楽演奏曲などをCDで聴いていたのだが、パーセルのオペラと言えばあのローマ時代の物語に題材をとった「ディドとエアネス」を知っているだけで、「ミランダ」というオペラがあることも知らなかったのだ。
 それもそのはずで、このオペラは、現代の構成作家が作った新作オペラということであった。

 つまり、あの有名なシェイクスピアの戯曲「テンペスト(あらし)」のその後の話を、構成作家がオペラ仕立てにして書き上げ、そこにバロック時代のイギリスの名作曲家である、パーセルの音楽を当てはめて作ったオペラだということだったのだ。
 話は、「テンペスト」のあらすじにまでさかのぼるが、ナポリ国王とミラノ大公らが乗っていた船が嵐にあい難破して、流れ着いた島には、昔、自分の弟の現ミラノ大公やナポリ王にはかられてその地位を追われた、プロスペローとその娘のミランダが住んでいて、復讐の念に燃えて魔法と学問を研究していたのだが、そこに流れ着いたのが国王と大公であり、彼らはプロスペローの復讐の矢面に立たされるが、そんな中で皇太子と娘のミランダが恋仲になってしまい、プロスペローはすべてを許して一行はナポリへと戻って行くのだが、ひとり残った彼は、舞台の幕が下りた後、観客に向かって、”されば私もそのお心にてこの身の自由を”と話しかけるのだった。
 そこで、その話の後日譚(ごじつたん)として、このオペラ「ミランダ」が書かれているのだが、もちろん時代は現代に置き換えられていて、ここでは主役になったミランダが,船の遭難事故にあって亡くなり、その葬儀が教会で行われている中、黒いマスクに白いドレスの花嫁衣裳姿で現れた(実は生きていた)ミランダが、父親に拳銃を向けて(写真上)、自分は我慢していたけれど、長い間、父親に絶対服従させられてつらい目にあってきたが、もうあなたのもとから離れて一人立ちしていくからという、現代劇によくある自立もののドラマになっていて、父親はそれを聞いて、私は死に行くだけだとつぶやいて、幕は閉じ、シェイクスピアの「テンペスト」のハッピーエンドとは違う、暗いラストになっていた。

 つまり、バロック時代の音楽を使っての現代劇オペラになっていたのだ。 
 私には聞きなれた、バロック時代の音楽であり、違和感なく聞くことができたし、最後の方でミランダが歌うアリア「あなたは男の偉大な力によって」が素晴らしかったし(別のCDでも聴いたことがあるような)、さらに言えば教会内が舞台ということもあって、天井の高さをいかしたその簡素な舞台設備が、静寂な空間を作り出していた。
 あのハマースホイの絵(2008年11月8日の項参照)に出てくるような、絵画的静寂感を再認識させられたのだ。
 教会音楽やオペラなどで伝えられる、響きの広がりと、静寂の存在感。 

 日本の舞台が横に広がり、高さ奥行の空間としては広がらない、その空間認識の違いは、逆に物語の進行を二極化してしつらえるには、必要不可欠のものなのだが。
 歌舞伎などの日本古典芸能の、時代を超えて受け継がれていく伝統は、セリフの”間”に込められた互いの阿吽(あうん)の呼吸のうちにあり、そこに、変わることなき人間の真実の想いが語り伝えられていくのだろう。

 いつも何ごとにも、それぞれに良いところと悪いところがあるものなのだ。
 ものごとの価値は、そこに見えるものだけにあるのではないし。

 暖かい日も終わり、冷え込んできた。三日後の天気予報には、雪のマークもついている。 
 さて今夜は、いつもの慣例でもあるが、バッハの「クリスマス・オラトリオ」を聴くことにしよう。

(参照文献:『夏の夜の夢・あらし』シェイクスピア 福田恆存訳 新潮文庫、作曲家レコード・コレクション2001 音楽之友社)


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