12月3日
雨が降っている。
そのせいでもあるのだろうが、朝の気温も高く10℃くらいもある。
冬の雪の日が好きな私だけれども、雪も降らないただ寒いだけの日よりは、確かにこうして暖かい日のほうがいい。
室温16℃、灯油ストーヴをつけなくてもすむくらいの、ちょうど境目の温度だ。
その温度なら、北海道の家にいたころは、薪ストーヴに火をつけているところだが。
少し時間はかかるが、そのストーヴの燃える炎で、あの家全体が少しずつ暖かくなっていくのを感じることができるし、居心地のよさは、何と言っても薪ストーヴが一番だと思う。
ただしあの家では、水が出なかった。
井戸が枯れて、もらい水に頼る毎日だったのだ。
何という不自由さだったことだろう。
この九州の家に戻ってきて、まず何よりうれしかったことは、蛇口をひねると(わが家は、今様のプッシュハンドル式ではなく、相変わらず何十年来使っている、旧式の蛇口のままである)、ともかくそこから勢いよく水が流れ出てくれたことである。
そんなことがわかるのは、私以外に、つい最近やっと水が出るようになった、あの周防大島の人たちだけだろう。
テレビのニュース映像によると、山口県本土と橋で結ばれていた、その島の人たちの生活用水は、その橋にとりつけられた水道本管に頼っていたのだが、こともあろうに外国船籍の貨物船がその本管をひっかけて破断してしまい、おかげで島の人たちは修復工事が終わるまで一か月もの間、給水車に頼る生活を強いられて、その不便さを嘆く声にあふれていたのだ。
私の北海道の家の場合、半年もの間であり、さらに来年はどうなるのかの見通しもたっていない。
しかし、今から心配したところで、どうなるわけでもない。
私がいない間に、水がこんこんと湧いてきて、そのそばに光に包まれた神様が立っていて、穏やかな声で私に問いかけるのだ。
”おまえが井戸に落としたのは、この金の斧(おの)かそれともこの銀の斧か、どちらの斧なのか”
”へいへい、神様お持ちしておりやした。なにね、わっちが落としたのはその、ひとりで家を建てて、苦労して井戸まで掘ったものですから、それが大変な仕事で、その途中で大切な金の斧も銀の斧も落としてしまいまして、その二本とも返していただけるとありがたいんですけど。”
そこで、今まで柔和(にゅうわ)な顔をしていた神様の顔色が急に変わり、怒髪(どはつ)天を衝(つ)く勢いで怒りはじめたのだ。
”なにゆうてんねん、ようそんなアホなこと思いつくわ。うそつきはドロボウの始まりやで、そんな人間は、天国には入られへんで、ほな出てゆけー。”
そこで、おなじみのバックグラウンド・ミュージックが流れる。
”天国いいとこ、一度はおいでよ。酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ。”ホンワカホンワカ、ホンワカワー。”(フォーククルセイダーズ「帰ってきた酔っ払い」より)
とか言って、夢で見ていればいいことで、来年北海道に戻ってそこで考えればいいことだ。
今は、この九州の家で、蛇口をひねればすぐに水が出る豊かな暮らしを、心嬉しく味わっていればいいのだ。
何と言っても、炊事洗い物が楽だし、去年取り付けたばかりのシャワートイレは使えるし、毎日好きな風呂には入れるし、その残り湯で晴れてさえいれば毎日洗濯できるし。
”水のある暮らし”はいいものだ。ただでさえ小汚いじいさんの生活は、水の潤いのおかげで、いくらかは人並みになるし、外見はといえば、それだけはあきまへんなー、タヌキじじいのままで。”
などと、あまり面白くもない、ひとりの”のりつっこみ”を楽しんでいるのですが。
さて、九州の家に戻ってきて、そんな具合にもう、水の心配がなくなったので、北海道にいたころにまして、グウタラな毎日を送っているわけなのだが、それだけにテレビや新聞などの一行一句の言葉が気になってくるのだ。
相変わらず「ブラタモリ」「日本人のおなまえっ!」「ポツンと一軒家」などを見て楽しんでいるのだが、今回は「日本人のおなまえっ!」についてだが、先々週は、京都清水寺周辺の名前が取り上げられていて、そのしばらく前の「ブラタモリ」で同じ清水寺が取り上げられていたから、重複して同じテーマになってしまうのではと心配したのだが、もちろんそれは余計な取り越し苦労というものであり、NHK同一局内の制作ということもあってか、テーマの切り口が異なっていて、なるほどと思えるように、全くの違う視点で作り上げられた番組になっていた。
さらに先週、その”京都編”の二回目で、お菓子の名前に始まって、京都の昔の貴族公家たちの名前や、茶道や生け花の家元の名前についてまで納得のいく説明がされていて、実に興味深かった。
前にも少し書いたことがあるが、私の父は京都の出であり、いまだにお墓が東山にあり、たまには墓参りに行くくらいだから、京都についてはまんざら知らないわけでもないし、それだけに余計に興味を引いたのだが。
中でも貴族公家たちの名前が、天皇や法皇から下賜(かし)された名前などは別にして、多くは自分の家がある通りの名前や、そばにある神社仏閣の名前をそのまま付けていたということであり、例えば、一条、三条、四条、九条などに姉小路、武者小路、油小路などもあり、さらにはお寺の名前から西園寺、徳大寺、花山院、冷泉院などもあって、枚挙にいとまがないほどである。
つまり、”日本人のお名前”は、上位の人から下賜され名付けてもらったもの以外は、多くは自分たちが住む所のそのわかりやすい地域の名前に従って、そのままに付けたことのようであり、その通則は貴族公家たちの場合も同じことだったのだ。
要するに、山田、山下とか川田、川上とか、あるいは田中、鈴木など、自分たちの住む地域につけられた地名を取って、そのまま自分の名前にしたものが多いということだ、
例えばこれも有名な話だが、鹿児島南部、薩摩半島の鰻(うなぎ)池のそばにある集落は、ほとんどが鰻という姓の人ばかりで、全国でもそこだけにしかないという珍しい姓でもあるのだが。
さらに、日本には世帯ごとの戸籍制度が整えられているから、その戸籍をさかのぼって行けば、少なくとも明治時代、いやその前の江戸時代くらいまでは遡(さかのぼ)っていくことができるのだろうが。
もっとも、現代に生きる私たちの時代なんて、人類創世の時代から見れば、ほんのひと時の刹那(せつな)の時間にしかならないだろうし、その間に様々な人間が混交しているわけであり、自分の祖先はと考えたところで科学的に言えば、時代を遡(さかのぼ)ればのぼるほど、それはもう漠然としたつながりがあるだけのことなのかもしれない。
つまり、今生きている自分の足元だけをしっかり見ることのほうが、確たる実体のない数百年前以上の祖先探しをするよりは、よほど大切なことなのかもしれないのだが。
しかし、思えば人間の血筋がどうのこうのという問題よりは、むしろ本来は実体のない人間の気質性向などのほうが、よほど日本人としての血筋を納得させる事柄なのかもしれない。
それは最近、あの有名な日本の古典文学『平家物語』を、またあらためて読み返してみて感じたことでもある。
この『平家物語』は、あの『徒然草(つれづれぐさ)』の中で作者の吉田兼好が書いているように、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)を中心とする集団によって書かれ(口伝文学としてたびたび書き改められ)たとされていて、鎌倉時代に成立したとされるが、日本最大の軍記歴史物語でありながらも、多様な人々の哀感を描いた優れた物語文学にもなっているのだ。
それは、あの宮廷での恋愛模様を描いた『源氏物語』とともに、日本の誇るべき二大古典物語文学の一つでもあるのだが、おそらくは日本人ならば誰でもその中の物語の一つ二つは聞いたことがあるだろうし、日本人の心の中のきわめて深いところでつながっていて影響を与え続けてきた物語であると、今さらながらに思う。
言うまでもないことだが、この物語は、保元の乱、平治の乱を収束させて、頂点に上り詰めた清盛を中心とする平氏一族の、その後の滅亡に向かって進みゆくさまが、様々な挿話を入れながら描かれている。
誰もが知っていて涙せずにはいられない、あの”祇王(ぎおう)と仏御前(ほとけごぜん)”の物語や、”平敦盛(あつもり)の笛”における熊谷直実(くまがいなおざね)の話から、その勇猛果敢さに思わず身を乗り出す、”宇治川先陣争い”や”那須与一の神業(かみわざ)の一矢”などなど、その中からとられた演目だけで、能や歌舞伎の芝居が成り立つほどに数多くあるのだ。
そして、今回読み直してもまた感じたことだが、この『平家物語』については、確かに言われているように、いわゆる”無常観”をその底辺にたたえながら、没落する平安貴族たちと新興してきた武士階級やそれらを取り巻く人々について、仏教や儒教思想の観点から眺めては、時に熱く時には冷静に書き記しているのだ。
思えば、今の時代はいざ知らず、平安時代から戦乱の長い時代を経て、江戸・明治・大正・昭和と、私たち日本人がたどってきた歴史の中に、この『平家物語』の精神性を、日本人の心の伝統として痛いほどに感じることができるのだ。
儒教思想的な”義”と仏教思想的な”報恩”の世界観。そして、”情”と”悲哀”が交錯する物語としての構成力。
それは、生仏(しょうぶつ)と呼ばれる盲目の琵琶法師の語りによって、平曲(へいきょく)として全国に広がり伝えられていったのだろうが、新聞・ラジオ・テレビ・インターネットのないはるか昔の時代、彼ら琵琶法師の弾き語りによる物語こそが、日本人の本質とも思われる”義”と”情”の土台となる気質を作り上げていったのではないのだろうか。
その影響力たるや、他に大衆伝達手段としてのメディアがなかった時代、深く広く浸透していっては、日本人の気質性向の大元となるものを作っていったのではないのだろうか。
古墳時代から、平安時代までの日本人の想いが、あの国民的詩歌集『万葉集』によって伝えられているとすれば、鎌倉時代から昭和の初期に至るまでの日本人の想いを代表してきたものは、まさにこの『平家物語』であったのだとさえ言いたくなるのだ。
そして、私たちが生まれた時代以降今日に至るまで、さらに将来に至るまでの思想的背景となるものは、混濁した現代の思想があふれる中で、見えてくるのは”アメリカ”という文字である。
それがどこに向かうのか、もう私たち年寄り世代のあずかり知らぬところであり、ただ後は、若い君たちの世代が決めることではあるのだが。
またまた何度も繰り返し、このブログに書くことになるのだが、どうしてもこの名調子の一節を書いておかずにはいられない。
”祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわりををあらわす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵(ちり)に同じ。”
(『平家物語』高木市之助、小沢正夫他校注 岩波書店)
前回掲載した紅葉の写真は、散りゆくものの一枚だったのだが、今回は、私がこの九州の家に帰り着いたころ、その一本だけ残っていたモミジの木の写真だが、ちょうどその時、盛りを迎えるころだった。
緑の葉と黄色のにじみと真新しい赤色がともにあって、すべてが赤くなる前のこれからがまだあるという紅葉の鮮やかさ(写真上)・・・。
美しきものは、これからそこへと向かうものたちにこそ強く表れてくるものであり、そこを通り過ぎてきた私たちには、今にして見えてくるものもあるのだが。