ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

祇園社

2018-12-10 22:16:39 | Weblog




 12月10日

 数日ほど前、九州各地では、25℃を超える夏日になったところが多くあり、その中でも大分県国東市(くにさきし)国見では27℃を記録したというが、山の中にあるわが家でも、とても12月の気温とは思えない22℃近くまで上がっていた。
 それが、わずか数日ほどたった一昨日から昨日今日と、打って変わっての陰鬱(いんうつ)な空模様になり、雪がちらつき、気温は-3度まで下がり、一気に真冬へと季節が進んだのだ。
 そして、北海道十勝地方の陸別では、昨日今日とダイヤモンド・ダストが見られるほどに、気温が-23℃まで下がったとのことで、数日前の九州は国東での最高気温と比べると、日本列島内で、何と50度を超える寒暖差となったのだ。

 もし私が九州の国東に住んでいて、北海道の陸別に行ったとしたら、もう負け犬がおびえたような眼をして、しっぽを股の間に引き込んで、キャイーンキャイーンと哀しい声をあげることだろう。
 雪に覆われた山々を見る楽しみはあるが。 
 南北に長い日本だから、そこに寒暖の差があるのは当然にせよ、この数日の気候の変わり方には、この後に来るかもしれない、何か大きな変化の予兆ではないのかとも思ってしまうのだ。

「ヨハネの黙示録」

 ”イエス・キリストの黙示”である。
 誤った道を歩む教会や人々に、神の御使いがいましめの言葉を与える。
 神の御座にある巻物には七つの封印があって、その封印を解くことができるのは、白い子羊だけであった。
 そして、その封印の一つ一つが解かれていくたびに、戦争や飢饉(ききん)が起きて、さらには地震と天災も続く。
 次に七人の天使たちが現れて、それぞれにラッパを吹き鳴らすと、さらに大きな天変地異(てんぺんちい)が起きて、地球上に幾つもの災難が降りかかり、歓楽の都バビロンも崩れ落ちてしまう。
 さらには、神の怒りに満ちた七つの鉢(はち)を、七人の天使が受け取り、空に傾けると、地球上に様々な疫病や災いが起きて、地球上の島や山々も消え果てしまう。
 そしてすべてが収まった後、キリストの再降臨があり、生き残った人々は、神を賛美するのだ。

(以上『聖書』の中にある「ヨハネの黙示録」よるが、Wikipediaも併せて参照)

 そこで思い出すのは、二つの映画。
 『第七の封印』 イングマール・ベルイマン監督 1957年のスウェーデン映画 聖書の「ヨハネの黙示録」での話をもとに、舞台を中世の十字軍時代の北欧に移して、人間の生と死の根源的問題を、初期のキリスト教と原始宗教との対立としてもとらえ、幻想的な風景の中で描き上げた、まさに映画史的に記念碑的な一本であり、最近は、もう十数年以上も新しい映画を見ていないから、あくまでも昔の映画の中からという但し書きはつくとして、ともかく私の好きな映画の中でも、昔から変わらずにベスト5の一本であり続けた映画である。
 もう一本は、『地獄の黙示録』 フランシス・フォード・コッポラ監督 1980年アメリカ映画(2001年同監督編集による完全版公開) 同じく聖書の「ヨハネの黙示録」を、その戦争状況の底辺に暗示させて、ベトナム戦争時の戦地のただなかにあるアメリカ兵たちの追い詰められた状況を、現実的な生と死の問題として取り上げた名作であり、ヘリコプター部隊が編成を組んで飛んでいくときに背景に流された、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』の序夜に続く第一日の上演「ワルキューレ」、その中で演奏される「ワルキューレの騎行」の音楽が、今でも頭の中に響いてくる。
 さらに言えば、全編を通じて、いかにもアメリカ的な、人間のひたむきさと猥雑(わいざつ)さとやり切れない悲哀とを感じさせてくれたこの映画は、同じアメリカの作家、ノーマン・メイラーが書いた小説『裸者と死者』の世界を思い起こさせるものだった。

 最近の、グラフィック・コンピューターで作画された冒険アクション映画や、アニメの世界として作られた映画に、さらには、ありもしない異次元世界に入り込む映画などなど、現実感のない世界を見せつけられるだけの映画を、私は見たいとは思わない。 
 それまでの映画が、現実的な倫理観と哲学的な思想と芸術性にあふれていた時代、つまり映画の全盛期と言われる時代に、青春期、成人期を送ることができた私たちは幸せだったのかもしれない。 
 これからも、新しい映画は見ないとしても、決して後悔することはないだろう。
 今では、ただひとり、思い出の映画の大海の中、金波銀波と輝ききらめく、映画の一本一本を思い返し、気が向けば録画したDVDやブルーレイディスクをひとり見ては楽しむこともできるのだ。
 ゆらゆらと、それらの映画の思い出の波の中に漂っているだけでも、十分なのだから。
 ああ、淀川長治先生、萩昌弘先生、若いころにいろいろといいお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。

 にぎやかな所があまり好きではない私には、ひとりで見る映画やひとりで読む古典・小説、ひとりで聞くクラッシク音楽にひとりで登る山などは、まさに自分にはうってつけの趣味なのかもしれない。
 そうした人間だから、行列のできる店に長時間並んで、やっとのことで評判の料理を食べるくらいなら、家で”うまかっちゃん”のインスタント・ラーメンに、ワカメと卵にネギでも入れて、自分で作って食べたほうがましだと思う。
 以上、総額約150円也、とじじいはひとりほくそ笑んでいるのであります。

 さて先週の例のNHKの「日本人におなまえっ!」はさらに京都編が続き、銀閣寺の話ではかなり「ブラタモリ」とダブっていたし、これもまた同じ話になるところもあったのだが、あの祇園の八坂神社が昔は”祇園社”と呼ばれていて、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)神仏分離の影響で、仏教的な名前の祇園という名前を改めるようにとのお触れが出て、やむを得ず”八坂神社”と言う名前に変えたということだったのだが、そこで初めて私は気づいたのだ。
 前回あげた、「平家物語」の有名な冒頭のところ、”祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。”の一節では、今まで”祇園精舎”とは、それまで読んでいた本の解説にある通りに、その当時に釈迦と弟子たちが住んでいて信者たちも来ていた、お寺の名前からきているとのことだし、病気になった僧たちが死ぬときにひとりでに鐘が鳴ったという話から、その鐘の響きを意味しているものなのだろうが、私はもっと現実的に、当時の日本のこととして考えてみたいと思ったのだ。 
 つまり、単純に考えれば、平安時代の京都に住んでいた作者の信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)と思われる人物が、当時の祇園社と呼ばれていたころの鐘を聞いていたからではないのか、その鐘の音に平氏の全盛の時代を懐かしみ憐れんでいたからではないのかと。

 さらには沙羅の木の花が、釈迦が亡くなった時に色あせたと伝えられているが、当時日本では育たないとされていた沙羅の木であり、実は当時似た名前の木があって、それは”ナツツバキ”、つまり今にいう”ヒメシャラの木”だったともいわれていて、あのツバキの花が変色し落ちるさまは哀れなものであり(ツバキの花は、落首する如く落ちるので生け花には使われないほどであり)、この平家物語の作者はそういうツバキの花を見ていたからこそ、それを本当は知らない沙羅の木に見立てていたのではないのだろうかと。

 私が読んだ二種類の「平家物語」(岩波書店刊、角川書店刊)の解説には、この一節はいずれも釈迦が住んでいた所での話として書かれていたし、それが学説的には正しいのだろうが、ふと私は、作者が平氏全盛のころの祇園社を懐かしんで、そういう意味も含ませて、あの一節をはじめに持ってきたのではないのかと、これは何の根拠もない素人考えの妄想でしかないのだが。
 まあこうして間違った解釈をしたとしても、他に実害を与えないことが、まさに素人考えの自由気ままな所であり、そういうことがあったのかもしれないと自分で思っていればいいだけの話だ。

 もう一つの「ブラタモリ」の方は福井県の話だったが、あの有名な江戸時代の貿易港三国港の防波堤は、明治時代に外国人技師によって作られていて、それも海岸地形や堆積する砂のことを十分考えて設計されていたことを知って、初めて納得したし、私も母を連れて行ったことがあるのだが、東尋坊の柱状節理で形作られた一本の柱が、大きいものでは1m近くもあると知って、あの時はそのことに気づきもしなかったのだ。

 私の、長い人生の中で、今では様々な思い出が心の中に積み重なっているけれども、そうしたものとは別にまだまだ知識を蓄えられる場所があり、いつも思うのだが、幾つになっても、新しい世界を知ることができることは楽しいものだ。 
 そうした未知の知識に出会うことに喜びを感じること、そのいつまでも衰えない好奇心こそが、これまた人間の人間たるゆえんの一つではないのだろうか。

 今回は、前回に続いて「平家物語」にちなむ題名を考えて、そのことについて書いてみようと思っていたのだが、書いているうちに話がそれて行ってしまい、そのまま、キリスト教と仏教についての話をかいつまんで取り上げてみただけになってしまった。
 そのために、後で花の写真も差し替えることになってしまったのだが、始めに書いたように、この九州の山の中のわが家でも急に寒くなってきて、毎日-3度くらいまで冷え込んで日中も5℃まで位しか上がらないのだが、そんな中でサザンカの花が今を盛りと咲いているのだ。
 多くの花が春から秋までの暖かい季節に咲くというのに、サザンカやツバキの類は、何を好んで寒い冬に咲くのだろうかとも思うが、それは受粉のための虫たちを相手にするわけではなく、渡ってきた鳥のヒヨドリたちに受粉させてもらうために咲いているのだろうが。
 みんなそれぞれに、ゆえあって、工夫を凝らしながら生きているのだ。
 
 上の写真は、近くの家の生垣として植えられているものだが、白いサザンカの花は、上の「平家物語」のところで書いたように、白いナツツバキ、ヒメシャラの花を思い浮かべるように、同じツバキ科の花としてここに載せてみた。