ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

六道の沙汰

2018-12-17 22:19:48 | Weblog




 12月17日

 寒い日が続いて、時折日差しの暖かい日があり、再び寒い日が続く。
 こうして、冬の日々は黙々と歩みを進めていく。
 そうした月日の過ぎゆく中で、われわれ生きとし生けるものは、その大きなくくりの自然の中で、生かされ生きてゆくだけである。
 いつの時代にも、清濁併せ呑む(せいだくあわせのむ)この世の動きの中で生きてゆくしかないのだ、命ある限り・・・。

 今回も前回、前々回と同じく、少しずつ取り上げてきた『平家物語』についてであるが、おそらくはそのすべてについて書いていけば、あの『万葉集』と同じく、取り上げるべき項目が数限りなく増えてゆき、とても私の命の続く間に書き終えることはできないだろう。
 それでも今回、この一つだけは外せないと取り上げることにしたのだが。
 この『平家物語』は、時代を追って巻ごとに、平家の栄枯盛衰を描いているのだが、最後の第十二巻の末尾の章”六代被斬(ろくだいきられ)”では、平家の嫡流(ちゃくりゅう)である維盛(これもり)の子、六代(ろくだい)が、ついに鎌倉に近い田越河(たごしがわ)で処刑されて、”それよりしてこそ平家の子孫はながくたえにけれ”、となるわけであるが、それに続く別巻として設けてあるのが、以下について書く「平家灌頂(かんじょう)巻」であり、やはりこの巻があってこそ、鎮魂歌としての『平家物語』の意味があるのだろうと思う。

 あの源平最後の合戦である壇之浦(だんのうら)の戦いで、もはやこれまでと悟った二位殿(亡き清盛の妻時子)は、八歳の孫である安徳天皇を抱きかかえて海に入水し、さらにその後を追って建礼門院(けんれいもんいん、高倉天皇の中宮であり清盛の娘徳子)も続いたのだが、海の中でもがく中、源氏の船に引き上げられて一命をとりとめることになった。
 そのまま京都に連れ戻され、東山のわび住まいをする中で出家した後、周りの人々の差配もあって、京都を離れた大原の寂光院(じゃっこういん)に移り、そこに作られた庵室で、わが子安徳天皇や平家の人々の菩提(ぼだい)をとむらい、念仏の余生を送っていた。

 この『平家物語』最後の巻が「平家灌頂巻」と名付けられているのは、本来”灌頂(かんじょう)”とは”香水を頭上にそそぐ”ことであり、仏教用語で弟子が師から法を受けるときの儀式を意味しているとのことであるが、作者がこの『平家物語』の締めくくりとして、この別巻を付け加えたことには、平家盛衰史としての物語だけではなく、そもそも、この物語の初めに掲げた有名な一節、”祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり”と呼応する形で書かれていて、この世の無常観が大きな主題であることを、改めて意識させるためだったとも思えるのだが。

 都を離れた大原の里、その寂光院の庵室で念仏をあげながら、日々質素な生活を送っているる建礼門院のもとに、話を伝え聞いた後白河法皇がお忍びの御幸(ごこう)で大原を訪れる。
 建礼門院徳子にとって、後白河法皇は自分が嫁いだ高倉天皇の父親であり、二人は舅(しゅうと)と息子の嫁という間柄であり、なおかつ最後の平家追討の院宣を下したのも、他ならぬこの後白河法皇である。
 その後白河法皇が、出かけているという建礼門院の帰りを待っていると、山の方から、濃い墨(すみ)染めの衣を着た尼が二人、崖路を伝って下りてくる。
 やがて、その女院も法皇一行に気づいて足を止めた。
 見つめ合う、法皇と女院・・・二人の眼に涙があふれてくる。

 女院は、落ちぶれたわが身をさらすことをためらいながらも、涙ながらに法皇と対面し、これまでの自分の栄枯盛衰の体験を六道の沙汰(ろくどうのさた)になぞらえて語った。
 法王は、天人五衰(てんにんごすい、三島由紀夫『豊饒の海』の第四巻)の悲しみは、人間誰にでもある悲しみであり、人間は六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅(しゅら)、人間、天道の六道)の輪廻(りんね)の中で無限に生き続けるほかはないのに、ひとときの間にそれを経験したのはありがたいことでもあるのだからと、この女院を慰めるのだ。

 やがて、寂光院の鐘が日暮れの時を告げ、名残り尽きない二人は涙をおさえて別れを告げ、女院はその法皇一行をいつまでも見送っていた。
 しばらくたって、女院は病床に伏し、ともに暮らす局(つぼね)と内侍(ないし)の二人の女房に看取られながら息を引き取った。
 建久二年(1191)如月(きさらぎ)中旬のことである。

 (以上、日本古典文学大系『平家物語』高木市之助、小沢正夫他校注 岩波書店、『平家物語』角川書店編)

 ・・・と、『平家物語』には書いてあるが、彼女が生まれたのは久寿二年(1155)とされているから、17歳で高倉天皇の中宮になり、壇ノ浦の入水の時が30歳であり、翌年大原の寂光院に隠棲(いんせい)することになり、それから数年後の36歳の時にこの世を去ったことになる(最近ではその22年後の1213年に亡くなったのではないかという説が有力とのことである)。
 ともかく、わずか30年ほどの間に、極端な栄枯盛衰の時々を味わった、彼女の人生こそ、まさに波乱万丈の一生だったと言うにふさわしいだろう。
 
 前回も書いたように、私はこの『平家物語』が、当時の琵琶法師(びわほうし)の語りによって、広く日本人全体に親しまれては浸透していき、後年言われるような日本人の特質の一つである、”義”と”情”に従いがちな性向をはぐくみ、普遍化させていったのではないのかと思っているのだが、さらにそれを支えてきた感情が、もののあわれに対する想いであり、大きな四季の変化がある日本の中で、常に変わりゆくものの姿を見てきた日本人の、誰でもが持つ、か弱き者に対する同情の想いではなかったのだろうか・・・。
 今回取り上げた、この『平家物語』の「平家灌頂巻」こそ、つまり栄華を極めた建礼門院の落ちぶれ零落(れいらく)した姿こそ、昔を知る後鳥羽上皇が抱く思いと、同じ目線で今の私たちが見る思いであり、その憐れみと哀しみこそが、この場面に如実に表れていると思うのだが。
 特に、山道を戻って下りてくる、粗末な墨染め衣姿の建礼門院と、豪華な法衣をまとった後白河法皇の互いの視線が合い、そこに流れる沈黙の時間のひととき、かすかに風の音がして遠くに鳥の声が聞こえてくる・・・。
 そんな、映画の一シーンになるような情景・・・。

 話しは変わるが、先週のいつもの「ポツンと一軒家」(テレビ朝日系列)でのことだが、今回は福島県の山奥にある一軒家に二人で住んでいる高齢者夫婦の話であり、夫は87歳で妻は83歳にもなるという。
 そのおばあさんが言うには、19歳の時にこの家に嫁に来たが、米を作っていた兼業農家だったから、食いっぱぐれることはないと思っていたと、あっけらかんに笑っていた。 
 確かに、山の中でも6反(6たん、約1800坪)もの田んぼがあってというのは、兼業農家としては十分なほうであり、夫は農家仕事の合間に林業作業にも出ていたというから、それほど苦しい家計ではなかっただろうが、よそから嫁に来ればどこの農家の嫁でも同じことで、大変なことに変わりはなかったのだろうが、その明るいおばあさんは、今ではひざが悪くてあまり歩けないと言っていた。 
 それにもまして、87歳の夫の元気なこと、腰は少し曲がってはいるが、山道をすたすた歩き、いまだに現役で林業作業に精を出していた。(下にはいている雨具のズボンはあちこちガムテープで補強しつくろってあった、私もそうだが。)
 そして、取材陣の目の前で、ちょうど仕事の途中だったという間伐(かんばつ)作業を見せてくれた。
 裏山の手入れされたヒノキ林の中で、チェーンソーで20㎝くらいの木を切り倒し、その木が他の木の枝に引っ掛かってしまい、いつものことだからと慣れた手つきで、上のほうにロープをひっかけては引き倒していたが、このおやじさんよりははるかに若い私が、北海道の家の林で同じことをやっていて(もっとも木の大きさが違うが)、ともかく弱音をあげて、もう年だと言っている場合ではないとさえ思った。 
 マキ割りの時も腰の入った斧の振り下ろし方で、とても90歳近いおじいさんとは思えなかった。
 私があの年になった時に、はたして同じことができるだろうかと思うが、というよりはあの年まで生きることができるかどうかのほうが問題なのだが。
 こうして、まだまだ私が励まされることの多い、田舎暮らし山暮らしの人たちがいて、ありがたい人生の先達(せんだつ)たちがいるということだ。 
 そして、二人は言っていた、下の町に降りてマッチ箱のような家に住むくらいなら、ここにいたほうがいい、なんたってのんきでいいし、車も走っていないから安心して歩けるし、どちらかが、倒れるまで、ここで暮らすつもりだと。
 
 さらにこの番組の前にあった別の番組でも、移住者の田舎暮らしの特集をやっていて、少しばかり見たのだが、都会から移り住んできた若者たち20人ほどが、自分たちだけの集落を作っていて、これは、なかなか将来に向かって楽しみなことだし、あの昔のカリフォルニア一帯で広がったフラワー・チルドレンのことを思い出すのだが、ともかく新しい田舎志向の生き方だと思って見ていたのだが、この番組の時もそうだったし、この後の「ポツンと一軒家」でもそうだったのが、毎回こうした番組を見ていて思うことだが、録画ビデオを見た後での、スタジオ出演者たちのどうでもいいようなコメント話には違和感を憶えてしまうのだ。
 早く言えば、その番組をスタジオで見て、何の興味もなく茶々を入れているだけのタレントたちについてだ。
 テレビに出るだけで、普通のサラリーマンがとてももらえないようなギャラをもらい、豊かで便利な都会生活を送っている人たちの場違いな発言に、本当にこんな暮らしに興味があるから出演しているのだろうかと思ってしまう。
 スタジオで収録番組に出演している都会に住む芸能人たちと、現実に不便な田舎暮らしをしている人たちとの間の、大きな意識の乖離(かいり)。
 まあ、どこでもどの時代にも、そうしたことはよくあることなのだが。
 ともかく、テレビ局側の制作スタッフが(ナレーターを含めて)真摯(しんし)な態度で臨んでいるから、視聴者の私たちにも両者の気持ちが伝わってきて、時にはあたたかい気持ちになり、時には感動するほどだから、この番組を楽しみにしているのだが・・・この番組を録画する時には、現地ロケの所だけで十分だから、スタジオ出演者の部分はカットしたいくらいだ。

 上の写真は、赤い実をつけているセンリョウなのだが、植えたわけでもないのに、今では庭のあちこちから芽を出して、それぞれに少しずつ大きくなってきている。
 これからは、今のトゲのあるピラカンサよりは、このセンリョウで生垣を作ってみたいと思うほどだ。
 ところで、この赤い実をつけたセンリョウの絵をどこかで見たことがあるのだが、日本画なのは確かだが誰の絵だったのか・・・。 

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