(この記事は昨日1月9日に書いたものだが、なぜかこのGOO・BLOGに投稿できずに。それまでに追加して書いた部分までもが瞬時に消えてしまった。繰り返し失敗すること2回。今日になってようやく回復したようで、改めて、昨日書いて保存していた部分をもとに、おおよそ同じ様な文章を書くことができたので、日付は昨日のままで掲載することにした。)
1月9日
相変わらずに、暖かい日が続いている。
昨日の夜にかけて、久しぶりにまとまった雨が降った。
いつもの年ならば、この雨は雪になっているはずなのに、今の時期に雨の音を聞くのは、どことなく違和感がある。
もっとも、その雨も東日本では雪に変わり、長野から関東の山沿いにかけてはかなりの雪が降ったとのことで、この冬に雪の日が少ないのは,九州四国だけなのかもしれない。
さらに、ロシアには寒波が押し寄せているそうで、モスクワから少し離れた所では、クリスマスに-38度という記録に残る寒さだったとかで、さらに北極海の大氷床の一部に大きな亀裂が見つかり、今後それが割れて流れ出していけば、海面上昇につながる恐れもあると、テレビ・ニュースが報じていた。
もちろん、何もかもを、地球温暖化に結びつけるべきではないのかもしれないが、日本でも、去年の東北・北海道への台風上陸のことなども考え合わせると、こうした世界的な異変こそは、ただでさえ地球の環境破壊に敏感になっている、多くの科学者や各種研究保護団体にとっては、さらには実際に海面上昇の被害を受けている、太平洋の島国国家などにとっては、決して看過できない、愁眉の急(しゅうびのきゅう)を要する一大事であるに違いない。
しかし、それ以外の世界のほとんどの人々にとっては、そんな遠い先の心配よりは、目先の今をいかに生きていくかという思いだけでいっぱいなのだろうし、たとえ記録的な大雨が降ったり、大雪が降ったぐらいでは、単なる一時的な天災だとしか思わないのだろう。
まあ、すべての物事には、絶対的信奉者と絶対的反対派がいて、それ以上に圧倒的多数を占めるのが、あの欅坂(けやきざか)46のデビュー・ヒット曲 「サイレント・マジョリッティー」ではないけれども、”物言わぬ大多数”、つまりそんなことには関心もない人たちなのだろう。
それでいいのか。それでいいのだ。
何事も起きなければそれでいいし、もし現代の科学的預言者たちの予測通りに、地球大異変の事態になれば、すべての人々が”七つの大罪”(邪淫、貪食、貪欲、怠惰、憤怒、羨望、高慢)を犯した罪への後悔の言葉をつぶやきながら、ダンテ『新曲』にある、地球に空いた深い穴の”地獄”に落ちていくしかないのだから。(ダンテ『新曲』 寿岳文章訳 集英社)
まあ、もともと人間そのものが、罪深い業(ごう)を背負って生まれてきたものだから、そうなったとしても、本来の”人間の性(さが)”ゆえに、報いを受けるのだと言えないこともないし、それならば、同じように自分の思うままに生きてきて、”利己としての死”(日高敏孝著 弘文堂)に至るまで、あくまでも個としての本能に従い生きるべく運命づけられた、動物たちとの違いはどこにあるのだろうか。
それはただ一つ、神の領域を侵(おか)したか、それとも神の領域に従い生きてきたかの違いだけでしかないのだが、それにしても、何という決定的な一線であることか。
前回の記事のタイトルにあげたように、人間の保護のもとにありながらも、決して動物の本能を失うことなく生きてきた、あの”浜辺の王様”のネコは、それでいいのだろうが、悲しいかな、その依存する人間社会が崩壊すれば、彼らもともに巻き添えになって、いわれなき”七つの大罪”のために地獄に落ちていくしかないのだろうか。
人間であることと、その他の動物であることの差は、人間だけが高度に発達し続ける脳を持ったことによるものなのか、それでは、心は・・・それもまた脳の働きに隷属(れいぞく)しているだけのものなのか・・・。
ただ言えることは、それはほんのささやかなことでしかないけれど、人は年をとればとるほど、”七つの大罪”からは少しづつ離れて行くのではないのか・・・。
これは、卑近(ひきん)な例にしかならないけれど、間近で、母の死を、そしてミャオの死を見てきた私には、両者の死の区別はつけられなかったし、もとより悔恨(かいこん)すべき罪の気配さえ感じられなかった。
ただそれぞれに、眠るがごとくに、ひとりで、自分だけの世界へと行ってしまったのだ。
私は今、生きていたころのその二人の無欲恬淡(むよくてんたん)たる世界に、少しだけ近づいて来ている気がする。
それは、何々したいという欲がなくなってきたとかいうことではなく、つまり私はまだまだ山にも登りたいし、本も読みたいし、音楽も聞きたいし、映画も見たいし、絵も写真も見たいし、などなどとあるけれども、衣食住に関しては、今のままで事足りていれば十分だと思っているのだ。
衣類は、靴下下着類を除いては、もうほとんど買うことはない。2年前のバーゲンで、980円のダウンジャケットを買ったのが最後だ。
食べ物は、基本的に家での簡単な自炊であり、外食することなど年に数回しかないし、別においしいものを食べたいとも思わないし、美食家ではなく粗食家であることが、むしろ私にとっては楽なことでもある。
家は北海道の家ともども古くなってきて、すきま風が多く寒いけれど、がまんできないほどではないから、それで十分だ。
クルマは15年目になるし、北海道のクルマは7年目の中古車をもう11年も乗っている。
ここまで書いてきて思ったのは、私がいつしか”恥知らず”な人間になってきているということだ。
それは普通言われている、不道徳な恥知らずの意味ではなく、また他人に迷惑をかける”厚顔無恥(こうがんむち)”の意味でもなく、ただ自分の身なり、住まい、食べ物に無頓着(むとんちゃく)な、恥も外聞も気にしない、”田舎のじいさん”になってきているということだ。
パチパチパチ、おめでとうございます。この”引きこもり老人”生活こそが・・・実は、私の望みだったのだから。
”なんのこっちゃ” と言われそうだが、長々とここまで書き綴ってきたのは、まさに私の年頭に際しての思いを、自らに言い聞かせているようなもので、早い話が、相変わらずぐうたらなまま、こぼれイモのふんどしをひらひらさせながら、”ちょうちょちょうちょ”と言って歩き回る、じじいの生活を続けていきたいということであります。
どや、これがあのネコの”浜辺の王様”ならぬ、”田舎の王様”の生活やで。
と言いながらも、引きこもりの気ままな王様の生活にも飽きて、数日前、天気にも誘われて、山道のずっと上の林の所までの往復2時間の山歩きをしてきたのだ。
さらに上まで行けば、頂上からの見晴らしがあるのだが、雪もない冬枯れの山の頂きではそれほどの魅力もなく、まだ不安なヒザのことを考えると、この林の辺りまでが妥当なところだった。
途中で、所々で展望が開けて周りの山々の姿が見えたが、雪もなく、ただの冬枯れの山の光景が広がるばかりだった。
九州の山は、雪が降ってすぐの晴れた日に行くのがベストであり、この冬はそんな日が二日あったのだが、いずれの日も休日で混雑を恐れて、数少ない機会の雪山に行かなかったことを、今では少し後悔している。こんな暖冬の冬には、ともかく雪が降ったらすぐに山に行くべきなのだ。
もう前回の紅葉登山からは、2か月近くもの間が空いている。
ともかく歩きたいと、坂道を登って来たのだ。
新緑のころ、紅葉のころ、霧氷がつくころと、それぞれに季節を楽しむことができるのだが、今では、このヒメシャラの林の下は古い枯葉が散り敷いているだけで、静まりかえっていて、振り仰ぐ青空に樹々の枯れ枝模様だけが鮮やかだった。(写真上)
それでも、里の静けさとは違う、山の静けさの雰囲気が居心地よかった。
帰り道は、少し遠回りになる別の道を下って行った。
所々に、ススキやカヤのきつね色の草原があり、青空や遠くの山との対比がきれいだった。
私は、ふとあの伊豆の山々での、同じ青空ときつね色のカヤトの斜面を思い出した。もう何十年も前のことだ。
そのころ、東京で学生生活を送っていた私は、学校の春休みを利用して、伊豆半島にある達磨山(だるまやま、981m)に登ることにした。
その時に自分で撮った写真が数枚あるだけで、その写真に写る場所での記憶はあるのだが、その他の記憶はほとんど残っていない。
おそらくは、当時の国鉄電車で三島まで行って、そこで伊豆箱根鉄道に乗り換えたのか、直接バスに乗ったのかは憶えていないが、ともかく修善寺(しゅぜんじ)まで行ってそこで土肥(とい)に向かうバスに乗って、船原峠に着いたところでバスを降りたのだ。
そこから、砂利道伝いに尾根道を登り、先はずっと展望の良いカヤトの中の登山道が続いていて、達磨山山頂では、さえぎるもののない360度の展望が広がっていた。もちろんそこからの最大の眺めは富士山だったのだが、快晴の空にもかかわらず、周りの海や山はかすんでいた。
これでは見えないかも、と思って北側に顔を向けると、それでも信じられない高さで、雪に覆われた富士山が雲の上に浮かんでいた。
頂上からは反対側の戸田(へた)峠に下り、バスで終点の戸田の漁港に行って、そこで民宿に一泊したのかどうかはよく憶えていないが、そこからは、波間の富士が見たくて、定期船に乗って沼津まで行ったのだ。
この伊豆への山旅は、当時読んだばかりの、あの川端康成の『伊豆の踊子』の影響もあってか、いささか軽薄なロマンチスト気分になっていて、それでその舞台となった、天城峠からの天城山(万三郎岳、1406m)登山を計画していたのだが、距離が長いことと、そのころも展望のきく山にばかり登っていて、森林帯の歩きが多いこのコースはとためらったあげく、それよりはずっと楽で展望が素晴らしいという、この達磨山にしたのだった。
もちろんこの山旅で、心の隅のどこかであこがれていた”私の踊子”に出会あうことなどなかったのだが、そこには小説であるいは映画で見た踊子の姿が目に浮かんでいたのかもしれない。
初めて見た『伊豆の踊子』の映画は、当時の場末の三番館でリバイバル上映されていた、鰐渕晴子が踊子を演じたもの(1960年)だったのだが、彼女は今でいうハーフ・タレントのはしりであり、あまりにも美しすぎる日本人離れした顔立ちで、相手役の津川雅彦ともどもあくが強すぎて、日本的な伊豆の風景にはどこかそぐわなかった。
次に見たのは、これまた場末の名画座で数年後に見た、吉永小百合が踊子役(1963年、相手役は高橋英樹)のもので、当時人気絶頂の”小百合ちゃん”が演じるには、あまりにも可愛すぎたし、むしろ、さらに後年テレビで見た山口百恵(1974年、相手役は三浦友和)の日本人らしい顔立ちが、演技力はともかくとしても、時代にあって一番ふさわしかったのかもしれない。
いずれの配役陣にしろ、この『伊豆の踊子』でのラストシーンが心に残る。
互いに淡い想いを抱いたまま、東京に戻る学生の船を見送って、防波堤の上を必死になって走って行く踊子”かおる”の姿を見ると、いつも涙があふれてくる。
倉本聡の名作TVドラマ『北の国から』で、それまで反発していた蛍(ほたる、中嶋朋子)は、兄の純に「母さん東京に帰っちゃうぞ。会わなくていいのか。」と言われて、突然気がついたように駆け出して、東京に帰る母親を見送って、あの空知川の堤防を走って行く・・・何度見ても泣かされてしまうシーンだ。
そして、電車のガラス窓の向こうで、いつも涙いっぱいの眼で私を見送ってくれたあの娘・・・。
「 日が去り 月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰ってこない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る 」
(『アポリネール詩集』 「ミラボー橋」より 堀口大學訳 新潮文庫)