1月2日
今日の午前中まで、3日以上も快晴の日が続いて、日陰にほんの少し雪が残っているだけの、穏やかな年末年始の天気だった。
その間、1時間余りの長い坂道でのウォーキングした以外は、家にいた。
山には2回ほど雪が降っていて、その次の日は、晴れのいい雪山日和(ひより)だったのだが、いずれも休日と重なって(一般勤労者諸君には好都合だったのだろうが)、私は混雑を恐れて、出かける気にはならなかった。
これで、前回の秋の登山から、もう1か月半も間が空いたことになる。今は、ヒザも痛くはないのだが。
さて、というわけで、庭仕事や家の大掃除ならぬ中掃除をしたくらいで、本や雑誌を読む時間はたっぷりとあったのだが、特に幾つかの雑誌の12月号と新年号には、付録がついていて、それを目当てに買うようにしているから、机の上には本が山積みになってしまった。
それらは、”山と渓谷””アサヒカメラ””レコード芸術”などであり、遠くの町の本屋まで出かけて行って買うよりは便利だからと、最近はすべて、ネット通販で届けてもらっている。
上の写真は、”アサヒカメラ”12月号付録の、2017年の”ネコ・カレンダー”の表紙である。
動物写真家の岩合光昭撮影によるこの、”ネコ・カレンダー”は、今から10数年前に、”アサヒカメラ”誌の別冊付録、”ニッポンのネコ”カレンダーのシリーズとして始まったものであり、その後”猫にまた旅”という、しゃれたタイトル・ネームがつけられるようになって、それからでも、もう10年余りになる。
もともと、私も下手な山の写真を撮っていることもあって、カメラにも興味があり、カメラ雑誌も時々買ってはいたのだが、特に付録の付く12月号や新年号は、毎年欠かさず買うようにしていたのだが、今では、この”ネコ・カレンダー”のように、それが毎年の楽しみになって買っているのだ。
家には、ネコもいないのに。
”ミャオ”が死んでから、もう5年近くにもなるというのに、いまだに”ミャオ”のいる夢を見ることがあるし、家の周りを歩いていても、まだあちこちに”ミャオ”がいるような気がする。
そして、あの死にゆく前後のミャオのことを思い返せば(2012.5.7の項参照)、なおさらのこと・・・だから、もうネコは飼わないことにしている。
それだからこそ、毎年、様々な猫の姿を見せてくれる、この岩合氏の”ネコ・カレンダー”は、私の”ネコ想い”の渇(かわ)きをいやしてくれる大切な写真集なのである。
テレビのほうでも、同じ岩合氏撮影による、NHK・BSの「世界のネコ歩き」という、ネコ・ファンには毎回が待ち遠しいシリーズがあり、そばにネコのいない私でも、この時ばかりはと楽しむことができるのだ。
上のカレンダー表紙写真のネコは、その「世界のネコ歩き」”ブラジル編でも、紹介されていたネコであり、このリオ・デ・ジャネイロのコパカバーナの海岸に、いつも飼い主に連れられてきているそうだ。
”パンダ座り”が堂に入っている、このネコは、この辺りでは、”ビーチの王様”と呼ばれるほどの有名なネコだそうである。
それにしても、私たち人間は、どうしてこうも他の生き物たちの生き方や、その生態の様子を知りたがるのだろうか。
自分のそばに置いて、ペットとして飼うだけでなく、大きな飼育施設として動物園や水族館などを作ってまで、まじまじと見ては観察しようとする。
他の生き物たちは、そうした趣向を持たないのに、人間だけが、なぜただ見るという目的だけで、他の生き物たちを見たがるのだろう。
その一方で、人間は、生活のゆえや糧(かて)としてではなく、ただ興味のおもむくままに、他の生き物たちの命を奪ったりもする。
ライオンは、無駄に他の動物たちを襲っているわけではないし、オスのライオンは、無駄にメスのライオンの子供を殺そうとしているわけでもない。
いずれも、自分が生き延びるために、あるいは自分の子孫だけを残すためにという、生き物の世界の理(ことわり)に基づく本能にかられているだけのことだ。
先日、NHK・BSの名物番組”グレート・ネイチャー”の新シリーズが始まるとのことで、その一部が紹介されていたが、その新たな事実の数々もさることながら、その裏で飽くことなく動物たちの生態撮影を極めようとする、イギリスBBCやNHKのプロデューサーやスタッフの思いには、ただただ感心してしまうばかりだ。
例えば、ヒマラヤの奥地に住む”絶滅危惧種”の”ユキヒョウ”の狩りのシーンなどをとらえた新しい映像、これはまた、BS朝日でBBC制作の”地球大紀行「聖なる山ヒマラヤ神秘の大自然」”として放送されていたが、それぞれの国でその制作意図が少しずつ違って作られていて、なるほどと考えさせられた。
さらに、あのガラパゴス諸島に棲(す)む”海イグアナ”の子供たちが、砂浜の卵から孵(かえ)って地上に出た瞬間、そこにはその時を知っていて待ち構えている、数十匹もの蛇たちに追いかけられるという修羅場(しゅらば)が待ち構えているのだ。
逃げ延びるもの、食べられ飲み込まれてしまうもの、これほどまでにリアルな、生物界のおきての現実・・・それは、いつか私の夢の中にまで出てきそうな衝撃的なシーンだった。
しかし、蛇たちにとってそれは、ゆえなき殺戮(さつりく)の場ではなく、数十匹もの仲間たちの命をつなぐための、大切なエサ場でしかないのだ。
さて大晦日には、NHKの紅白を見たのだが、その歌手選考基準のあいまいさや、演出構成の良否はともかくとしても、日本の今の音楽や歌の世界を、このひと時でかいま見ることができるのはありがたいことだ。
さらには、今回の目玉企画の一つとなった、視聴者によるAKB紅白代表選挙についてだが、もちろん私は投票しなかった。
すべてのかわいい孫娘たちに、順位をつけることなどできるだろうか。
そして思うのは、私たち中高年のおじさんたちがAKBファンだというと、”ロリコン”扱いされて白い目で見られるのに、解散したあのSMAPのファンだという中高年のおばさんたちが、同じような白い目で見られないのはなぜだろうかと思うのだ・・・男女均等雇用法案が施行されている世の中だというのに、これは関係ないか。
”われら、おじさんやじいさんのAKBファンに、もっと明るい光を!”
ともかく、その日は大体において紅白を見ていたのだが(途中で一度風呂にも入って)、それにしても、ニュースの時間帯から数時間近くもテレビを見るのは、年寄りには疲れる仕事だった。
翌日、元旦は、いつものようなお正月バラエティー番組ばかりであまり見る気にもならず、そこは年寄りらしく、録画していたNHK・Eテレ(教育)の”新春能舞台”を見た。
演目は、世阿弥(ぜあみ、1364~1443)のあの『西行桜(さいぎょうざくら)~観世流(かんぜりゅう)』 であり、シテ(主役)の”老桜の精”を人間国宝の野村四郎、ワキ(相手役脇役)の西行上人(さいぎょうしょうにん)を福王茂十郎ほかの配役での、1時間ほどの能舞台だった。
筋立ては、京都西山のいわゆる”西行庵”に隠棲(いんせい)している西行上人(1118~1190)のもとに、都から多くの人がやってきて、庭にある大きな老木の桜を見せてほしいと願い出る。
西行は無碍(むげ)に断るわけにもいかず、枝折り戸を開けて一同を招き入れることになる。
その夜、西行は夢を見て、その中に”桜の老木の精”だという老人が現れてきて、西行が昼間に詠んだ歌について尋ねてくる。
それはまさに、あの世とこの世が混然となった幽玄の世界の話になっているのだ。
もちろん、作者の世阿弥の意図は、あの有名な西行の辞世の句とされている、
「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ」
の歌を念頭に入れてのことだろうが。
この能舞台の、謡(うたい)、詞(ことば)の一つ一つを取り上げていきたいところだが、長くなるので、それはまた本やネットのサイトで読み直すとして、ここでは大切だと思われる部分だけを書き抜いてみた。
都からの客人たちが、桜を見てほめそやしているのを見て、西行は、
「われはまた 心ことなる花のもと 飛花落葉(ひからくよう)を観じつつ ひとり心を澄ますときに」と嘆じた後、さらに、
「花見んと 群れつつ 人の来るのみぞ あたら桜の 咎(とが)にありける」との一首を詠む。
(花見をしようとして、みんなが一緒になってくるだけのことだ。何も桜の木に責任があるわけでもないし。)
さらに続けて、西行は詠じる・・・。
「捨てて住む 世の友とては 花ひとりなる 木のもとに 身には待たれぬ 花の友 少し心の外なれば」
そして夜、西行が眠るところへ、”桜の老木の精”が現れて、西行の歌について問いかけては、その老人が言うのだ。
「浮世と見るも 山と見るも ただその人の心にあり 非情無心の草木の 花は浮世の咎(とが)にあらじ」
さらに、あの『古今和歌集』の素性法師(そせいほうし、841?~910?)の有名な一首。
「見渡せば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」に続けて、都の桜の名所をあげていき、
最後に、あの有名な”序の舞”を静かに舞って、”桜の精”の老人は消えていき、夜が明けるのだ。
何という閑静深淵なる趣味の世界であり、時を超えた幽玄世界だろううか。
私は、1か月半前の、あの紅葉の山でのひと時のことを思い出していた。(’16.11.21の項参照)
私は、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)ほどには、この能や狂言の世界には詳しくなく、生でその舞台を見たのも一度きりで、ほとんどはテレビで見るだけに過ぎないのだが、それでも見た時には、いつも日本人としての心の在りようなどを考えさせられることが多いのだ。まして、年寄りになった今の時だからこそ。
能と狂言のはじまりといえば、いずれも日本古来から、田植え歌やその時の囃子(はやし)や舞などを含むいわゆる田楽(でんがく)や、滑稽(こっけい)な話の踊り歌としての猿楽、さらには寺社奉納の延年舞などがあったとされ、その中でも猿楽の演技者集団が職業化されていき、それが鎌倉・室町時代の観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)の時代に洗練された演劇舞台の作品として完成され、いわゆる”能”が成立したとされていて、一方では、同じころに猿楽能からの同じ舞台様式の中で、滑稽な話を洗練化し体系化したのが”狂言”だといわれている。
(以上参照:「新編国語便覧」秋山虔編 中央図書、ネット上の”能”に関するサイト)
ともかく、能にしろ狂言にしろ、いずれも深いところまでは詳しくはないので、改めて本を読んで学び、あるいはネット上のサイトなどで詳しく調べるべきなのだろうが、いずれにせよ私の知識は初心者の域を出てはいない。
ただそれでも、こうした舞台に接するたびに思うのは、年を取ってきて、いろんなものが少しずつ見えてきたという喜びと、長い時代を経て日本という国が伝えてきた、驚くべき伝統芸能の広く深い世界についてである。
なんという国だ。この日本という国は。
そうした、日本の伝統たるべき文化を知るためにも、さらには日本の自然景観の中心をなす、麗しき山々の姿を見るためにも、神様、そのための幾らかの時間をもらえないでしょうか、哀れなひとりのじじいがお願いしていることですから、もう少しだけでも生かせておいてくださいませんでしょうか。
神様、このささやかな私の願いがかなえられたならば、やがて来るそのお迎えの日には、喜んで、あの空に光る星のもとへ行くことでしょう。
ともかく、こうしてどこに出かけなくとも、青空の広がる空が好き、”八丈島のキョン”(昔の漫画「こまわりくん」での意味のない感嘆詞)、そしてこれからも、あの”ビーチの王様”のように”脳天気”な毎日を送りたいものですが。