1月16日
前回、暖冬気味だと書いたばかりなのに、この数日、この冬一番の寒波が襲来して、各地で大雪になった(広島のような大都市で19cm)というニュース画面が流れていた。
そうした大雪と比べれば、九州の雪はちらついたほどであり、二日続けての雪であたり一面白くなっていたが、積もるというほどではなくすぐに溶けてしまい、日陰に残るくらいのものだった。
今日は、朝から雲は多少あったもの晴れていて、山に行こうかとも思ったが、風があって雲の流れも早く、さらに予報通りに昼過ぎからはすっかり曇ってしまい、また雪も降ってきた。
その雪が、少し降り続いて、夕方前には3㎝ほどの積雪になっていた。(写真上)
この数日は、気温も下がって、一日のうちで、0度を境に5度の範囲で上下する毎日である。
ただ外が寒いのは、その覚悟をして外に出るからいいのだけれども、家の中が寒いのは、年寄りにはこたえる。
小さな家だけれど、古くてすきま風が多いから、ポータブルの灯油ストーヴのそばから離れられないし、それでなくとも部屋ごとに寒くて、朝は5度くらいにまで下がっていて、窓ガラスは凍り付き、厚着をして小さな電気ストーヴをつけているくらいでは、足元から冷えてきて、いつしか”貧乏ゆすり”状態になってしまう。
それに比べると、同じように小さいながらも北海道の丸太小屋の家の中は、真冬でもそれほど寒くはないのだ。
暖房力の差である。
何しろ、この北海道の家を建てる時には、もう設計図の時点から、その暖房力で評価の高い、ある海外メーカーのクラッシック・薪(まき)ストーヴを置くことに決めていて、ちゃんとその位置を書き込んでいたほどなのだ。
それは、実際に基礎を作る時から、地中の凍結深度を考えての1m70㎝ほどの、独立基礎ではない全部を取り囲む布基礎(ぬのぎそ)のための根掘りには、さすがに業者に頼んで重機を使って掘ってもらったのだが、そこにコンパネと根太で型枠(かたわく)作りをして、ミキサー車から生コンを流し込んでもらい、型枠を外して、ようやく布基礎部分ヶ出来上がることになる。
その後で、ストーヴの部分だけは別基礎としていたから、自分で50㎝ほど掘り下げて、そこに割栗石(わりぐりいし)などを入れて突き固め、その上にコンクリートを流し込んでモルタルで仕上げて、さらにその上部はレンガ敷きにして、100㎏もあるストーヴの重さにも耐えられるようにしたのだ。
で、その効果は・・・マイナス25度にもなる冬の時期にも、通してこの北海道の家にいたことはあるのだが、家の中では15度から20度くらいになるように薪を燃やしていて、その温かさが、夜に火を落として朝になった頃にも残っていて、家の中は、10度以上はあって、この九州の家のように、朝から震え上がるようなことはなかったのだ。
それだからいつもの繰り言(くりごと)になるが、あの温かい薪ストーヴのある家が、窓の外にいつも雪景色の見える家が恋しくなってくるのだ。(写真下)
あの薪ストーヴの温もりのある家に、一日中いて、朝夕には、完全装備の服で外に出て行って、あかね色に染まる雪面を眺める楽しみがあって・・・しかし一方では、生活面で考えてみれば、時々井戸水が枯れることがあり水には不自由するし、風呂には入れないし、夜中に外にあるトイレに行く辛さは、何度もここに書いてきたとおりであり、まして年寄りになった今、とても冬はあの家では暮らせないだろう。
まあ、ともかくぼろい家にしろ、二軒も家を持っていること自体が、いかに金のかからない家であっても、ぜいたくな話であり、神様はいつも均衡をとった試練を考えて、そうやすやすと私の思い通りにはしてくれないのだろう。当たり前のことだが。
だから私は、冬にはあの薪ストーヴのある北海道の家にあこがれ、夏には水栓トイレと風呂のある、この九州の家にあこがれているということなのだ。
まあ、これもぜいたくな悩みではあるのだが、ここに至るまでは、誰でもがそうであるように、様々なものをあきらめ断ち切った果てに、ようやくたどり着いたものであり、思うに、人はこれだけはという一つのものがありさえすれば、あとはがまんできるものだし、何とかやりくりできるのではないだろうか。
その時には、どんな深刻な悩みでも、生きてさえいれば、時間が過ぎていきさえすれば、”時は偉大な作家である。いつも完璧な結末を書いてくれる。”(映画『ライムライト』1952年 )ものなのだから、今はただ、がまんしていればいいのだ。
そして、時が過ぎたずっと後になって振り返り見れば、昔の思い出は、苦しく辛かったことよりも、楽しくうれしかった時のことのほうが、多かったような気がしてくるのだ。
それは、自分の脳の働きが、自然に、いやな思い出のストレスを弱めようとしている、自己防衛本能なのかもしれないのだが。
だから、なるべく”脳内チョウチョウ”の”脳天気”な状態にすることが、今の私の日常的な思いなのだ。
たとえ、その日に心配なことがあって、少し考え込んだとしても、寝る前には、”それで、今すぐ自分が死ぬというわけではないのだから”と、考えを終わらせることにしている。
もともと、そうした考えではあったのだが、何度も書いているように、この前の秋の、誰もいない山の紅葉の下にいて、私は改めて深く感じ入ることがあったのだ。(’16.11.27の項参照)
もちろん誰しも、いつの日にか絶望の舞台に立たなければならない日が来るだろうし、それは悲劇へと暗転していく場合もあるのだろうが、冷静に見れば、暗闇の観客席には誰もいないのかもしれないのだ。
つまり本人が思うほどに、自分の舞台は誰からも見られていないし、ひとりよがりの筋書きを、ひとり芝居していただけかもしれないのだ。
ただ若くある時ほど、舞台の上の輝かしき主人公でありたがるし、また一方では、悲劇の主人公になりたがるものなのだ。
「 全世界が一つの舞台、そこでは男女を問わぬ、人間はすべて役者に過ぎない。
それぞれに出があり、引っ込みがあり、しかも一人一人が生涯にいろいろな役を演じ分けるのだ。」(第二幕7場)
( シェイクスピア『お気に召すまま』 福田恆存訳 新潮文庫)
公爵ともども追放された貴族の一人、ジェイキスが、公爵と互いの失意・逆境を語り合っている時の言葉であり、シェイクスピアの他の作品の中にも、数多くこうした舞台、役者にたとえて、人生模様が描かれている。
そこでもう一つ、有名な『ハムレット』の中での、狂ったふりを装うハムレットが、学友であった友達と話し合う場面の言葉である。
「 では君たちにはそうではないのだろう。
ものの善悪なんて考えようひとつだからな。それ自体としては善も悪もない。
おれには、この国は牢屋(ろうや)だ。」 (第二幕2場)
( シェイクスピア 『ハムレット』 三神勲訳 河出書房新社版 世界文学全集)
別な訳としては、「 物事に良いも悪いもない。考え方によって良くも悪くもなる。」 というものもあり、こちらのほうがわかりやすいのかもしれない。
ネットで調べていたら、さらに気になる言葉があった。
下にあげる、シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』は、まだ読んでいなくて、ネット上の言葉のままあげることにする。
「 人の一生は、良い糸も悪い糸もいっしょくたに織り込んだ網だ。」
世の中の天才をあげていけば、という問いに答え出したらきりがないだろうが、それでもシェイクスピア(1564~1616、日本の秀吉・家康の時代)ほど、名言や名セリフを数多く生み出した劇作家はいないだろう。
いつの時代も、温故知新(おんこちしん)、”故(古)きを温(訪)ねて、新しきを知る”ような思いが必要なのだろうか。