1月30日
昨日は、曇り空で時おり小雨が降る天気であったにもかかわらず、さらに言えば、一年で最も寒い時期にもかかわらず、最高気温は17度にまで上がった。
そして、今朝の気温は10度。
日本海側で、記録的な大雪に見舞われている地域の人たちには申し訳ないが、もう明らかに暖冬だと言わざるを得ない。
いつもの年なら、今頃は毎日雪がちらついていて、もう何日の間も雪が消えずに残っていたというのに・・・。
庭では、この暖かさに誘われてか、もうユスラウメの花が咲いている。
さらには、ナベヅルやマナヅルなどの越冬地で有名な、鹿児島は出水(いずみ)平野の、ツルたちの”北帰行”の第一群が、平年より一週間も早く飛び立っていったとのこと。
もちろんいきなり、まだ凍てついた中国大陸の繁殖地へと飛んで行くわけではなく、まずは九州を北上し、途中の壱岐(いき)や対馬(つしま)を中継地にして、朝鮮半島に渡り、十分に暖かくなった春先になって、繁殖地の満州やシベリアへと帰って行くということなのだが、不熱心な”野鳥の会”会員でもある私は、まだその渡りの様子を一度も見たことはない。
北海道の家では、晩秋のころに、上空を飛んでいくハクチョウの群れを何度も見たことがあるし、このコハクチョウやオオハクチョウたちは、南北に長い日本列島の地形を利用して、渡りのルートを決めていて、秋には大陸から渡ってきて少しずつ日本海側を南下していき、そして春先には逆に北上していき、気温がゆるんだ春先には大陸へと渡っていくのだが、いつだったか流氷を見に出かけた時に、その早春のオホーツクの海岸沿いに、長い列を作って互いに鳴きかわしながら、少しづつ高く低くなりながら飛んでいくハクチョウたちを見たことがあるが、目の前にしての、まさに感動のひと時であった。
もっともそれにもましていつも思い出してしまうのは、もう何年も前のNHKのドキュメンタリー番組で見た、アネハヅルの渡りである。
あの8000mもの高峰が続くヒマラヤ山脈を越えて、越冬地のインドの平野へと向かうアネハヅルの苦闘・・・人間の登山隊でさえその薄い空気に苦労する山々の上を飛んで行くのだ・・・気流の変化や、ワシ・タカなどの猛禽類の攻撃をかわして。
強い種族として生き残るために、自らに課した試練・・・すべての動植物たちには、多かれ少なかれ、将来へと続く自分たちの種のための、そうした本能的な自己鍛錬の場があるものだが、それに引きかえ、人間という種族はと考えてしまう。
特に、ただぐうたらに自分のためだけに、のんべんだらりと生きている、いい年をしたじじいの私めはと、心から恥じ入る次第ではあります。
ということで、そんな自分を叱咤激励(しったげきれい)し、体を鍛(きた)えるためにもと、山に登ることにしたのであります。
とかなんとか理由づけするほどでもなく、ただ雪山を見たいから出かけだけのことで、これまたわがままな思いからではありますが。
さて、前置きの時点で話が脇にそれて長くなったが、山に行ったのは数日前のことで、その二日前から雪が降っていて、合わせて15cmくらい降り積もり、前日の天気予報でも九州全域に、あの大きなお日様マークがついていて、さらには平日だったし、これでは出かけないわけにはいかなかった。
朝の冷え込みは-7度、道は半分以上の所で雪が残り凍りついていた。
カーブの続く山道から、飯田高原(はんだこうげん)の広い平坦地に出ると、霧氷の木々の向こうに九重の山々が並んでいた。(写真上)
しかし、長者原(ちょうじゃばる)から牧ノ戸峠までの山道区間は、全線圧雪アイスバーン状態だった。
もちろん、タイヤはこの冬になる前に新しいスタッドレスに変えたばかりだし、車は古いながらも一応4WDだし、心配はないのだが、カーブの多い九州の山道だから気は抜けない。
朝、寝過ごしてしまい出かけるのも遅くなったから、牧ノ戸の駐車場(1330m)に着いたのは、もう9時半にもなっていた。
週末ほどの混雑はないにしろ、すでに30台余りの車が停まっていて、中には、クルマ全体に霜がついて凍りついたものも何台もあり、それはおそらく夕焼けや朝焼けの写真を撮るために、昨日から山に入っている人たちのクルマなのだろうが、やはり、ここが九州での一番の雪山の場所だからなのに違いない。
途中で、そうしたカメラ・ザックに三脚をつけた人たち何人かが、山から下りてくるのに出会った。
私は、この九重の雪山の夕焼けを見るために、何度か午後遅くになって山に入り、夕日に染まる山々を見た後、頭のライトをつけて雪道を戻ってきたことはあるのだが、まだ朝焼けを見るために入ったことはなく、何とか一度はと思ってはいるのだが、いかんせん、今ではもうそんな覇気(はき)もなく、ぐうたらの情に流さているというのが現実である。
さて、いつもの遊歩道の道は、見事な霧氷に囲まれたトンネルになっていて、あまり朝早いとこの辺りは日陰になっているのだが、今ぐらいから日が当たり始めてくるので、遅くなったことが悪いことばかりでもないのだ。
20㎝ほど積もっていた雪道は、これから先もずっと踏み固められていて、キュッキュッと鳴るほどによく締まっていて歩きやすかった。
多くの人がアイゼンをつけていたが、私はもちろん持ってきてはいたが、いつものようにつけないで歩きとおした。
それほどに、九重の雪山は安全なルートがほとんどなのだ。
ただし、それだからこそ、いつも登山者の多い人気の山であり、こんな雪山の平日にもかかわらず、この日も、私の前後の遠く近くで、登山者たちの声が途切れることはなかった。
すぐ上の展望台からは、相変わらずの光景だが、霧氷の灌木帯の向こうに、どっしりと鎮座する三俣山(みまたやま、1745m)が見えている。
さらに一登りすると、沓掛山前峰に着き、南面が開けて、広いカルデラの中で煙を上げる中岳を中心にした阿蘇五岳が見えている。
ここからは、霧氷の樹々に囲まれた尾根歩きになり、沓掛山本峰(1503m)に着くと、おなじみの光景ながら、縦走路の尾根を前景にした、三俣山の姿が素晴らしい。
そして下ると、その先は、なだらかな広い尾根の縦走路が続き、左手には変わらずに三俣山が見えている。(写真下)
風も余りなく、青空の下の日差しが強くて、汗をかき始めたので、かぶっていた毛糸帽を野球帽に替え、そしてダウンの上着も脱いで、その下のフリースと下着だけで十分だったが、指先は冷たく手袋は外せなかった。
秋には、紅葉におおわれていた星生山(ほっしょうざん、1762m)の西斜面(’16.10.31の項参照)も、今はすべて霧氷一色になっていた。
扇ヶ鼻分岐からは、そのまま西千里浜の火口原を行き、行く手には、この九重山群の盟主ともいうべき三角錐の久住山(1787m)の姿が見えてくる。
ただ残念なことには、雪の量が少なくそれほど強い北西の風が吹きつけなかったせいか、風紋(ふうもん)やシュカブラ(エビのしっぽ)の出来もあまりよくなくて少なかった。
それは、このところの天気から予測していたことでもあり、だから先ほどの扇ヶ鼻分岐で、いつも風紋が見事な星生山へと向かうのをやめたわけである。
とはいっても、それでもさすがに見事な冬山の光景になっていたし、何度も立ち止まっては、写真を撮りながら歩いて行った。
星生崎からの岩塊斜面を登ると、目の前に久住山の姿がさえぎることなく見えてくる。
その頂きの上にだけ、雲がまとわりついていたが、それがかえって、この九重山群の王者としての風格を高めているかのようだった。(写真下)
その星生崎下から、すぐ下に見える避難小屋そして”久住分れ”の分岐点へとたどり着き、そこで再び毛糸帽にダウン・ジャケットを着こむ。そこから、いつもは左に回り込んで、この九重山群の最高峰である中岳(1791m)や天狗ヶ城に向かうのだが、今回は久しぶりに久住山に向かうことにした。
一つには、このところいつも、天狗ヶ城や中岳への道をたどっているし(’16.2.2の項参照)、そうすると距離も少し遠くなり、ヒザの心配もあるから無理はしないようにと、自分に言い聞かせていたからでもあったのだが。
正面に、久住山の巨大な白鯨(はくげい)のような山体を見ながら登って行き、このあたりからシュカブラで菊化石状になった岩や風紋を見ることができたが、特に見事だったのは、その東西に延びた長い頂上稜線の東端にある岩塊斜面であり、遠景に中岳の姿も見えていた。(写真下)
そして午後1時前に、ようやく頂上にたどり着いた。
なんと登山口から、3時間余りもかかったことになる、コースタイムは2時間くらいなのに。
それは、足が遅い年寄りだからというよりは、写真を撮りながら歩いてきたせいでもあり、今回のわずか半日足らずの雪山歩きで250枚もの写真を撮ってしまったのだから。
もうこんなに遅くなっては、他の山々にまで回る余裕はなかった。
もっとも、そんなに時間がかかったということは、それだけ長く景色を眺められたわけだからと、年寄りらしい理屈も考えてみた。
頂上には、他に数人がいたが、広い頂上のあちこちに散らばっていて、意外に静かだった。
この久住山の頂上からは、なんといっても南面に広大に広がる久住高原を隔てて、阿蘇カルデラの山々と。祖母・傾山群を眺める展望が一番である。
同じ九重山群の他の山々の眺めは、位置的に見ても余りいいとは言えなくて、むしろ他の山々からこの久住山を含む山々を見たほうが、見栄えがするとでもいうべきか、それほどに、九重の核心部になる山なのである。
ほんの15分ほど休んで下りて行くが、帰りには帰りでまた撮りたい光景がいくつも現れてきて、そのたびごとにカメラを構えることになる。
前にもこのブログで書いたように、後になって記憶を呼び戻す時に、写真ほど有効な手段はないと確信しているから(もちろん動画ならなおさらのことだが)、なるべく写真は多くとるようにしているのだ。
フィルム写真時代には、考えられなかったことであり、今日もしフィルム・カメラで撮っていたら、おそらく36枚撮りフィルム一本がいいところだったろうし、中判カメラなら120フィルムで二本30枚撮るのが関の山だったろう。
もちろん、それらの写真は、手あたり次第、三脚につけて撮っているわけではなく、ほとんどが手持ち撮影であり、そのうちどうしても手振れが気になる場合は、いつも持っているストックに乗せて一脚として使っているだけである。
だから私は、手振れを恐れてISO感度を200以上に上げて、画質が落ちても早いスピードでシャッターが切れるようにと、写真の教科書とは真逆の方法の、邪道の、ただの”お絵かき写真”撮りでしかないのだ。
その写真を自分で見て、いつもニヒニヒと喜んでいるだけで、このブログに乗せている写真も誰からの批判なども受け付けないから、まさに自作自演の観客のいない舞台で、一人悦に入っているようなものであり、それでいいと思っている。
自分の残り少ない人生の時を、いかに他人に迷惑をかけないで、自分で楽しむことができるか、個としてのエゴイズムの極北を目指すべく、若い時には思いもしなかった生き方であり、それが、自分なりの老年期の楽しみ方でもあるのだ。
繰り返し言うけれども、あんなに青臭く生意気でそのくせ傷つきやすくただ欲望にぎらついていた、若い時代の自分なんかに戻りたくはない。
年寄りへと向かう年になってから、すべてがありがたく思えるようになり、初めて人生の意義そのものに気がつくのではないのだろうか。
そうした思いは、今までにここでも、例えばヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』(草思社文庫)や、アランの『幸福論』(集英社文庫)や貝原益軒の『養生訓』(岩波文庫)などなどとあげてきた、人生訓の言葉とも重なってくるのだが、さらにふと思い出したのだが、あの『人を動かす』(創元社文庫以下同様)や『道は開ける』で有名なデール・カーネギー(1888~1955、カーネギー・ホールの名前でも有名)、の夫人ドロシー・カーネギーが、夫の死後残されていた引用句などをまとめて、『名言集』として出した一冊にある言葉である。
「 青年時代は人生で最も幸福な時代であるという信念は、誤った考えの上に成り立っている。
最も幸福な人間は、最も味わい深い考え方をする人間のことである。
だから人間は年を取るにしたがって、ますます幸福になっていく。」
(ウィリアム・ライアン・フェルプス、20世紀初頭の有名な教育者)
もちろん、私は味わい深い考え方をしているなどとは、とても思えないないし、単純に”脳天気”な考え方で行こうと思っているだけなのだが、ともかくここであげた三行目の言葉に、あのヘルマン・ヘッセが言っていた言葉を思い出して、改めてここに書いてみることにしたのだ。
つまり老いの行く先は、むしろ期待すべき境地へとたどり着く楽しみにあるのではないのか、と思っているのだ、見てくれはヨレヨレのじじいであるとしてもだ。
山の話が、大きく横道にそれてしまった。
ともかく、歩く時間がいかにかかろうとも、年寄りになりつつある私が、好きな山登りを続けていられるだけでも、ありがたいことだし、それは何という幸福感に満ちたひと時なのだろう。
さて、私は青空の下、雪に覆われた山々を見ながら、相変わらずにすぐに立ち止まっては、写真を撮りながら下って行った。
そして、同じ道を通らずに、中岳方面とつながる小さな高みの道を行くことにした。
足跡がなくなると、雪の深みが実感された。ヒザ下30cm以上はあるだろうが、それでも粉雪状だから歩きにくくはなかった。
それ以上に、荒らされていない雪面の向こうにそびえ立つ山々の姿が素晴らしく、何枚も写真を撮った。(下の写真は星生山)
私だけが今ここで味わえる愉(たの)しみだという、喜びがふつふつと湧き上がってきた。
今日、山に来てよかったし、何より一日中続いた快晴の青空には、ただただ感謝するばかりだった。
久住分れに戻り、星生崎下への登り返しとなる。行きに雲がまとわりついていた久住山頂上は、その雲も取れて、掛け値なしの全天の青空が広がっていた。
西千里浜の火口原の平坦地に降りてくると、そこはもともと風衝地(ふうしょうち)で雪が少ない所だから、表面の雪が溶けて少し水浸しになっていたが、そこ以外の登山道はほとんど朝のままのキュッとしまった雪道で歩きやすく、周りの霧氷も、多くはそのままの形で残っていた。
ここまで霧氷と書いてきたが、あの水滴が凍り付いた、透明に近い氷状の霧氷と比べれば、白い雪片が凍り付いた、樹氷に近いものだから、むしろ樹氷と書きたいところなのだが、一般の受け止め方では、どうしても樹氷といえば、あの蔵王や八甲田の巨大な雪のモンスターを思ってしまうのだ。
ともかく、雪があまり溶けなかったのは、今日の気温が低かったためだろう。家の気温でも5度までしか上がっていなかったから、山の気温は終日マイナスだったのだろう。
下りの雪道では、少し足が痛かったが、牧ノ戸までは2時間足らずで降りてきた。
駐車場からの道は、相変わらず長者原までが圧雪アイスバーンのままで、前の方におそるおそる走るクルマがいて車列ができていた。
家までの道は、まだ雪が残っているところはあったが、楽に走ることができた。
ともかく、心配していたヒザも痛くならずに、快晴の雪山の半日を十分に楽しむことができて、全く幸せな一日だった。
さらに、翌日も快晴で、ライブカメラで見る牧ノ戸峠の駐車場は車でいっぱいだった。
そして、昨日今日と季節外れの暖かさで、桜の咲くころの気温になり、家の周りに残っていた雪も溶けてしまった。
せめてこの冬もう一度は、九重の雪山を楽しみたいと思っているのだが、果たして。