ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

霧氷の丘

2017-01-23 21:18:26 | Weblog



 1月23日

 今年は雪が少ないと、山好きな私としては心寂しく、その半面、年寄りの私としてはありがたく思っていたのだが、三日前にようやく10cm余りの雪が積もり、昨日今日とまた雪が降ったりやんだりで、合わせて15㎝くらいは積もっているだろうか。
 ともかく、ここまで積もったからには、雪山を見に行かなければならない。
 しかし、めぐり合わせというべきか、去年の暮れから、これで3回続けて、雪が降った後の晴れた日が週末に重なってしまって、私は、雪山目当ての人たちでの混雑を恐れて、なかなか出かけられないでいた。
 もちろん、普通に働いている人にとっては、土日の休みがまさに願ってもない好機到来の連続で、晴れた日の雪山を楽しむことができたのだろうが。
 
 そこで、また今回も週末だったので、九州の雪山のメッカである九重に行くのをあきらめて、いつもの家から歩いていける裏山に登ることにした。
 青空の広がる下、雪をつけた樹々を見ながら、足跡もついていない道を登って行くことのできるうれしさ。 
 前回の、上の林までのロング・ウォークは、長い距離の散歩でしかなく、ちゃんと登山靴をはいた山登りではないから、正確に言えば、前回の登山はといえば、あの11月の紅葉を眺めての山歩きの時だったから、なんと2か月以上も間が空いたことになる。
 だからこそ、その日はどうしても、山に行かなければならなかったのだ。
 天気予報は、午後から曇りの予報だったが、何よりも、雪が降った次の日の、青空の下での新雪を踏みしめて歩きたかったので、空模様を確認して出かけることにした。

 朝の気温は-5度。雪はさらさらとしていて、まだ地面との間が溶け始めてはいないから、滑ることなく歩いて行ける。
 坂道になっている一部凍り付いた舗装道路をしばらく歩いて、ようやく登山口に着いたのだが、何と珍しく先行者の足跡がついていた。
 もう何十回となく、この雪の時にこの裏山には登っているのだが、先行者がいたのは初めてのことだった。

 それはまた、半ば残念なことであり、それでも半ばありがたいことでもある。
 というのも、前面に広がる新雪の中に、自分の足跡だけをつけて歩いていける楽しみはなくなってしまったのだが、それでも年寄りになって疲れやすくなった私には、10cm~20cmぐらいの雪なので、ラッセルというほどではないけれども、先行者のトレースがついているのは、その足跡をたどって行けばいいだけで、ありがたいことでもあるからだ。
 そして、いつものヒメシャラやクヌギ、コナラの林の中の道になる。
 雪のついた樹々と白い道、上空の青空・・・まったくいい気分だった。 (写真上)

 時々は、先行者の足跡をたどるのにあきて、脇の白い雪面に足を踏み入れて行く。
 確かな雪の深みと、踏み固められる雪の固さと、周りの樹々と。

 「 冬だ、冬だ、何処(どこ)もかも冬だ

  見渡すかぎり冬だ

  その中を僕はゆく

  たった一人で・・・・・・」

 (高村光太郎 『道程』 「冬の詩」より 集英社版日本文学全集)
 
 前にも何度かあげたことのある、高村光太郎(1883~1956)の詩であるが、有名な愛の詩として人気のある『智恵子抄』よりは、”孤” としての力強い歩みが描かれているこの『道程』のほうが、今の私にはより近しいものを感じて、時々ふと口をついて出てくるのだ。
 
 やがて、薄暗い杉林の中に入って行くが、いつもよりはずっと明るい雪の道が続いている。
 浅い涸れ沢を渡り、再び台地状の林の中へと上がり、ゆるやかにたどって行くと、行く手が明るくなって、ついにカヤトの斜面に出る。
 ところが残念なことに、天気予報通りに空はすっかり雲に覆われてしまい、北西の風に乗って雪さえちらつき始めていた。
 これからが、霧氷を眺めながら登って行くいい所なのに。
 そのまま、見通しのきくカヤトの斜面を大きくジグザグを切って登って行くと、先のほうで同年配の男の人が一人、岩の上に腰を下ろして休んでいた。
 私が、彼のトレースの後をたどってきた礼を言うと、彼は天気が悪くなってきたのでここから引き返すと答えた。
 確かに私も、こんな空模様ではとても山頂まで行くつもりはなかったのだが、それでもいつもの霧氷が見られる尾根道まではと、さらに登って行った。
 そこからは先行者の足跡のない、純白の道が続いていた。
 雪は深いところでも20㎝くらいで、歩きにくいというほどでもなかった。 
 見下ろすカヤトの斜面の下には、霧氷をつけた樹々が並んでいた。(写真下)




 そのジグザグの何曲り目かに、ようやく道がゆるやかになって、頂上へと続く尾根に出た。
 雲の流れの中に太陽が見え隠れして、時折薄日が差してはいたが、とても晴れてくれそうな空模様ではなかった。
 ただ、ありがたいことに風はそれほど強くはなく、両側斜面に並ぶ霧氷を眺めながら歩いて行くことができた。
 さらに先へと道は続き、頂上まではあと20分ほどで行き着く地点にまで来ていたのだが、頂上は雲の中にあり、上空に広がる雲の流れも暗い色をしていた。
 その時、遠く離れた下の町のほうから、正午のサイレンの音が聞こえてきて、引き返そうかという私の気持ちを後押した。
 もう何十回も登っている、地元の小さな山だから、別に頂上に、それも展望のきかない頂上にこだわるつもりもなかった。
 そうして、引き返すと決めると気が楽になる。
 尾根の南側の、アセビやミヤマキリシマの樹々、そして北斜面のリョウブなどの低木林の霧氷の写真を撮りながら尾根を戻って行った。(写真下)




 もちろん、晴れていれば、青空に映える霧氷の輝きやが、まるで自然の氷のオブジェの展覧会のようできれいなのだが(’15.1.5の項参照)、それもこの天気ではとあきらめるほかはなかった。
 久しぶりの登山なのに、まして天気を選んで山に行く私なのに・・・、まあそれでも、雪山の楽しさをつかの間だけでも、味わうことができたのだから、そしてこのぐうたらおやじには、ちょうど良い運動にもなったのだから。

 下りの斜面は、程よい雪のクッションもあって、ずんずんと下って行くことができるが、それにつれて例のごとくヒザの痛みも気になってきた。
 林の中に入り、沢を渡って杉林の中を下り、いつものヒメシャラの林の道まで降りてきたころ、またも日が差してきた。
 もう午後の日差しが、木々の影となって伸びていた。(写真下)
 振り向いて見上げる頂上のほうも、今頃になって少し青空が見えていた。

 私は、前回書いた、あのシェイクスピアの舞台劇のセリフを思い出していた。

「 人の一生は、良い糸も悪い糸も一緒くたに織り込んだ網だ。」(『終わりよければすべてよし』より) 

 私たちは、その網で、自分だけの時間をすくい取ろうとしているのかもしれない。
 良い糸の所には、何か良いものが引っ掛かってきて、悪い糸の破けた所からは、何か良いものが逃げていったような気がするのかもしれないが、それらすべてが、自分の人生という網だということなのだろう。
 そして、良きところの恩恵に感謝し、悪(あ)しきところからの失敗を学ぶことこそが、自分の人生という網の価値を高めることになるのだろう。

 前にもここで何度も取り上げたことのある、貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』の中から一つ。

 「 おおよそ、よき事あ(悪)しき事、みな習いより起こる。

 養生のつつしみ、つとめもまたしかり。

 つとめ行いておこたざるも、欲をつつしみこらゆる事も、つとめて習えば、後にはよき事になれて、つねとなり、くるしからず。

 またつつしまずして、あしき事になれ、習いくせとなりては、つつしみつとめんとすれども、くるしみてこらえがたし。」
 
 (貝原益軒 『養生訓』 巻第二総論下より 岩波文庫)