ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

山あれば山を観る

2016-10-03 21:42:50 | Weblog

 10月3日

 この週末の3日間、空は見事に晴れていた。
 北海道最高峰の、大雪山旭岳(2290m)の初冠雪のニュースが流れ、さらには、高原大橋の架橋ができて、帯広方面から裏大雪に向かう、三国峠経由のルートが復旧したことも伝えられ、またちょうど大雪山中腹辺りの紅葉が盛りだということもあって、おそらくは多くの登山者や観光客でにぎわったことだろう。

 私はひとり、ずっと家にいて、林内の木を切っていた。
 山に行かなくても、正確にはヒザの痛みで山に行けなくなっても、やらなければならない仕事があり、それでも一日一日と、その仕事の成果が目に見えてわかる、ささやかな満足感も味わってはいたのだが。
 そのうえに、こうした天気の良い日の朝夕には、えんえんと続く日高山脈の山々をずっと眺めていることができた。
 上の写真は、三日ほど前に、近くの丘から見た日高山脈のペテガリ岳(1736m)とルベツネ山(1727m)の姿である。
 秋色濃い山肌をさらに朝日が染め、十勝平野には朝霧がたなびいていた。
 
 そういうことなのだと思う。目の前の景色を、いつも自分なりに感じることができればいいだけのことだ。
 そこで思い出した、山頭火(さんとうか、1882~1940)の小さな詩の一編。

 「 山あれば山を観(み)る

   雨の日は雨を聴く

   春夏秋冬
 
 あした(朝)もよろし

 ゆうべもよろし 」 

 (『草木塔』 ”山行水行” 種田山頭火 八雲書林、ダイソー近代日本文学館)

 今日は、久しぶりに雨が降っている。
 林内の伐採作業はお休みで、このブログを書いている。こうした一日も、また悪くはない。
 人それぞれの人生の中には、さまざまな出来事があり、様々な自分なりの生き方がある。
 前回書いた、あのニーチェの一言のように、それはいつも”偶然”の出来事の連続であり、それは決して運命などと呼ばれるものではなく、幸運でもなく不運でもない。
 運命、そんなものは、いつも後になって、自分勝手に名づけるだけのものだ。
 問題は、その多くの”偶然”を、どう受け取りどう対処していくかだけであり、結果はいかようにも、自分の思いのままに結論づければいいだけの話だ。

 そんなふうに考えてみたのは、もちろん、日ごろからそうした思いがあるからでもあるが、最近ふと見た大阪朝日放送のドキュメンタリー・バラエティー番組、『こんなところに日本人』を見て、またより一層に、その思いを強くしたからでもある。
 この番組をいつも見ているわけではないが、たまに見た時には、その僻地(へきち)への旅の行程と、そこにいる当の日本人への興味から、思わず旅の成り行きにひきこまれて、最後まで見てしまうことが多いのだ。

 今回はその時の四つの話の全てを見たのだが、最初は72歳になるという、全く日本語の話せないロシアに住む女性の話だが、中国は旧満州で生まれ、終戦の年の1945年にロシア軍が侵攻してきて、当時軍医だった父親と母親は、”生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず”と自害して果て、その両親のそばでひとり泣いていた、まだ幼児だった彼女がひとりだけ助けられ、その後ロシアの孤児施設に引き取られてそこで育ったが、顔の傷と敵国日本人の子供だという負い目から、とうとう一度も結婚することなく、親類縁者誰一人としていない中、同じ孤児施設で育ったロシア人友達との、日々の付き合いだけを心のよりどころにして、今でも一人で暮らしているということだった。

 そして次に、南米はアルゼンチンの首都であるブエノスアイレスで、今のアルゼンチン人の夫に出会い、そこから1000キロも離れた、アンデス山脈の山麓にある夫の故郷でもある町で、彼と伴に日本料理もあるレストランを経営するようになった、という女の人の話。(一方では最近、カナダへの語学留学の30代の女性が殺害されたニュースがあったばかりだが。)

 三つ目は、有名企業を定年退職後、心機一転して、カンボジアの首都プノンペンから数百キロも遠く離れた、ビルマとの国境付近の寒村で、それまでの主要栽培であった衰退する葉タバコ栽培からの転作を推し進めて、地元に人たちとともに新しくコショウなどの栽培に励む男の人の話だったが、そのことはともかく、何よりもそこにたどり着くまでの泥濘(でいねい)の道のりは、もし私の古い4WDのクルマでさえ、これ以上は行きたくないと思うほどのひどさだった。
 最後は、アフリカ大陸から少し離れインド洋にある大きな島国、マダガスカル島の首都タナナリブから、バスを乗り継いでの数百キロ先の彼方、島の反対側の西海岸にある町に住み、海外青年協力隊の保健婦として働いている、まだ20代の若い女性の話だったが、しかし最新衛生技術の普及という彼女の理想と、今までの古い方式をかたくなに守り続ける、現地人病院スタッフとの埋められないギャップがあり、それもまた厳しい現実なのだろうが。

 彼女彼らの人生は、それぞれに深く重いけれども、そのいずれもが、決して運命ではなく、幸運でも不運でもなく、ただ自分の目の前にある道を、あるいは自分で決断してきた道を、ただ一途にひたすらに生きているというだけのことなのだろうが、私たちが今はもう失ってしまった、あの意志の力、ひたむきな一途さに気づかされるのだ。
 つまり、自分が歩んできた道のりを、すべて不運だった、悲惨な運命だったと思うよりは、(そう思ったところで今さらどうなるわけでもないのだから)、むしろ、そうしたことがあったからこそ今の自分がここにいるのだと、今ここに生きているのだと考えた方が、心穏やかになれることは確かだろう。

 しかし、こうしたニーチェの提示した”偶然”というテーマは、その背後にニーチェ的”ニヒリズム(虚無主義)”を含んでいて、その思いを受け継ぎながらも、その混とん世界を振り払うべく、”超人”思想実現のために自分をかけたのが、私の敬愛する作家の一人でもある、フランスのアンドレ・マルロー(1901~1978)である。
 彼は、若き日に南アジア冒険行に挑み(『王道』)、中国革命の現状の一端に触れて(『征服者たち』『人間の条件』)などを書き、スペイン内乱では共和国軍に加入し(『希望』)、さらに自国では対独レジスタンスに加入して(『アルテンブルグのクルミの木』)などを書いた後、革命的活動からは離れて、ドゴール内閣の文化相を長年務めたように、最後に到達した世界は、人間の希求の理性ある表現でもある、美術の世界(『東西美術論』など)だったのだ。

 人それぞれの”生き方”の話が、いつしかマルローの話になってしまったのだが、このマルローについては、今までにもこのブログで事あるごとに書いてきたのだが、さらに改めて、彼の著作物をたどってゆき、その行動の意図するところをもう一度考えてみたいという思いもあるが、最後にたどり着いた所が美術の世界だということは、もちろん、そんな彼が考えたほどの深い意味はないのだが、私にも思い当たる所があるような気がするのだ。
 つまり、行動が伴わなくなってきた年寄りの私としては、もちろん以前からあった、絵画や映画にクラッシック音楽の他に、山に登れなくなってきた代わりに、写真芸術としての作品を手元で鑑賞する楽しみが増えてきたことにもなるし、もしかしたら、AKBの娘たちが歌い踊るさまをテレビで見ることも、言葉を変えて言えば、人間の理性ある希求表現を、芸術作品として見ることの愉(たの)しみからくるものなのかもしれない。

 そうした思いの一方で、”与作は木を切る”という、人間の動物的行動の充足による満足感もまた捨てがたいものなのだ。
 この一週間で、さらに十数本の木を切り倒し、枝払いをして、大体の寸法に切り分けていった。
 と書くと、簡単な造林作業のようだが、これまでも書いてきたように、いつも危険と隣り合わせの、集中力を切らすことのできない作業であり、年寄りの私には、とても3時間以上は続けられない仕事ではある。
 林内で、すべての木を計画的に順を追って切っていくことのできる皆伐(かいばつ)ではなく、ある意味での択伐(たくばつ、木を選んで切っていく )作業なだけに、それも強風によってそれぞれに勝手な方向に倒れている木だけに、その処理は始末に負えないものになるのだ。

 下の写真は、1m50cmぐらいの所でへし折れた木の上に、他の木が二本折り重なって倒れていて(手前の二本も倒木で)、どこから切ればどう倒れ落ちてくるだろうと推測しながら、神経を使って、この三本すべてを処理したのだが、他に引っかかっているミズナラやカエデなどの木はなるべく切りたくないから、それらをよけて切っていくには手間がかかるし、途中でまたチェーンソーのバーが木の間に挟まったりで、それを取るのに一苦労して、ともかく2時間余りかかってしまった。
 さらに危険なのは、前にも書いた、急速回転する刃が木に食い込まずに、反発して起きるキックバックであり、一度チェーンソーのスロットルを握ったまま、つまりチェーンソーが動いているままの状態で、転んでしまった。
 とっさに、そのチェーンソーを放り投げて倒れたからよかったものの、まさにひやりとした一瞬だった。

 切り倒しておくべき木は、あと数本だから、二三日もあれば何とか片がつくだろうが、またその後には、100kg以上もある切り分けた木の寄せ集め作業があり、今度はぎっくり腰の再発が心配になるし、枝払いで散らばっている木の枝もまとめ集めておかなければならない(来春花開く植物たちのためにも)。
 今年は、去年よりは、ずっと早めに九州に帰るつもりだから、とても全部の作業を終えることはできないだろうし、ただこれからも、自分の年を考えて、労働が小さな楽しみとなるように、働いていけたらいいのだが・・・。

 「時を誤(あやま)らず、しかるべき手順を整えて、働く気を起こさなければならぬ。」

 「また働くことで、いっそう神々に愛されもする。」

 「労働は決して恥ではない。働かぬことこそ恥なのだ。」
 
 「お前がどのような運に生まれているにせよ、働くに如(し)くはない・・・。」

(『仕事と日』 ヘーシオドス 松平千秋訳 岩波文庫より)


 


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