ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ツタウルシ

2016-10-10 22:10:53 | Weblog

 

 10月10日

 最低気温が5度前後にまで下がってくると、さすがに暖かい丸太小屋とはいえ、室温も15度にまで下がってきて、ついに薪(まき)ストーヴに火を入れることになった。
 そして、春先以来久しぶりに、ストーヴの中で薪の燃える音が聞こえてきて、じんわりとした心地よい温かさが周りに広がってゆく。
 それまで、長年使っていたステンレス製の煙突に、もう掃除しても取れないほどにタールがこびりついていて、燃え方も悪くなっていたから、先日、耐熱塗装済みの煙突に取り換えていて、それで今は、もう気持ちがいいくらいによく燃えてくれているのだ。
 そこにやかんや鍋を乗せておけば、時間はかかるけれども、お湯を沸かすこともできるし、コトコトとシチューなどを煮込むこともできる。
 ケチな話をするようだが、それで高いプロパン・ガス代の節約にもなるというものだ。

 それは秋が来たというよりは、明らかに今までの、夏季(夏のシーズン)から冬季(冬のシーズン)へと変わる境目の日だったのだ。
 もちろん1年というものは、それぞれの四季によって区切られてはいるが、北国の四季は、内地のように、4か月単位で区切られるほどに、単純なものではない。
 北海道内でも、各地によって大きな差はあるが、早い所では初雪の降る今頃から冬の時期が始まり、そこから雪のある時期が半年近く続き、そうしてようやく暖かくなり、花が咲き乱れる春になったと思うのは、4月の終わりから5月に入ってのことである。
 そんな6月半ばごろまで続く春の季節から、北海道でも暑い日のある7月、8月の夏があり、わが家の周辺では、9月には穫り入れ時の秋になり、紅葉の時期も10月いっぱいで終わりになる。
 つまり、雪のある間と雪のない間とに大きく分ければ、1年を冬と夏の二つに大別できるということなのだ。

 だから、冬の間は暖かい九州にいて、ちょうどいい季節になってから北海道に戻って来る私のことを、周りの農家の人たちは言うのだ。”夏の間だけここにいて、結構な身分だわ”。
 もっとも、私には私の言い分もあって、日ごろから切り詰めた生活をしていて、そうした貧乏生活をしてまでも、私はこの北海道にいたいのであり、実際は、冬の北部九州の山の中にある古い家はすきま風が多く、暖房も不十分で、薪ストーヴのある北海道の家にいるより寒いくらいだし、夏の北海道の暮らしにしても、いつも書いているように、井戸水が干上がることもあって、いつも生活水には気をつけなければいけないし、家の中にトイレもなく(外の小屋の非衛生的ぽっとんトイレだけで)、風呂にも入れず(外に五右衛門風呂はあるが、井戸水が十分ある時に数回沸かすだけ)の上に、洗濯できない(水不足と排水問題)などと、年寄りになってきた今では、何ともつらい事情がいろいろとあるのだ。

 何事でもそうだが、私たちは自分の目で見えるものだけで判断し、自分の理解できる範囲内でしか評価できないものだから、もちろんそうしたことがつきものの人間の社会だからと、細かく考えずに鷹揚(おうよう)に構えて、周りに迷惑だけはかけないようにと心がけ、後はただ年寄りのぐうたらさだけで、のんべんだらりと、心穏やかに、生きていけばいいだけのことだ、と思っているのだが。
 もちろん、それはやるべき日々の仕事をきちんとやったうえでのことではあるが、それにしても、人は振り返ることのできる歳月がたってから、ようやくいろいろなことがあったことに気づくのだろう。
 東京を離れたことも、この丸太小屋をたった一人で建てたことも、決して間違いではなかったし、すべては私が生きていく上で必要なことだったし、今はすべてのことに感謝したいと思っているほどだが。

 そして最近、このブログに毎回書いている、カラマツ林の台風被害倒木等の、後片付けのための伐採(ばっさい)作業も、思えば今の私には最もふさわしいやるべき仕事だったのだと思っている。
 足のヒザの負傷もあって、山にも行くこともできずに、蚊やアブが多くていやだと理屈をこねて庭仕事もせずに、荒れ放題の庭はそのままにして、ただ日々ぐうたらに過ごしていた私に、天から私への一喝(いっかつ)の声があったのだ。
 「何してんねん。人間働かなあかん。」 
 それは、前回書いた、あのヘーシオドスの『仕事と日(労働と日々)』にある警句のように、聞こえてきたのだ。

 私は老いた体にムチを当て(あへー、女王様お許しを、と身もだえしながら・・・てなことはないが)、それから1か月近くを、カラマツ伐採と後片付けに精を出してきたのだ。
 それでようやく、倒木や傾いた木の多くを切り倒し、大体1.8m寸法の大きさに切り分けてきたのだが、まだあと数本傾いた木が残ってはいるが、それはすぐに枯れるわけではないから、来年に回して、予定していたカラマツの木の二十数本は切り終えたのだ。
 この林の中での択伐(たくばつ)作業には、危険が伴い、短い時間ながら気持ちが張り詰めて、ひどく疲れる仕事ではあったが、ともかく一番危険な仕事を何とか無事に終えて、今はほっとしているところだ。
 しかしまだ、その切り分けた丸太が散らばる、林内の後片付けをしてしまわなければならない。 
 林の中で作業できる重機もないし、すべては自分一人の力で、何とか100kg200kgもある丸太を動かし、ひと所に集め片付けていかなければならない。
 これが非常に体力を要する仕事で、寒い風が吹いている中でも大汗をかいてしまうほどだし、腰を痛める心配もあるし、1時間程立ち働けばもうぐったりとしてしまう。 
 そうして、丸太と枝葉に分けて、一たまりの場所に積んでいくのだが(写真上)、まだ太い丸太を含めて数十本分は残っていて、数日かけての仕事になるだろう。

 そんな仕事の中で、何とかぎっくり腰が再発することもなく、ここまで順調にやってこられて一安心ではあるのだが、実は数日前からやっかいなことになってしまった。

 主に両腕の所に、他にもわき腹などに、ひどいかぶれが起きて、赤い斑点から水ぶくれ状に腫れて、かゆくて夜中に目が覚めるほどになっている。
 おそらくは、ツタウルシによるかぶれなのだろうが、ここまでひどい状態になったのは、記憶にある限り、子供のころ以来のことであり、それはハゼの実の収穫作業手伝いに行っていた母についていって、そこでかぶれて顔中がはれ上がったのだ。
 今回の原因も、分かっている。

 もともとこの林内には、カラマツなどに巻き付いて登ってゆくツタウルシが多くあるのは分かってはいたが(写真下)、紅葉の時などには、林内を彩(いろど)ってきれいなので、むしろそのまま生えるがままにしておいたのだ。
 しかし、今回の台風倒木で、そんなツタウルシの巻き付いたカラマツの木が何本も倒れていて、それをチェーンソーで切って寸法に切り分け、その丸太何本かを動かし運んだのだが、その時、もちろん手にはゴム引き手袋をはめて、上には長袖ジャージーを着て作業をしていたのだが、汗だくになって、上着を脱いでTシャツ一枚になり、その時ツタウルシが巻き付いたままの丸太を抱え上げ、腕がチクチクしたのを覚えているが、翌日からその両腕内側に、みみずばれができていて、日ごとにかゆくなっていったのだ。

 幸いにも子供の時にできたような、顔にまで腫れはできていないからいいが、ただでさえ”こわもて”の顔だと恐れられている私の顔が、このウルシかぶれで腫れあがっていたなら、それはもうふた目と見られない恐怖のゾンビ顔になっていて、周囲の皆様方に、多大なるご迷惑をおかけすることになったのだろうが、せめてもの、いつものじじい顔のままで、思わずほっとして鏡の自分に、にっと笑って見せるのだが、もっともこっちのほうが気持ち悪いのかも。

 ともかくとりあえずはと、手持ちの市販薬塗り薬を塗ったが、その時はいいが、しばらくたてばまたかゆくなってしまうし、ネットで調べてみると、治るまでには一二週間かるというし・・・まあこれは一体、神様の何というお告げなのかと考えてみるが、思えば、危険なチェーンソー作業で、ここまで事故一つ起こさずに、二十数本もの木を切り倒すことができたのだから、このぐらいのウルシかぶれで文句言ってる場合かとも思う。
 しかし、それにしても”かゆーいの”(間寛平の古いギャグ)。

 こうしたやっかいな皮膚病にかかったとしても、やはり今回の林内伐採作業は、どうしてもやってしまわなければならない仕事だったから、後悔することはないのだが、むしろ久しぶりに身の入った仕事で、体の方でも、その無心に動くことの悦びを覚えていたくらいだ。
 仕事をすることについては、前回もあのヘーシオドスの『仕事と日(労働と日々)』からの言葉をあげていたが、今回は、これもこのブログで参考にあげることの多い、貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』の中からの言葉を載せておく。

 「家に居て、時々わが体力の辛苦せざる程の労働をすべし。・・・。」(『養生訓』 貝原益軒著 伊藤友信訳 講談社学術文庫より以下同、「総論下」二)

 「華佗(かだ、昔の中国の医者)が言に、人の身は労働すべし。労働すれば殺気(さっき)きえて、血脈流通すといえり。
 およそ人の身、欲をすくなくし、時々身を動かし、手足をはたらかし、歩行して久しく安座せざれば、血気めぐりて、滞(とどこお)らず、養生の要務なり。」(「総論下」三)

 「山中の人は多くはいのちながし。古書にも山気は寿(じゅ)多しという。又、寒気は寿(いのちながし)ともいえり。
 山中はさむくして、人身の元気をとじかためて、内にたもちてもらさず。ゆえに命ながし。・・・又、山中の人は人のまじわりすくなく、しずかにして元気をへらさず、万(よろず)ともしく不自由なるゆえ、おのずから欲すくなし。・・・。」(「総論下」二十)

 これは、当時としては、84歳もの長寿を全うしたともいえる、益軒先生の”長生きの心得”ともいうべき書であるが、最近のテレビ『(ためして)ガッテン』他の健康番組で、正しい健康方法などがたびたび放送されているように、現代の医学常識、研究成果の実例から言えば、到底受け入れがたい、非科学的な事例も数多く見受けられるけれども、一方では、現代に生きる私たちが、これを”昔の長生きのための書”としてではなく、昔の人の随筆として、『方丈記』や『徒然草』を読むときのように読んでいけば、この書の中には、長生きという目的を離れて、人間の生き方として素直に心に入ってくる言葉も多くあり、そこに、同じ日本人としての”和の心”とでもいうべき、血脈の連なりを感じてしまうのだが・・・。

 それは、若いころには、深く考えもしなかったことだが、年寄りになるということは、こうして様々なものが見えてくるようになるということでもあり、そしてこれは本心からの思いだが、年寄りになっていくということは、実にありがたいことでもあるのだ。
 10歳には10歳なりの、20歳には20歳なりの、40歳には40歳なりの、80歳には80歳なりの、その時々の哀しみと愉(たの)しみがあるものなのだと・・・。



  


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