ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ジャーク

2016-10-17 21:26:56 | Weblog



  10月17日

 久しく、小鳥の声を聞くことがなかった林の方から、何やらにぎやかな声が聞こえてくる。
 渡り鳥である、ツグミの群れがやってきたのだ。
 シベリヤの方から南下してきた、ツグミたちは、まだ秋色さ中の北海道に降り立ち、さらに少しずつ距離を伸ばしては、本州の方へとさらなる旅を続けるのだろう。
 渡り鳥であるがゆえの、いくつもの困難さを乗り越えて、それでも彼らは毎年、生きている限りは続く渡り鳥としての本能のままに、同じ旅を繰り返すのだ。
 そこには、海峡を越えての長距離飛行があり、自分が今まで暮らしていた場所とは違う所での、休息や採餌(さいじ)に際しては、危険な外敵へのさらなる注意が必要であり、そうした数々の困難を乗り越えていかなければならない。

 確か、二三年前のNHKのドキュメンタリー番組だったと思うが、北海道最南端の松前町は白神岬辺りから、本州最北端の竜飛(たっぴ)岬へと渡って行く、ヒヨドリやツグミたちの群れの姿がテレビ画面に映し出されいて、私はそれを見ながら思わず手を握りしめていた。
 海のそばの林の中で、それまでの旅の疲れをいやした後、天候を待って風向きを確かめて、いざ飛び立ちの時になる・・・風の抵抗が少なくて揚力(ようりょく)を得られる、海上すれすれの所を、群れになって、互いに鳴きかわしながら飛んで行く。
 やっとの思いで、竜飛岬が近づいてきたころ、疲れた渡り鳥たちの群れをねらって、猛禽(もうきん)類のワシやタカなどが襲ってくるのだ。

 それは、ヒヨドリやツグミたちにとって、自分たちの種族が強く生き残るために、自らに課した”渡り鳥”としての危険な試練の場であり、一方で、彼らを捕食しようとするワシやタカたちにとっても、決していつも成功するとは限らない、日々の食のための危険と隣り合わせのやむにやまれぬ行為なのだ。
 両者に共通するのは、ただ生きるということ。
 人間たちのように、フロイトだアドラーだなどと考え、ニーチェだハイデッガーなどと悩んでいるヒマなどないのだ。
 
 昨日、家のそばにある小さな花壇の花に、少し翅(はね)がすり切れたモンキチョウが止まっていた。(写真上)
 秋になって、最後の花を咲かせている花があり、一方では、自分の体力が弱ってきていても、それだからこそ最後の秋の花を探し求めて、蜜を吸おうとするチョウがいる。
 そして、暖かい秋の日差しの中、初雪の日が近いことを知らせるように、白い綿毛に覆われた小さな雪虫(ゆきむし)が、二匹三匹と辺りを飛んでいた。
 
 暖かい日が多くて、家の林の紅葉も遅れていたが、この数日の霜が降りるほどの冷え込みで、はっきりとわかるほどに色づいてきた。
 それに合わせて、私の一カ月余りも続いた、林内伐採(ばっさい)作業とその後の片づけ整理作業も、ようやく終えることができた。
 伐採作業については、今まで詳しく書いてきたので繰り返さないが、計画伐採ではない、林内での風倒木(ふうとうぼく)の択伐(たくばつ)作業が、危険なものであったことは言うまでもない。
 しかしその後の、散らばった丸太や枝葉の片づけ作業も、これまた”ゆるくはない”(意外に大変な)仕事だったのだ。
 
 、一般的な林業作業としての、計画皆伐(かいばつ)にして、林内のすべてを切り払ってしまえば、事は簡単なのだが、 私はたかだか一町歩(3000坪)足らずの自宅林の中で、もともとそこに植えられていた、カラマツの木を間伐(かんばつ)していって、ストーヴの薪(まき)として利用するだけではなく、そこに自然に生えていた、シラカバ、カシワ、ミズナラ、ミズキ、モミジ、カエデなどの落葉広葉樹を、そのまま育てていって、他にもここに生えている針葉樹の、エゾマツ、イチイなどとともに、そうしたさまざまな木が生えている、明るい混交林(こんこうりん)にしたいと思っていたのだ。

 それだから、カラマツの間伐の時にしろ、今回のような風倒木処理の時にしろ、切り倒した木は、ストーヴの薪としてだけでなく、一部は掘っ立て小屋を作る時の、柱や棟木(むねき)として利用するから、そのまま放置して腐らせるわけにはいかないし、それらの木々についていた枝葉もそのままにしておくと、下草の花々(ベニバナイチヤクソウ、ツマトリソウ、クゲヌマラン、ウバユリなど)のためにも良くないので、取り除いておかなければならないのだ。
 枝葉は簡単に片づけられるが、問題は、重機などが入れない林の中での人力作業にあり、それも、一人では持ち上げられないような丸太の移動をどうしてやるかだ。
 中径木くらいまでは、何とか抱え上げて運び一緒にまとめて積み上げられるが、問題は100kg、200kgもある大径木の場合だ。
 切り倒した所から転がして行くことができれば楽なのだが、先に書いたように、混交林の林を目指していて、他にもたくさんの小さい広葉樹があるから、すぐにどこかが引っかかってはそれ以上動かせなくなる。

 となると残りは、”尺取虫式運搬法”しかない。
 まず、丸太の両端のどちらかがわを持ち上げ、さらにそのまま何とか腹のあたりまで上げて、そこでグイと腹を出してつっかい棒のように止め、呼吸を整えて、そのまま頭の上まで持ち上げる。危険ではあるが、そう、あの重量挙げの時の、ジャークの姿勢のように。
 時には頭で次のつっかい棒代わりにして受け止め、さらにもう一呼吸入れて全力で頭と両腕をあげて、丸太を垂直にまで立てると、急に楽になり、反対側に倒せばいい。
 ただし、一回の持ち上げ作業で全身の力を使うため、丸太を立ち上げ倒したところで、息が続かないで、ゼイゼイあえぐくらいの仕事になって、とても続けてすぐにまた持ち上げるというわけにはいかない。

 そうした”尺取り虫法”で、一回にその丸太の長さの1.8mくらいの距離を動かすことができるが、それも遠くにまでは運べないから、林内の10か所余りに設けた集積所、と言っても簡単に小さな丸太を枕に10本余りを並べているだけにすぎないが(前回の写真参照)、そこまで運んでいって、そこで皮をむいて二三年乾燥させれば、材として使うことができるし、皮をむかないでそのままにして同じように二三年置いて、その後で短く切り分けていけば、薪として利用できるようになるが、それを過ぎると、後は腐って行くだけで使い物にならなくなるし、実際の所、そうして間伐してきたわが家のカラマツ林の木の半分は、そのまま使いきれずに腐らせてしまい、朽ち果てるままになっているのだ。
 欲しい人がいれば、あげてもいいのだが、(実際のところ、周りの農家のおやじさんが、孫の鯉のぼり用のポールにと二本ほど持って行っただけで)、ともかく人力で運び出す他はないし、薪として使用するには、ヤニが多すぎてストーヴで燃やすには余り適していないし(それでも仕方なく薪にして使ってはいるが)、また家具などの材としては、乾燥途中でのねじれや狂いが大きくて、実用的ではないし、全く”使えない”材ではあるが、乾燥させてしまえば水には強く、その昔、石炭採掘盛んなりしころには、坑内の支え丸太として使われたというのもうなづけるところだ。

 とは言っても、そんなカラマツの木が、私は好きだ。
 何のためらいもなく、まっすぐに上に向かって伸びていく様(さま)がいい。
 幼木として植えても、すぐに大きくなっていく、その成長の早さが小気味いい。
 針葉樹としては珍しく、秋になるといっせいに黄葉し、いっせいに散って行くそのいさぎよさがいい。
 晩秋の十勝平野の、その青空を背景に、立ち並んだ黄葉のカラマツの木々ほどに素晴らしい眺めはない。

 山にあるカラマツ林もいい。
 北海道の山にあるカラマツの木は、ほとんどが植林であり、本州の杉の植林地と同じように、区画的分布になっていてあまり面白味はないが、原種である長野県の山々の山裾を彩るカラマツの黄葉は素晴らしい。
 上高地の道を、梓川(あずさがわ)沿いに横尾へとたどって行く時に見えるカラマツの大木たち、対岸には初雪に彩られた前穂高岳(3090m)がそびえ立ち、その山裾をめぐるように鮮やかなカラマツの黄色い帯。
 燕岳への、合戦(かっせん)尾根の急な登りを慰めてくれるかのようなカラマツ林。その彼方に白雪の大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)が見えてくる。
 浅間山(2560m)から籠ノ登山(かごのとやま、2227m)、四阿山(あずまやさん、2333m)と続く上信国境火山群の山裾に続く、カラマツ林。

 ああ、山に登りたい。
 6月の終わりに、大雪山は緑岳に登った(7月4日、11日の項参照)のを最後に、もう4カ月近くも山に登っていない。
 あの登山で一気に悪化した、ヒザのケガのためだとはいえ、東京で働いていた時、忙しくて山に行くどころではなかったあのころが、もう何十年前のことになるのやら、その時以来のことだ。
 
 しかし考えて見れば、次はいつどの山に登るかということだけを考えていた私が、なすすべもなく、ただ欝々と(うつうつ)と日を過ごし、生来のぐうたらさに溺れて、ひたすら”出不精”(この場合”デブ症”の意味もある)になっていっただけなのだが、そこに台風がやってきて、神様の一声が聞こえたのだ、”人間、働かなあかん”。
 そして折よくと言うべきか、風倒木処理の緊急事態が発生し、仕事をせざるを得なくなったのだが、まさしく”災い転じて福となす”の例え通りに、今では、仕事をやり終えた満足感に浸っているほどなのだ。
 毎日の神経を張りつめた仕事の中で、大汗をかいて仕事をして、その仕事をしただけの成果を見て、ある意味これがまた、登山することに代わる喜びにもなったのだ。
 もちろん世の中には、日々、生きるために働いている人たちが殆んどであることは言うまでもないことだが、ここに書いていることは、年老いたじじいの、ぜいたくな”労働と日々(仕事と日)”のつぶやきにすぎないことと、ご了承頂きたい。

 ともかくこの一カ月で、多くの木を切ったが、しかしこの自宅林内にはまだ百本以上ものカラマツの木が生えていて、とても私が生きている間に間伐や風倒木として、全部を伐採してしまうことなどできないだろうし。
 それらの中には、直径40cmを超える大木も何本かあり、その威風堂々(いふうどうどう)としたたたずまいは、見ているだけでも気宇壮大(きうそうだい)な気分になれるが、ただ私が生きている間はもちろんのことだが、私が死んだ後でも、そのまま生き残ってほしいものだ・・・。
 
 そこで思い出したのは、前にも何度かこのブログでも引用したことのある、あのヘルマン・ヘッセ(1877~1962)の『庭仕事の愉しみ』(V・ミヒェルス編 内田朝雄訳 草思社)からの一節である。
 
 「木は、私にとっていつもこの上なく心に迫る説教者だった。
 木が民族や家族をなし、森や林をなして生えているとき、私は木を尊敬する。
 木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。
 そのような木は、孤独な人間に似ている。
 ・・・。
 しかし木は無限の中に紛れ込んでしまうのではなく、その命の全力をもってただひとつのことだけを成就(じょうじゅ)しようとしている。
 それは独自の法則、彼らの中に宿っている法則を実現すること、彼ら本来の姿を完成すること、自分みずからを表現することだ。

 一本の美しく頑丈(がんじょう)な木ほど、神聖で模範的なものはない。」

 毎日、天気の日が続いている。
 毎日、夕日が、シルエットになった日高山脈の向こうに沈んでゆく。(写真下)

 あの西の空の向こうには、ただ同じように夕日が沈みゆく、同じような国があるだけのことだ。
 糸車の中を回るハツカネズミのように・・・繰り返し同じ光景を見ているだけのことだ。
 しかし、そのハツカネズミが、自分の手足を使って回っている今こそが、息を切らし必死になって回り続けている今こそが、彼だけに分かる、生きている大切な時間なのだ、と思う。
 
 昨日今日と、この時期にしては気温が高く、20度前後にまで上がっていた。
 風もない、暖かい空気の中、今日はまた、何匹もの雪虫が飛んでいた。
 まるで、ふわふわと漂う、小さな雪のひとひらように・・・。