ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

遥かなる山々

2016-05-30 21:52:23 | Weblog



 5月30日

 北海道に戻ってきて、一週間余りになるが、その間にも季節は、移りゆく春の色合いをまき散らしながら、確かな歩みで進んで行く。
 わが家の庭には、赤と黄色のチューリップの花と、桃色と白のシバザクラの花が咲いていた。
 緑の芝生の中で、ひときわ強く春の色合いを見せつけるように咲いていた。

 エゾムラサキツツジの花は、もうほとんどが散っていたが、その傍ではレンゲツツジのツボミが大きくふくらんでいた。
 庭木のリンゴの白い花が枝もたわわに咲いていたし、ライラックの紫の花のかたまりも咲こうとしていた。
 家から庭に出ると、一瞬そのリンゴの花と、シバザクラの花の香りで、むっとくるほどだった。

 そして今は、さしもの春の勢いも峠を過ぎて、草木にとっては、初夏に向かっての分厚い活力をため込む時期になっていた。
 毎日天気の日が続き、帯広では4日連続の30度超えの真夏日が続いた。今はまだ5月なのに、むしろ真夏でさえ、それほど高い気温の日が続くことはないのに。
 この北海道に来ることの楽しみの一つである、山々の眺めは、残念ながらしばらくの間は、その高温の影響もあってか、かすんだ空気の中でぼんやりと山波が見える程度でしかなかったのだが、その後風の強い日があって、空気が入れ替わったのか、いつものように残雪の日高山脈が姿を現した。

 近くの小高い丘に登れば、南は、広尾町音調津(おしらべつ)先の岬から、北は佐幌岳(1059m)に至るまでの百数十キロ以上にわたって連なる日高山脈の全貌が見えるのだ。
 とは言っても、今までは、大体一月以上前の4月半ばには戻ってきていたし、さらにはここでまるまるひと冬を越したこともあったから、真冬の全山真っ白の山波を眺めていて、それが春先になって、少し少しずつ山の尾根の形に雪が溶けていく様子を、日々つぶさに観察することができたのに、今回は戻ってくるのがすっかり遅くなってしまい、残雪があちこちに残るだけの山の姿になっていたのだ。

 それでも、十勝平野に大きな根張りをもってそびえ立つ十勝幌尻岳(とかちぽろしりだけ、1846m)を真ん中にして、左右に2000mから1900mに至る、まだ残雪豊かな日高山脈の主峰群が立ち並ぶさまは、決して見あきることのない山岳景観ではある。(写真上、中央に十勝幌尻岳、左に札内岳がのぞき、右に1967峰からピパイロ岳)
 さらに北端の佐幌岳の後ろには、まだ真っ白な大雪山と十勝岳連峰も見える。

 何度も書くことだが、私の人生の終わりには、願いがかなうことならと思い描いてみるのだ・・・日高山脈が見える十勝平野の小さな丘の上に行って、そこで横になり、その時の風の音や、遠くに聞こえる鳥の声などを聞きながら、できることなら小さく、バッハのピアノ曲でも流れてくれば申し分ないのだが、そうして、いつしか知らず知らずのうちに死への眠りに落ちてゆけたら・・・。
 それこそ、昭和ロマンの時代に生まれ育ち、夢見がちな思いのまま死に行く、このじじいにふさわしい、空想でしかないのだが、しかし現実は、多くの誰でもがそうであるように、それは思いがけなく、”デス・ストーリーは突然に”やってくるものだろうし、それが悲惨な終わり方になったとしても、今はただこの時間をいっぱいに生きることであり、併せて”妄想族(もうそうぞく、タモリの造語)”の一人として、心楽しい終りの夢も見ていたいものだ。

 いつもは、まだ山々の残雪豊かな時期に戻ってきて、時にはその冬山のころと変わらない雪山を目指して、日も置かずにすぐに山登りに行ったものだが、今では、もうそうした居ても立ってもいられないほどの、山の想いに駆られることもなくなってきてしまった。
 それは、哀しいことに、そうして山に行こうという気にならないほどの、情けない体になってしまったからだ。
 と書くと大げさだが、早く言えば、この春先からのヒザの状況が、依然として思わしくないからだ。
 特にあの春先の九重登山以降(5月16日の項参照)、悪化したヒザが十分には回復しないままであり、その原因の一つが、前回書いた、一日だけだったがあの東京滞在にあったのだ。
 それは、まず美術館での2時間半余りもの時間が、座ることのない立ちっぱなしであったことと、その美術館内を含めて、JRの駅の乗降に何度もの階段があって、それがヒザにはこたえたからである。
 その昔、若い時に東京で働いていたころには、山登りの訓練のつもりで、JR・私鉄・地下鉄の階段はすべて一段飛ばしで駆け上がり駆け下っていたものなのに・・・”昭和は遠くなりにけり”。 

 そんな感傷に浸るのはともかくとしても、ヒザに関して言えば、例のごとくコンドロイチン薬剤服用と、患部を冷やすことぐらいしかできないのだが、何とか少しずつ良くはなってきているようにも思えるのだが、普通に歩く限り問題はないが、階段の上り下りはまだ重たいかすかな痛みがあり、とても山には行けない状態だ。
 あの残雪を踏みしめて、山を歩いて行きたい、せめて1,2時間だけでもいいからと思うのだが、悲しいかな今こうして家にいるのが現実なのだ。
 そこで町の本屋さんに寄って、山の雑誌を買ってきて、もう行くことはできないかもしれない、山々の写真を眺めている。
 もう今は、”遥かなる山々の呼び声”(1953年公開の映画『シェーン』のメイン・テーマ曲)を聞くだけになってしまったのだ。

 もっとも山に行けない代わりに、家の庭仕事や、林内仕事はいくらでもあるし、林から畑の傍を通ってまた林の中に入り、見晴らしのきく丘にまで歩いて行き、そこで晴れた日の山々を眺めては楽しむことはできるのだし、そう悲観したことでもないのだ。
 その庭仕事では、タンポポなどの草取りをして、その後で芝生の刈り込みをして、花が終わったチューリップの花房を摘んでいき、小さな畑を起こして、自分で作った堆肥を入れて、トマトの苗とジャガイモを植え付け(年ごとに植え付ける野菜の種類が減っていくが)、イチゴ畑に肥料をやり、これからは、道の周りや林内の草苅りもしていかなければならないし、山に登れないぐらいであれこれ言っている場合ではないのだ。
 林内では数日前から、恐ろしい数のエゾハルゼミの声がいっせいに鳴り響き、あの”耳を聾(ろう)するばかりに”という表現の通りに、周りの物音が一切聞こえないほどなのだ。(写真下、サナギから孵(かえ)って木の幹ではなく、牧草の穂先にとまっているエゾハルゼミ)



 ところが今日は曇り時々晴れで、日差しも十分にあるのに、林内はしんとしていて、たまに一二匹が遠慮がちに鳴くだけだ。
 それもそのはず、今日の気温は最高でも15度足らずで最低気温は5度、昨日との差は10度近くもあり、一気に冷たい空気が入ってきて、さすがのセミたちも動きが取れなくなったのだろう。
 この肌寒さは、一か月前のころの気温というだけでなく、天気も明日からは崩れてきて三日間も続くとのこと、セミたちはどうするのだろう。

 さらに気がかりなことがもう一つ、庭のライラックの木には、今を盛りとばかりに、二三十房もの紫の花が咲いているのだが、なんと悲しいことに、その幹がぐるりとシカに食べられているのだ。(写真下)
 ライラックだけではなく、チシマザクラも、ハマナスも、その枝先や幹の皮が食べられてしまっているのだ。
 九州でも、近くにあった直径30cmものネムノキの幹が、ぐるりとシカに食べられて、その年は何とか花は咲いたが、次の年はほんの二枝くらいが咲いただけで、そしてその次の年には完全に枯れてしまい、今はその切り株が残るだけだ。(’12.12.27の項参照)
 せっかく、年毎に色鮮やかな紫の花を咲かせて、私の目を楽しませてくれたライラック・・・もう二年とはもたないだろう。

 前にも書いた南・北アルプスでの、シカやサルたちによる、高山植物や果てはライチョウに至るまでの被害だけでなく(5月9日の項参照)、全国至る所から報告されている里山での、農林業の被害・・・その対策はいろいろと考えられているようだが、どれも目立った効果をあげてはいないように思える。
 このわが家の周りでも、農家の畑へのシカの被害が大きく、何キロにもわたって高い牧柵が張り巡らされたのだが、私のような農家でもない所でさえこうした被害があるのだ。

 そこで、ふと気づいたのだが、サルの餌付(えづ)けによって野生のサルを観光資源にした、九州は大分高崎山のように、ひと山まるごとの自然そのままが彼らの生活圏になり、しかし大半のエサはエサ場で人間から与えられるものに頼っていて、それだからこそ近隣農家のサルの被害が少ないのだろうが。
 つまり、これからの野生生物に対しては、そのまま自然の中で自力で生活するのが本来の姿ではあろうが、例えばそのままの手つかずの原生林と、人間の手によって植林され育てられてきた植林造林地があるように、被害の少ない保護すべき地域と、被害の多い地域とに分けて、人間側が餌付けをして、一定の地域に、ゆるやかに閉じ込めることはできないだろうか。
 あのイギリス歴史上で有名な二度目のenclosure(エンクロージャー、囲い込み)が農業革命と言われたように、双方の利益になるようにできないものだろうか、そして、その動物たちの姿を見せることで新たな観光資源にはできないものだろうか、大分高崎山や宮崎幸島、瀬戸内海小豆島そしてスノー・モンキーで有名な志賀高原地獄谷のサルたちのように、あるいは奈良公園のシカたちのように・・・と思ってはみるのだが。

 そのためには、多額の費用がかかることだろうが、しかしこれからは、野生生物に対しては、お金をかけて人間の側で保護していかなければならない時代になったのだし、他人事に見える野生動植物の存亡の危機は、同じ地球上の生き物である私たち人間にも、いつかは同じようにかかわってくるものなのだ。
 地球上の自然が作り上げた環境は、何も人間だけが勝手に使い乱していいというものではないし、これからは同じ生き物同士として、お互いの利益を守るためにと、考えていくことが必要になるのだろう。

 もっともこの世の中にはさまざまな考えの人がいて、熊本地震の時に書いたように、”古い木造家屋に住む年寄り9人が死んだくらいで何”と、ネットに書き込む若者がいるくらいだし(4月18日の項参照)、戦争はだめだとみんなが思っていてもいつも戦争は起きてしまうし、人間の世の中というものは、いくら世界の歴史を繰り返し見直したところで、同じことを繰り返している、懲(こ)りない人々の集まりだとも思えてくるのだが。
 かくいう私も、同じ過ちを繰り返しては、学ぶこともなく、へらへら薄笑いを浮かべて生きている、どうしようもない年寄りの一人ではあるが。

「こうして生きてはいる木の芽や草の芽や」
 
「どうしようもないわたしが歩いている」
 
(『山頭火句集』より ダイソー文庫)