ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

船の跡なきごとし

2016-05-23 21:34:53 | Weblog



 5月23日

 数日前に、北海道に戻って来た。
 家の庭も周りの草木も、もうすでに春の盛りの中にあった。
 やるべき仕事がいろいろとありすぎて、まだ頭も体も慣れていなくて、時々”ここはどこ、ワタシは誰”状態になってしまうほどだ。
 ともかくは、これまでのことを、時間をさかのぼってたどって行くことにしよう。

 晴れた日の朝早く、九州の家を離れて、まずは東京に行って、そこで一晩泊まることにした。
 最近は、山に登るために、あるいはその帰りに東京に立ち寄ることはあっても、東京に泊まることはなかったのだが、それは近年の東京の宿泊状況が、とみに厳しくなっていて、簡単にホテル予約などできなくなっているからだ。
 まして、安いビジネスホテルの部屋を探す私には、もう運任せに、それぞれの宿にあたってみるしかないのだ。
 ネットで調べていくが、軒並みに満室の表示が出ていて、それでは少し高めなところまでと当たってみたのだが、状況は変わらない。
 そこでふと目に入った、カプセル・ホテルを調べてみると、やっと空きがあって予約することができたのだが、料金は、地方のビジネスホテルと変わらないほどだった。
 
 それまでに、私は一度だけカプセル・ホテルに泊まったことがある。
 十数年も前のことだが、そのハチの巣のような狭い空間に、居心地の悪さを感じたからというよりは、入口がシェード一枚で外部と区切られているだけで、周りの客の出入りや話し声が筒抜けで、とても十分には眠ることができなかったからである。
 今回泊まった所は、小さなビルながらも、比較的きれいであり、カプセル本体のスペースも一畳以上の広さがあって十分だし、隣の物音もほとんど聞こえなかったが、やはり真夜中に帰ってきた男たちの声で目が覚めてしまった。

 これは比較にはならないのかもしれないが、二食付きで料金はカプセル・ホテルの倍近くになる、北アルプスなどの山小屋のことを思ってしまう。
 夜7時くらいまでには、皆がいっせいに寝てしまう山小屋、しかし狭い布団にマグロ状に寝かされ、運が悪いと、怪獣かけめぐるいびきの修羅場(しゅらば)にもなるが、それに比べて、自分のスペースが箱として確保されてはいても、生活時間の違う客たちが出入りする、カプセルホテル。
 そんな話も、どこかの国の知事のように、一泊16万もするようなホテルに泊まる人には、理解されないのかもしれないが。
 さらに、生来のケチな私としては、そんな高級ホテルの10分の1の料金でさえ、とても出す気はしないだろう。
 さて、話が最初からお金の話、費用のことになってしまったが、もっともそれは、いつも費用対効果のことを気にしている私ならではのことであって、とは言っても出すべき所では高価な買い物もしてはいるのだが。

 福岡からの東京までの飛行機では、幸いにも翼に近い所ながら窓側に座ることができた。
 何度も繰り返し言うことだが、晴れた日の飛行機の窓からの眺めほど、心楽しいものはない。
 もっともわざわざ窓側の席に座っているのに、シェードを下ろして寝ている人もいて、人それぞれなのだと思う。
 つまり、飛行機の運賃分だけは楽しもうと、カメラを持って窓にへばりついている、私のようにケチな根性の男と、昨日は深夜まで大切な付き合いがあり、今日はまた午後から重要な会議が組まれていて、唯一飛行機の時間だけが休息のひと時になるという人もいるように・・・二百人余りの乗客それぞれの様々な思いを乗せて、飛行機は飛んで行くのだ。

 もう何度となく見ている、いつもの光景だが、決して見あきることはない飛行機からの眺め。
 九州は国東(くにさき)半島の、放射状に別れ広がる耕作地、谷あい模様、瀬戸内海の島々、大阪、奈良、京都と三角形の枠内に収まる日本の古都の位置関係、紀伊半島を横断する中央構造線の地溝帯などがはっきりとわかり、そして”北に離れて雪白き山あり”、まだ豊かな残雪に覆われた白山が見えてくる。
 その右手には北アルプスも見えているが、大部分は雲に包まれていた。

 そして、意外に、雪が少ない南アルプスの山波が続き、やがて群山から離れてひとり高くそびえ立つ富士山の姿。
 結局は、この山さえ見えれば良いのだという思いになるほどに、際立った大きさなのだ。
 面白いのは北側の山梨側と静岡の南側とでははっきりと残雪の量が違うことだ。そして南西の山腹には雲がまとわりついている。
 三保の松原の砂嘴(さし)の姿を真下に見下ろし、駿河湾から伊豆半島を越え相模湾に出ると、太平洋に向かって進む一隻の船が見え、かなりの大型船で、その後ろには白い航跡が続いている。
 富士山はひとり高くそびえ、船は太平洋の大海原へと進んで行くのだ。(写真上)
 
 前にも何度か取り上げたことのある、あの万葉集の中の一首を思い出してしまう。

 「世の中を 何にたとへむ 朝開き 漕ぎ去(い)にし船の 跡なきごとし」

 (『万葉集』巻第三 沙弥満誓(さみまんぜい)が歌一首)

 確かに、人の世は、それぞれが自分だけの航跡を残して進む船のようなものであり、その生きていた証(あかし)などすぐに消え去ってしまうものなのだろうが、しかし、今眼下の大海原をひとり水しぶきをあげて進んでいる船こそ、その今を生きている自分の姿でもあるのだ。
 飛行機は伊豆大島を眼下に見て、東京湾に入り、背後にビル群が立ち並ぶ羽田空港に着陸した。

 モノレールで浜松町まで行き、山手線に乗り換えて上野駅で降りた。
 公園口の改札口を出ると、もう信じられないほどの人の波だった。あの公園内の大通りが隙間もなく、行きかう人で埋まっているのだ。
 その中で、立札を持った人が呼び掛けていた。
 立札には「若冲(じゃくちゅう)170分待ち」と書いてあった。
 そうなのだ、今この上野公園内の二つの美術館では、私が見たいと思っている『カラヴァッジョ展』の他に、生誕300年になるという、その江戸中期の日本画家、伊藤若冲の絵画展が開かれていて、この『若冲展』はテレビでも特別番組が何本か放送されたくらいで、一大ブームになっていて、中高生の団体から、中高年の人たちが押しかけての大盛況ぶりになっているのだ。 

 私は、目的の国立西洋美術館の方を見て、行列ができていないのを確かめて、まずその前にと、大きなイチョウの木の日陰で、みんなが同じように座っている縁石に腰を下ろして、駅構内の売店で売っていたサンドイッチを食べた。1時半だった。
 後から隣に、同年配のおじさんが腰を下ろしてきて、その手には『カラヴァッジョ展』のパンフレットが握られていた。
 声をかけて、館内の混み具合を尋ねると、それほどでもないとの返事で一安心して、その後は絵の話から続いて、日本の古文古典文学の話になり、彼も中高年の古文研究サークルに入っていて、毎週講師に来てもらっての講義を受けているとのことで、今は『吾妻鏡』の所で、鎌倉幕府の時の執権、北条泰時らが定めた”御成敗式目(ごせいばいしきもく)”成立に際しての話であり、法律を勉強してきたものとしては実に興味深く聞かせてもらったし、さらにクラッシック音楽も好きで、先日はあの女性指揮者の西本知美が指揮するチャイコフスキーの第5番を聞いてきたとも言っていた。
 年を取ってくると、こうして好きなものまでが似てくるのだろうか。
 ただ違うところは、彼は文化的芸術的催し物がいつもどこかで開かれている東京に住んでいて、私は、それらの催し物のさわりの部分だけを、テレビ新聞などで知るしかない、田舎に住んでいるということなのだが。
 
 東京で働いていた私が、東京を離れて田舎で暮らしていくことを決断した時、はっきりと自分に言い聞かせたことは、収入が格段に減って貧乏生活になることと、コンサート、美術展、封切映画などを見られなくなるということだった。
 しかし、そうして失うもの以上に、田舎には、それに見合うだけの大きな喜びがあるということ。
 大自然の息吹の中に包まれて、生きるということだけでも・・・。

 さて、その国立西洋美術館へと向かう。
 そこには、チケット売り場に並ぶでもない人たちが多くいた。前日、世界遺産に申請されたばかりだというニュースを聞いただろう人たちが集まってきていて、その美術館外観の写真を撮っていた。
 売り場の方には、少し行列ができてはいたが、すぐに中に入ることができた。
 明るい日差しの下、熱気と人々であふれていた、大通りの光景と比べて、一転して館内は、絵に当てられるライトの影になって、見学者たちの人影がゆるやかに動いていた。
 私が、最近は立ち寄ることもなかった、東京に一泊してまでも、そのホテル探しに苦労してまでも、ぜひ見たかった『カラヴァッジョ展』。

 その昔、若かった私が、それまでに通り一遍の知識しかなかった西洋絵画の世界に、大きく目を開かれるきっかけになった絵が二点ある。
 若き日のヨーロッパ4か月の旅の目的の一つは、その二つの絵を見ることにあった。
 一つはフェルメール(1632~1675)の『牛乳を注ぐ女』であり、もう一つはカラヴァッジョ(1571~1610)の『聖マタイのお召し』の絵である。
 フェルメールの方は、アムステルダムの国立美術館で、あまり他の観覧者もいなくて、多くの時間をこの絵と私だけが対峙する形で、二日にわたって十分に見ることができた。 
 しかし、カラヴァッジョの方は前にも書いたように、運悪く教会が閉まっていて、見ることができなかったのだ。
 もちろん、他の美術館でカラヴァッジョの作品の何点かを見ることができたのだが、あの劇的な光のドラマを描いた絵を見られなかったことは、ずっと長い間、私の胸に小さなつらい思い出として残っていたのだ。

 それでも、もう一度あのヨーロッパ・アルプスの山々を眺めに行くために、さらにはローマにあるあのカラヴァッジョの絵を見るために、ヨーロッパへ行こうとの決心はつかなかったのだが、昨年、何と驚くべきことに、カラヴァッジョの真筆になるという絵が発見されたとのニュースが世界をかけめぐり、さらにまた何ということか、その絵が日本で世界初公開されるというのだ。
 今までの私の思いの代わりになるべき、その絵を見ることができるようになるのだ。これだけは、是が非でも、万難を排しても見に行くほかはない。(2月8日の項参照)

 そこには、カラヴァッジョの絵だけでも11点、併せてカラヴァッジョの画風様式美に影響を受けたとされるカラヴァジェスキと呼ばれる、画家たちの絵も40点余り(その中には、あのローソクの炎の絵で有名なラ・トゥールもあり)、全く申し分のない陳列絵画の数々だった。
 カラヴァッジョ初期のころの、やや拙(つたな)さを感じる絵から、それでも十分にカラヴァッジョらしさは表れているのだが、その後の「エマオの晩餐(ばんさん)」は、もう一つ別の情景を描いたものもあるのだが、私にはこちらのほうがより静謐(せいひつ)なドラマのように見えた。 

 そして驚いたのは、あのギリシア神話に出てくる、頭髪にヘビが混じっている彼女の顔を見たものは石に変えられてしまうという、メデューサの斬首(ざんしゅ)された頭部の絵であり、画集では何度も見ていたのだが、それは、丸い形の実戦防御用の盾(たて)に実際に描かれているものであり、今で言う3D的な立体感にあふれていて、カラヴァッジョのもう一つの特徴である、恐るべき写実性の実体を今さらながらに見せつけられたような気がした。
 
 そして、この『カラヴァッジョ展』での、というより、私がわざわざ東京に立ち寄ったその目的でもあった、あの絵、「法悦(ほうえつ)のマグダラのマリア」・・・人々が取り囲む間から、その絵が見えた瞬間、私は一瞬感極まって涙ぐんでしまった。

 全く似た様な思いをしたことが、何度かある。
 若き日に見たフェルメールの絵に、あるいはこの冬に見た映画「ピロスマニ」(1月19日の項参照)に、そして初めて十勝幌尻岳(1846m)に登り、初めて日高山脈主峰群が立ち並ぶ姿を見た時などなど・・・。
 
 新約聖書に出てくるマグダラのマリアは、性的不品行の娼婦的な女であったが、キリストと出会い改悛(かいしゅん)して、キリストの教えに従うようになり、その後キリストが磔刑(たっけい)に処された後も、埋葬に至るまでを見届けて、さらに再びキリストが復活した時に、最初に対面したのも彼女だったのである。
 さらに、彼女は結婚しているともされていて、絵の中で、彼女の腹部がふくらんで描かれているのはそのためだとも言われているが。

 私は、密集の人々の中で少しづつ前に出ては、大きな体を少しかがめてはじっくりと見つめ、今度は離れて人々の頭の向こうにその絵を眺めた。
 同じことを二度繰り返し見たものの、それでも離れがたかった。
 画面の左上半分は暗く、右下半分に、光を浴びて後ろに寄りかかるマリア、ひじの下にはキリストを暗示するドクロがのぞいていて、失神する寸前のような、薄く開かれた白目ががちな彼女の目からは、一筋の涙が流れ落ちていて、その半ば開けられた唇は紫色に変色している。
 私にはこの絵が、表題にある宗教的な法悦(エクスタシー)のマグダラのマリアというよりは、むしろ、悔恨の思いに駆られながらも、満ち足りた思いで死にゆく人の姿にさえ見えたのだ。
 そこからは、悔いいる人の思いが、痛いほどに伝わってきた。それは、もちろんこの絵のマリアの姿からであり、この絵を描いたカラヴァッジョ自身の思いからであり、そして他ならぬ私自身の姿でもあったからである。(写真下、『カラヴァッジョ展』ホームページより、絵の下半分)



 それまでに、紹介されていたテレビ映像などで見ていて、全体像は分かっていたのだが、絵を前にして初めて気がついたのは、絵の斜め左上半分を区切る黒い背景の中に、よく見ると洞窟らしき影があり左上のぼーっとした明かりが、実はその下にかすかに描かれた十字架のためであったということだ。
 それは、悔恨の思いから悔い改めた者への、天上からのかすかな救いの光ではないのだろうか。

 カラヴァッジョ、若いころから天才画家の名をほしいままにして、一方では無頼(ぶらい)、悪行狼藉(あくぎょうろうぜき)の限りを尽くしてお尋ね者になり、イタリア各地を逃げ回っていて、30代半ばにしてそんな自分の現在に嫌気がさし、初めて深く後悔しては、マグダラのマリアの姿に借りて、己の今の姿を赤裸々に表現したのではないのか。
 言われているように、この絵が、ローマ法王に自分の罪の許しを願い出るために、携えていた3枚の絵の一点であったというよりは、ダヴィンチがあの「モナリザ」の絵を終生手放さなかったように、これはカラヴァッジョの”モナリザ”ではなかったのか、そしてここに描かれている若い女は、彼が昔愛して捨てた娘の姿ではないのか・・・様々に押し寄せる青春時代の思い出の中で、彼は遅すぎる懺悔(ざんげ)の思いをこめて、この絵を描きあげたのではないのかと、私は自分の中での想像をふくらませ考えてみた。

 記録の伝えるところによれば、何かの手違いによって、その3枚の絵を乗せた船に置き去りにされて、彼はその船を求めて海岸沿いに歩き続け、行き倒れになって、38歳という若さでこの世を去ったのだという。
 何という惜しみて余りある、天才画家の生涯だったことだろう。
 
 2時間半立ち続けていて、ひざを痛めている年寄りの私には、もう限界だった。
 たとえ、あの『若冲展』が空いていたとしても、さらには六本木の国立新美術館では『ルノアール展』も開かれていたのだが、もう私には、今日のカラヴァッジョだけで十分だった。

 そして再び電車に乗って、銀座に行き、街並み建物はさして変わらないのに、中国人観光客ばかりが”銀ブラ”していて、すっかり変わった感じになった銀座通りを歩いて、カメラ・サービスセンターに行き、カメラのセンサー清掃をしてもらい、そしてカプセル・ホテルにチェックインして、近くでロースカツ定食700円を食べて、再び宿に戻り、共同浴場で1日歩きまわって疲れた体の汗を流して、7時半には自分のカプセル・スペースに収まって、ようやくゆっくりと横になることができた。

 翌日、再び浜松町から、AKBグループのHKT指原莉乃のポスターに導かれて、モノレールに乗って羽田に向かい、今日も空は晴れていて、飛行機からの眺めを楽しむことができた。もっとも、東北の飯豊連峰や朝日連峰が見えた後は、ずっと雲の下になって他の山々は見えなかったのだが。
 そして、降り立った北海道の大地には、緑一面の牧草地が広がり、ビート(砂糖大根)の緑の苗が並び、ジャガイモの畝(うね)が続いていた。
 すっかり、周り一面に春が広がっていた。どこもかしこもすべて、春になっていた。
 

  

  


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