ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

静かなること山の如し

2016-05-16 21:32:50 | Weblog



 5月16日

 春というよりは、初夏の日差しが暑いほどの、九重の山に登ってきた。
 その前に山に登ったのは、いずれも、家の近くにあるいつもの小さな草山だったから、クルマで出かけて行って山に登るのは久しぶりのことになる。
 もっとも、家からクルマで1時間足らず走れば登ることのできる山は、幾つもあるのだが、年寄りになってますますぐうたらになり、動きたがらなくなってしまい、まるで”動かざること山の如し”であったこのワタクシめも、さわやかな五月晴れの朝の空を見ると、たまらずに九重の山に向かったというわけであります。

 今の季節は、木々の新緑がきれいな時期ではあるが、しばらくすると九重全山を鮮やかな赤に染める、あのミヤマキリシマの時期(5月下旬から6月中旬ころ)になるし、その前に咲くあでやかなツクシシャクナゲの花は、もう今がぎりぎりの時期だと思い、その群生で有名な黒岳に行くことも考えたが、先日じん帯を痛めてまだ十分に回復していないひざでは、とても長距離の周遊コースは無理だろうし、それならば三俣山の火口一周コースにでも行くかと思っていたのだが、途中に通る硫黄採掘のための硫黄山道路には、例の地震のために登山自粛注意報が出されていて、ネットの写真で見ると、巨大な岩があちこちで崩れ落ちていて、誰でもあの写真を見れば行く気はしなくなるだろう。

 というわけで、いつもの九重に、いつものようにすぐに取りつける牧ノ戸峠経由で登ってきたというわけなのだが、それにしても春夏秋冬、それぞれの姿で登山者を楽しませてくれて、なおかつ高山環境を持つ山容でありながらも、その登山路は誰にも登れるほどにゆるやかな道であり、最近年を取るにつれ、この九重山群は実にいい山だと思えるようになってきた。
 そして二つの故郷を持つ私には、そのもう一方の北海道には、あの大雪山系の山々があるのだが、家からその登山口に着くまでには結構な時間がかかり、さらに九重とは比べられないほどの厳しい高山環境にあるから、九重ほどに手軽に行くというわけにはいかないが、私にとってはそれぞれに欠くべからざる、かけがえのない山域なのだ。
 この二つの山に共通するのは、もちろん火山が作り上げた山域であり、その高原性のたおやかで広々とした山容にもあるが、特筆するべきは、やはりここだけというべき花にある。
 初夏の時期に、九重全山の山肌を薄赤く染め上げるあのミヤマキリシマ一大群落と、大雪山のなだらかな溶岩火砕流尾根道の左右に広がる、日本最大級のスケールのお花畑の見事さにあるだろう。
 それぞれの山域に、数十年近く、それぞれに数十回以上は登っているのだろうが、いまだにあきることがないのだ。
 
 さらに言えば、この二つの山域に加えて、その次によく登っている山々、火山系ではない褶曲(しゅうきょく)や隆起といった造山運動によってできた高峻な山々、北アルプスや南アルプスそして日高山脈という、高山帯トレッキングを楽しむにふさわしい山域があったことが、私の山人生にどれほど豊かな彩(いろど)りを添えてくれたことか。
 もちろん、その他にも屋久島や富士山、白山や飯豊山、樹氷の蔵王や八甲田、それに若き日のヨーロッパ・アルプスの山々と、それぞれ一度しか登ってはいないが、いまだに鮮やかな印象で思い返すことのできる山々があり、私は、何と幸せな山人生を送ることができたのかと、この年になってしみじみと思うのだ。

 私からこうした山々を取り除けば、もうそこには何も残らない、”私は何を残しただろう”と問いかけられるまでもなく、この世に何の痕跡(こんせき)も残さず消えていくだけの、ただの年寄りの一人でしかないのだが、ただ心の内では、”一寸の虫にも五分の魂”があるように、よく例えにあげる一匹のアリや、あるいは集団から離れて襲われる一頭のヌー必死さで、つまり一つの生き物として、生きるべく生きてきたのだから、ここまでいい人生だったのだ思うことにしているのだ。
 今さらのことだが、元AKBの高橋みなみが若い子たちを前に言う、”努力は必ず報われる”とか、「恋するフォーチュン・クッキー」の中の言葉、”あっと驚く奇跡が起きる”のを待つほどに私は若くはないし、この年になれば、何事もなるようにしかならない”人間、万事、塞翁(さいおう)が馬”だと考え、これからの残り少ない人生を、その日暮らしに、能天気ではなく脳天気なままに生きていければいいと思ってはいるのだが。
 
 というわけで、雲一つない澄みきった五月の空に誘われて、ただ脳天気なだけのじじいは、喜々として出かけて行ったのであります。
 途中の道路沿いの、ミズキの白い花の盛りに目を奪われながらも、しかし長者原からの道には、路肩崩落や亀裂による長い一方通行区間もあって、やはりというべきか地震の影響を感じながら、牧ノ戸峠の駐車場に着いたのだが。
 さすがに、この大地震後ということもあって、さらにはミヤマキリシマの花の前ということもあってか、これほどに全九州的に晴れわたっている日に、そこに停められていたクルマはわずか十台余り。
 しかし、日ごろから人の少ない時の山歩きを好む、このじじいにとって、それは願ってもないことなのだ。

 登り始めの遊歩道の両側を覆う、リョウブ、ノリウツギ、ヤマハンノキなどは新緑の葉がようやく出始めたばかりで、まだ冬枯れ色と半々といった感じだった。
 尾根道に上がった沓掛山前峰からは、阿蘇の山(1592m)が見え、中岳からの噴煙も立ち昇っているが、あの向こうがこのたびの地震で大きな被害を受けた南阿蘇村辺りになるのだ。合掌(がっしょう)。
 この一か月前の大地震で家をなくして、避難所やクルマ泊まりの人がいまだに1万何千人もいるとのことで、私が北海道の家で水に不自由し不便なトイレを嘆いているのとはわけが違うし、その不便さはもとよりのこと、まずは何よりもわが家でゆっくり眠りたいだけなのだろうが。

 二三日前、ふと見たあのロシアはチェルノブイリ原発事故のその後を写したドキュメンタリー番組の中で、滅びゆく村で一人牛を飼って生活している80歳余りの白髪のおじいさんがインタヴューを受けていて、放射能汚染がひどいこんな所にどうしてあなたは住んでいるのですかと尋ねられて、彼はあばら家のようなわが家を前に、白いひげをなでながら当然のように答えていた。
 「ここでずっと暮らしてきたし、ここから離れたくないんだ。」 
 一度目の地震があった後、年寄りが9人死んだくらいでと、ネットに投稿していた(4月18日の項参照)、おそらくは都会のビル、マンションに住むだろう彼には、この熊本大地震でさえ、同時期に起きたはるか海の向こうのエクアドルの大地震と何ら変わらない、たいしたことではないのだろう。 
 
 さて、登山路に戻ろう。
 沓掛山三角点山頂(1503m)までの途中に、やはりあった、早咲きのミヤマキリシマの株が二つ三つ。
 まだ咲き初めの、これだけの花を見ただけでも、盛りのころの山肌斜面がさわやかに染められる眺めが目に浮かんでくるようだ。(’09.6.10~17の項参照)
 そして、何よりの見ものだったのは、この沓掛山の山頂直下にある数株ほどのツクシシャクナゲである。(写真上、背景は扇ヶ鼻)
 数株ほどの群落だが、先に行って少し離れて山頂部を振り返り見ると、はっきりとピンク色に染められているのがわかるほどだ。
 この花を見ただけでも、今回の九重登山の目的は達成されたようなもので、ここまででひざの状態がひどければ戻ってもいいとさえ思っていたくらいなのだが、ほとんど痛みはなく、そして何よりこの青空だ、先に行くしかない。 

 ゆるやかに、縦走路を歩いて行くと、日当たりのよい草の少ない所には、うす紫のハルリンドウが群れになって咲いているし、小さなササの間には紅色のイワカガミの花も咲いている。
 先ほど、一人の同年配のおじさんに会っただけで、その他に人影はなく、何より人々の大声での話声が聞こえないのが良い。
 何よりも、自然界の中にいる時は、その風景の中にあるがままに、静かであるのが良い。
 あの武田信玄の”風林火山”になぞらえて、ふと口に出して言って見た。
  "静かなること山の如し、そして動かざること、年寄りの如し”。 
 ひとりで、けけけと笑う。周りに誰もいないからいいものの。それにしても、人気のないこの山上の道、空は晴れて、まったくいい気分だ。

 扇ヶ鼻分岐から、新緑の色がつき始めた星生山(1762m)を横に見て、しばらくすると行く手に三角錐の鋭鋒姿の久住山(1787m)が見えてくる。
 何度見ても、見あきることのない九重の盟主の姿だ。
 星生崎の岩塊帯を上りそして下ると、十字路に分かれる久住分かれにきで、後から来た若者と先ほどのおじさんも久住山のほうへと登って行く。
 私も最初はそのつもりだったが、思い直して誰もいない中岳のほうへ向かうことにした。
 ゆるやかに山体を回り込み、そこから御池へと登って行く。ずっと上の方に一人の登山者が見えるだけで、登り着いた御池は、まったく誰もいない静けさだった。
 これほどに人のいない、御池は実に久しぶりのことだ。コバルトブルーの水面の向こうに中岳(1791m)が半分ほど見え、左手にはこれもまた新緑の色を見せ始めたばかりの、天狗ヶ城(1780m)がそびえ立っている。(写真下)
 


 向こうからくる人に一人会っただけで、御池を半周ほど回り、小さな尾根をたどって岩塊帯の中岳頂上部へと向かうが、地震で岩崩れを起こしているような所は見当たらかった。
 登山口から、このひざを痛めていて写真撮りながらの年寄りの足で、2時間半余り、申し分のない所だ。 (コースタイムでは2時10分ほど。)
 頂上三角点から離れて一人、さらに離れた所に二人がいるだけだった。
 九重山群の中で、最も展望が優れているのは、この中岳と天狗ヶ城の二つだろう。もっともこれら中央部の主峰群を、坊ガツルの湿原帯を隔てて見ることのできる、あの大船山(1787m)の展望もまた素晴らしいのだが。

 風も余りない、快晴の中岳山頂の岩の上に腰を下ろして、その九州本土一の高さからの眺めを楽しんだ。
 西側に大きく開けた向こうには、先ほどの御池の青い湖面が見え左手に大きなクジラのごとき山体の久住山があり、湖面の右手には天狗ヶ城がそびえ、その二つの山の間遠くに離れて台形状の扇ヶ鼻(1698m)が見える。その右手遠くには、もう何年も行っていない釈迦岳などの津江の山々があり、左手さらに遠く雲仙の頂き辺りが見えている。
 大きな久住山の左手後ろには、巨大なカルデラの中にある阿蘇山の姿がよくわかるし、そして南側の目の前には、この中岳と南千里浜を隔ててゆったりと横たわる稲星山(1774m)があり、その後ろ遠くに、大きな広がりの久住高原を隔てて対峙(たいじ)するもう一つの山群、祖母山(1756m)から傾山(1602m)の山なみが連なり、さらには今度の地震で一部登山道の崩壊が心配される大崩山(おおくえやま、1643m)の高みも見えている。

 さらに、そのまま左手の東の方へと目を向けると、めったに人に会うこともない静かな山、白口岳(1720m)があり、その後ろには木々に覆われた大船山と、何といってもミヤマキリシマの最大の景観地である平治岳(1643m)が見え、その後ろ遠くには、見まがうことなき日本の名峰の一つである、顕著な双耳峰の由布岳(1583m)の姿が見えている。
 そこから左の北側には、三俣山(1745m)のふくらしまんじゅうのような山体がでんと座り、北千里浜をはさんで噴煙を上げる硫黄岳と星生山があり、西の彼方に一人離れて優雅な裾野を引く湧蓋山(わいたやま、1500m)があり、さらに星生山の手前には天狗ヶ城が続いては、ぐるりと一周の展望である。 

 早めの軽い昼食をとって、この中岳の南側斜面を降りて行く。この急な斜面も、行く前には地震の影響が気にはなっていたが、目立って大きな変化はなかった。
 南千里浜に下ると、学生らしい若者が一人、花が咲く前のミヤマキリシマの株を観察記入していた。
 こうした地道なフィールド・ワークの積み重ねの数字こそが、実際の自然保護へのどれほど大きな実証や証拠になることか。
 あの車寅次郎ではないが、「日本の学生諸君、将来は君たちにある。頑張りたまえ」と声をかけたくなるほどだ。 
 砂と礫(れき)のジグザグの斜面を登って、稲星山に着く。ここでも離れて一人がいるだけだった。
 何より、この稲星からは広大な久住高原や竹田の盆地を隔てて連なる、祖母から傾山群の姿が素晴らしい。
 そして振り返った北側には、今登ってきたばかりの中岳の横に、白口岳から大船山、平治岳、さらに遠くに由布岳と、すべてが一直線上に並んで見えている。(写真下)



 さて稲星からは、久住山との鞍部に下って、また登りなおさなければならないが、今回はその急坂の登りに弱気になって行かないことにして、何度も通ったことのある久住山と御池山の間の鞍部を抜けて、縦走路に戻る道を選んだ。しかしこれは失敗だった。
 この道は、古い地図に載っているくらいの廃道に近く、年ごとに荒れてきていて、踏み跡さえ分かりづらくなっていたのだが、もうその荒廃ぶりはひどく二度三度と行く手を間違えて方向転換をするほどで、もう完全な北海道の藪こぎの山と変わらないくらいで、背をかがめ這いつくばりハンノキなどの灌木の枝をかき分けて、ようやくのことで御池から久住山への縦走路に出て、一安心するが、これなら多少きつくとも稲星から久住への道をたどるべきだったと、後悔しきり。
 ただ、その縦走路から少し入った草原の小さな丘での、休息のひと時は、ともかく、あの緊張の中での藪こぎのわずらわしさから解き放たれての、何とも言えない気分だった。
 思い出したのは、北海道は日高山脈での沢登りからの最後の藪こぎの後の、山頂近くの稜線にたどり着いた時であり、そんなやすらぎの時に似て。

 そして、元来た縦走路をたどり、沓掛山のあのツクシシャクナゲの花を楽しみ、さらには行きよりは花が開いているのではないのかと思って、大きな岩のそばのミヤマキリシマの一株を見てみた。もちろん、そう急に花が開くわけはないのだが、背後のアセビの赤い若葉と併せて、なかなかに春を思わせるいい光景だった。(写真下)



 この日は、九州各地で25度を超える夏日になっていて、帰りの尾根道では、照りつける日差しがこたえるほどだった。
 往復6時間余りの歩行は、今の私にはちょうど良い時間だった。ともかく、ひざが痛くならなかったことが何よりで、これなら今年の遠征登山にも行けそうだと思ったが、そううまく事は運ばないもので、翌日になって痛くなってきたのだ。
 山に行く前までは、指定されたコンドロイチン剤を服用し、患部を冷やしていた効果があってか、もうほとんど痛みを感じてはいなかったのだが、山に登った次の日から、また再び前のような痛みが出てきて、踏ん張りがきかず”元の木阿弥(もとのもくあみ)” になってしまったのだ。
 ということは、軽い日帰り登山はできても、何日間もの縦走登山はもうできないということだろうか。
 せっかくの、晴れ渡った日の静かな山の登山の楽しみを満喫(まんきつ)したというのに、その代償もまた応分にかかるということなのか。
 というふうに、悪く考えても仕方がない。歩けないわけではないのだから、今後も、それなりに歩いて行ける山に行けばいいのだ。
 さあ、いつも年中、春の季節の頭の中を飛び回っている、あの蝶々を追って行けばいいのだから。

 そういえば、牧ノ戸の遊歩道を下ってくるときに、これまた久しぶりにコムラサキが飛んでいるのを見た。いつも以上に青い前羽と茶色の後羽の対比が鮮やかだった。
 これも今回の登山の、いい見ものの一つだったし、そして遠くから、何とあの夏を告げるカッコウの仲間である、ツツドリの声も聞こえていた。

 こうして、じじいにはじじいなりに、ひとりで楽しめることがいろいろとあるわけであり、その後も天気の良い日が続いて、ベランダの椅子に座って庭の新緑の葉を見ているだけでもいい気分になれるし、やはりあのチェルノブイリのおじいさんではないけれど、やはり自分の家にいるのが一番であり、あまりどこにも出かけたくはないのだが、とは言って、自分の若き日に全精力をかけて一人で建てた、あの北海道の小汚い丸太小屋も放っておくわけにもいかず、もういつもよりは一か月も遅れてはいるが、何とか近々には行かなければと思っているのだが。 

 ”まわるまわるよ時代はまわる”

 (「時代」中島みゆき作詞作曲)