ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ゆく秋を

2015-11-02 21:49:36 | Weblog



 11月2日

 極彩色の秋が、ゆこうとしている。(写真上) 
 モミジ、カエデが散り始めて、そして北海道の秋の色の掉尾(とうび)を飾る、あのカラマツ林の黄葉が始まっている。

 そこで、ささやかな思いの一句。

 「ゆく秋を 北国(きたぐに)人と 惜しみける」 

 これからの長い冬を、白い雪一色の中に閉じ込められる、北国の人たちにとって、それだからこそ、今の残り少ない秋の彩りは、何にもまして鮮やかに見えるのだろう。
 それはまた、冬の間、じっと立ちすくむだけの木々たちにとっても、今ひと時の思いに満ちた、狂おしいばかりに身を焼き尽くす、秋の色合いなのかもしれない。
 やがては南に戻っていく、渡り鳥の私の、思いを残した一句として。
 もちろんこれは、言うまでもなく、芭蕉の句からとったものであるが。

 「行く春を 近江(おうみ)の人と 惜しみける」

 この一句を思い出して、そのままの形で言い換えただけなのだが、もちろんのこと、そうして真似をしたにもかかわらず、あの芭蕉の情緒をあふれる名句の、足元にも及びつかぬものにしかならなくて・・・。
 一応説明しておけば、このあまりにも有名な句は、芭蕉が近江の国(今の滋賀県)の石山寺を訪れた際に詠んだものであり、前文の但し書きに”望湖水惜春(湖水を望みて春を惜しむ)”とあり、近江の国在住の蕉門(しょうもん)の弟子たちとともに、春霞(はるがすみ)の中の琵琶湖を眺めての、一句とされている。
 それにしても、やがて暑い夏が来る前の、うっすらと霞がかかり、うらうらと広がる海と見まごうばかりの琵琶湖の、その晩春の湖水光景を、何と見事に活写していることだろう。
 ただし、この句には有名な逸話があって、同じ蕉門(しょうもん)の弟子であった江左尚白(えさしょうはく)が向井去来(むかいきょらい)に対して、この芭蕉の句の、”行く春”を”行く歳”に、”近江”を”丹波”に置き換えてもいいのではないかと言ったのに対して、去来は、琵琶湖の春霞こそ趣のあるものであり、年の瀬の丹波では趣も感じられないとしたのだが、その解釈の仕方を、いにしえの時代から歌に詠まれてきた近江ならではのことだからと、芭蕉にほめられたというのだが。

 ただ、私は一時期、この句が持つもう一つの側面、それはもちろん芭蕉自身が意図したものではないのだろうけれども、わずかばかりの”おかしみ”を含んだ、いわゆる”川柳(せんりゅう)”的なユーモアを併せ持つ句として、解釈していたのだ。
 もちろんこれは、芭蕉の句から遠く隔たった、邪道としての理解の仕方だと断ったうえでのことなのだが。
 近江と言えば、昔から有名な近江商人が思い浮かぶが、その合理的な商売の仕方が、一方では悪く取られて、ケチな人間の代表として名指しされることもあったくらいなのだ。
 これは近江だけではなく、日本のどこでもよく使われている言葉だが、”〇〇の人が通った後には草も生えない” と、ケチな人をたとえて揶揄(やゆ)することがあるが、そのことを併せて思いつき、この句の解釈を、私なりに、勝手に思い浮かべてみたのだ。
 ”旅の途中で、風に吹かれて桜が散るのを見ていて、たまたまそばにいた同じ旅姿の近江商人が、思わず、ああもったいないとつぶやくような”、そんな春の光景を・・・。
 そこはかとない、春の終わりの情緒と、少しばかりのユーモアを込めて・・・。

 こうして芸術作品は、作者の手を離れた瞬間から、受け取り手側の読者や観客の手によって、いかようにも解釈されるようになりうるということだ。
 この芭蕉の句から始まって、考えてみたのだが、私がこれまで見知ってきた数多くの芸術作品のすべてが、古典、文学、絵画、音楽、映画などについて、結局はその時その時の、私なりの解釈によって受け止めては、勝手に理解していた気になっていたのではないのか、作者の意図とは大きくへだたったものとして・・・。

 というのも、そうした問題の一端として、最近、BS放送での映画を録画していて、気づいたことがあったからだ。
 鬼才と呼ばれたスタンリー・キューブリック(1928~1999)監督の名作『2001年宇宙の旅』(1968年)と、ニューヨーク派の才人ウッディー・アレン(1935~)監督の名作『アニー・ホール』(1977年)が放映されることになって、それらはすでにDVDとして以前に録画してはいたのだが、やはり高画質のBR(ブルーレイ)で録画しておこうとセットしていて、翌日それが何と日本語吹き替え版だと分かり、そのまますぐに消去してしまったのだ。

 この外国映画の、日本語吹き替え問題については、しばらく前に、ある映画評論家の話が新聞に載っていて、外国ではいわゆる母国語以外の外国映画の、ほとんどが吹き替えで公開されているとして、いまだに字幕が主流である日本公開の外国映画に関しては、早急に日本語吹き替えにすべきだと主張していた。 
 そんな彼らの、吹き替え派の理由が分からないわけではない。
 字幕では、映画で話しているすべてのセリフを字幕として書き込めないこと、それだから、字幕だけでは、映画が伝えていることのすべてを理解したことにはならないということ。
 さらには、諸外国のほとんどでは、吹き替えのほうが多いということも、確かだろう。

 しかし、当時の近未来の宇宙船での様子を描いた、あの『2001年宇宙の旅』で流れてくるセリフが、日本語であるという何とも場違いな違和感、さらに、『アニー・ホール』で吹き替えられた、ウッディー・アレンのまさに日本アニメ的な日本語のセリフ・・・映画を芸術作品として見ようという人たちにとって、とても耐えられるものではないだろう。(娯楽的なテレビ・ドラマ作品では、それでもいいのだろうが。)
 確かに、映画の中で話されている英語は、少しだけは理解できる私でも、幾つかの言葉がはぶかれて字幕に書かれていると分かる時もあり、しかしそうしたマイナス面があるとしても、その映画で話されている俳優たちの個性ある話しぶりが、そのままの声と言葉であるほうが、映画全体から見れば、より重要な理解の手助けになるだろう。
 つまり、影響のない一言二言が字幕ではぶかれたとしても、映画の評価に大きな影響を与えるものではないということだ。

 むしろ日本語の吹き替えで、外国の役者たちの個性ある味わいが失われることのほうが、その映画にとっては致命的な欠陥になる場合もある。
(余談だが、その昔サイレント”無声”映画の時代に、花形スターであった女優が、音も出るようになったトーキーの時代になって、彼女の悪声が表に出ることになり、たちまち人気を失ったということもあったくらいだから。) 
 さらに諸外国ではというけれども、そうした国々ではいまだに識字率が低く、読み書きが十分にできない人々もいて、そうした人々のために吹き替えられているということでもあり、外国の多くが吹き替え版だから、日本でもという理屈にはならないだろう。(日本は識字率がほぼ100パーセントの国なのだから。) 
 さらに言えば、中学高校と6年にもわたって英語の教育が行われているのに、英語が分からない話せないという人がほとんどの日本では、今ようやく、英語教育の在り方が見直されるようになっているのに、英語セリフを吹き替えた日本語版の映画では、さらに英語会話から遠ざけてしまうような、それこそ時代を逆行するものになりかねないだろう。

 私は、話せるほどではないし、ほんの幾つかの単語を知っているだけだが、ドイツ語とフランス語が少し分かるから、字幕によるドイツ映画やフランス映画を見ていて、時々その知っている言葉が出てきたり、さらには話している言葉のイントネーションを聞くだけでも、いくらかの理解の助けになっていると思うのだが、それはまた、映画だけではなく、その国のことを人々のことを知る何らかのきっかけにもなるだろうし。
 しかし、今回のテレビ放映の外国名作映画でさえ、日本語吹き替版になっているのを見て、もう時の趨勢(すうせい)は変えられないものだと思ったのだ。
 つまりは、今の人々がそう望んでいるのであれば、それでいいのだろうし、私たち年寄りが、あれこれ言うほどのことではないのかもしれない。
 ただ、もう残り少ない人生しかない私が、今になってしみじみと思うのは、いい時代に生まれて、いい時代の文化に育てられ、そうして、多くの良き思い出の引き出しを持つことができたことである。

 もし、私の敬愛するイングマール・ベルイマン(1918~2007)やエリック・ロメール(1920~2010)、フランソワ・トリュフォー(1932~1984)などの映画が、日本語吹き替え版でテレビ放送されたとしても、私はそれを、DVDなどで持っていなくて、久しぶりにあるいは初めて見るものであっても、録画しようとは思わないだろう。
 『風と共に去りぬ』(1939年)のスカーレット(ヴィヴィアン・リー)の声を、『駅馬車』(1939年)のリンゴー・キッド(ジョン・ウェイン)の声を、『カサブランカ』(1943年)のリック(ハンフリー・ボガート)の声を、『アラビアのロレンス』(1962年)のオレンス(アラビア語風呼び名、ピーター・オトゥール)の声を、日本語の吹き替えで聞きたいだろうか、また、あのフランス映画『禁じられた遊び』(1952年)の終わりで、幼いポーレットが雑踏の中で叫ぶ”ミシェール”の声がいつしかママと呼ぶ声になっていくラスト・シーン、またはイタリア映画『刑事』(1959年)のラスト・シーン、警察の車に乗せられていく恋人の後を追いかけて叫ぶアッスンタ(クラウディア・カルディナーレ)の声”ディオメデ”を、どうやって日本語の響きに吹き替えることができるというのか。

 私たちが子供のころは、クラスにお金持ちの子はほんの二三人いるくらいで、みんなだれでも貧しい家の子だった。
 やがて、誰でもが少し無理をすれば大学にまで行けるような時代になり、都会の自堕落な生活の中でも、友情とロマンスの夢を追い求めることができた。
 社会人になっても、自分に課した仕事を懸命にやり、時間を切り売りすれば、それなりに報われた時代だった。 
 いい時代に生まれて、いい時代に育てられ、いい時代だったと思いながら死んでいければ、それで十分ではないのかという気もしてくる。
 だから、今さら表舞台に出ていこうなどとは考えないし、このまま、”森の生活”を続けていければ、それで十分だと思うのだ。
 欲を出さなければ、いつも自分とともにある、小さな幸せに気づくのだから・・・。

 今日の最低気温は-2度で、曇り空のまま気温は上がらず、6度止まり。一日中ストーヴの薪を燃やしていた。

 昨日は晴れて、穏やかな一日だった。
 こうした天気の続く秋の日は、ストーヴで使う薪(まき)造りに適している。
 去年、林の中から運び出せる長さに切り分けて、1年ほど乾燥させていたカラマツやミズナラの丸太を20本ほど、電気チェーンソーを使って薪の長さに切って、傍らに積み上げていく。
 今は、ここで冬を越さないので、用意する薪は、来年の春先と秋の分だけでいいから、もう一度、2,30本の丸太を切ればいいだろう。
 冬ここにいれば、その4、5倍の量が必要となるから、今の時期は毎日薪造りの仕事になるのだが。
 ところで、この薪造りとともに、その時に出る切りクズも大切なものである。それは、自宅用バイオ・トイレに使う大切な木クズになる。肥料袋いっぱいで、半年は使える。

 この木クズでまぶしたトイレ内容物と、野菜果物の切りクズを混ぜて1年も置いておけば、立派な有機肥料になる。
 たまに家に立ち寄る街に住む友達は、それを話すと、私の家の畑でできる、イチゴや野菜などを食べようとはしないけれども。
 自分で出したものを、また自分の口に入れる。私にしかできない楽しみだ。
 そうして、ゆったりと秋の一日が過ぎていく。

 朝、空を見上げた時、すっかり色づいたカラマツ林の上に、下弦(かげん)の月が見えていた。(写真下)

  


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