ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

夕焼け空からの回想

2015-11-23 22:52:12 | Weblog



 11月23日

 ずいぶん寒くなってきた。朝の気温-7度、晴れているのに日中の気温も2度くらいまでしか上がらない。
 天気予報では、明日は一日中雪のマークがついていて、終日マイナスの真冬日になるかもしれないとのこと。
 北海道の中央部にある旭川では、昨日の積雪が21cm。
 こうして、北海道の北部から中央部にかけては、今の時期から雪が降り積もり始めるのだが、それでも例年と比べて遅いくらいで、まして、太平洋側東部の十勝地方では、まだ雪の季節にはなっていないのだが、明日の雪で景色が一変するのかもしれない。

 それでも、北海道の他の地域と比べても十勝地方の雪は少ないほうだし、一般的に言えば、冬の季節には、西高東低の冬型の気圧配置になると、西側の日高山脈と北側の大雪山などの中央高地の山々が、押し寄せる雪雲のほとんどををせき止めてくれて、雪が少なる代わりに、底冷えのする寒さになって、一方では、快晴の青空が続く天気にもなるのだが。

 まさに、私のような”お天気屋”でかつ”能天気”な人間にとっては、おあつらえ向きな季節の到来ということになるのだ。
 もっとも、一年中”脳内天気”な私にとっては、いつも頭の中を、ちょうちょうがヒラヒラと飛んでいるような状態だから、別に天気だからという問題ではないのかもしれない。

 この秋は、内地への山行計画を立てていて、もっと早くここを離れて九州に戻るつもりだったのだけれども、事情があって、しばらく滞在を伸ばすことになってしまった。
 もっとも、北海道が好きでこの地を選んで、ひとりで家を建てたくらいだから、もともと季節に関係なく、本当はずっとここにいたいのだけれども、九州の古い家も放置しておくわけにもいかず、やむを得ず行き来しているのだが。
 それも、多くの人から見れば、まるで別荘生活暮らしの贅沢三昧(ぜいたくざんまい)に見えるかもしれないけれど、二つの家併せての維持費なんて、東京で部屋を借りているほどにはかからないし、生活費はもとより都会と比べればずっと安上がりだし、私自身が、生来の倹約家で、もちろん借金は一切しないし(お金がなければ買わないだけの話で)、母親ゆずりの安いものを買うことに喜びを感じるケチな性分なうえに、こうして田舎に引っ込んでいればお金を使うこともないのだから。
 しかし、田舎だからの不便さは、うんざりするほどあるのだが、要はどちらを選ぶかで田舎に住めるかどうかということになってくるのだろう。

 都会のように数分おきに来る電車などないし、クルマがなければ、バス停まで歩いて30分近くかかり、2時間に一本のバスに乗るしかなく、それも行く先は一つだけ。
 封切り映画やコンサート、美術展、さらには様々な内外の催し物など、夢の向こうの世界でしかない。
 大きな本屋や輸入CDショップで、本やCDを選びながら買う楽しみもなく、AKB出演のテレビのいくつかは見ることもできない。
 離れた街に出かけるのは、1週間から10日に一回のまとめ買いのためで、日持ちしない食料品などは買い置きしても気になってしまう。 
 このように、すべてに及んで、今すぐ必要なものがすぐ手に入らないのが、田舎暮らしなのだ。
 しかし、その不自由さに見合うだけのもの、それ以上に心を豊かな気持ちにさせてくれるものがあるから、好きな人は不便な田舎暮らしを選ぶのだろう。
 大きな自然がそばにあること、静かなこと・・・そして、周りの人々との心穏やかなふれあいがあること。

 そうなのだけれども、さすがに年寄りの私には、つらくなってきたこともある。毎度ここにも書いていることだが、今年も井戸水が枯れて1か月もの間、水に不自由したし、外の小屋にあるトイレ(昔風な田舎の便所)に出て行くこともつらくなってきたのだ。
 だからそのこともあって、この秋の内地遠征登山計画と併せて、早くここを出て行くつもりでいたのだが、どうしてもここにいなければならない事情があって、いつも通りの冬になってしまったのだ。

 仕方がない、そうできなかったのなら、こうして北海道にいられることに感謝しようじゃないか。
 秋の終わり、カラマツの葉が、辺り一面に黄色い雪のように降りしきりって、庭にも家や小屋の屋根にも、厚く降り積もった。
 私は、屋根のカラマツの葉を、梯子(はしご)をかけて上り、長く伸ばした熊手で寄せかき集めて、払い落とした。軒下には、まるで降り積もった雪が落ちたような畝(うね)ができていた。
 林内の葉が落ちた木々の間からは、夏の間は見えなかった日高山脈の山々が、雪を頂いて連なっていた。
 林の中の道は、枯葉を踏む音がするだけで、鳥たちの気配すらなかった。

 林を抜けると、その先に収穫の終わった小豆(あずき)畑が広がっていて、そこに林の木々の影が長く伸びていた。(写真上)
 青空を区切って、向こうの林の、冬枯れの木々が並んでいた。
 やがて、もう溶けることのない、本当の冬の雪が降り積もることだろう。
 私が、冬の間もいた時には、この雪の畑地に一人だけの足跡をつけて、ずっと向こうの丘まで歩いて行ったものだった。
 
 家に戻れば、ストーヴの薪(まき)が燃えていて、冷えた体をすぐに温めてくれる。
 薪が燃えているのを見ているだけでも、ただ何も考えずにその炎が揺れ動くさまを見ているだけなのだが、見あきることはない。
 薪ストーヴの家は、私のような一人暮らしにこそふさわしいのかもしれない。
 この秋に、予定していた山には行けなかったけれども、こうして、初冬の薪ストーヴの暮らしを味わえたことで、十分に埋め合わせはついたというものだ。
 (九州の家には、ポータブルの灯油ストーヴと電気コタツしかなく、そのうえ古い家だからスキマ風が入ってきて、外が-20度にもなっても温かい北海道の丸太づくり家よりも、ずっと寒く感じるのだ。)

 ともかく、悪いことが起きても、それでもどこかに良いことの”きざはし”を見つけたいものだし、良いことがあれば、どこかに悪いことの影が潜んでいるのかもと、思っておいたほうがいいのかもしれない。

 さらに、薪のための丸太を何本か運んで、ストーヴの中に入れる長さに切り分けて、あるいは太すぎるものは薪割りをして、余分にここにいることになった分の薪作りをする。(すでに一冬分の薪はあるのだが。)
 そうして、一日が過ぎていく。

 まだ4時前なのに、日高山脈の向こうに陽が沈んでいく。
 カラマツの幹と枝を透かして、夕映えの名残が、雲が並ぶ山々の上に映える。(写真下)



 ストーヴで暖かい家の中にいて、電気もつけずに、揺り椅子に座って、その光景を眺めている。

 このカラマツの木々は、少し前までは、黄金色の黄葉に覆われていたし、夏の間は確固とした強い緑の葉色だったし、春先には、萌黄色(もえぎいろ)の新緑が陽に映えて、なんともすがすがしい色合いだった。
 こうして1年という歳月を、自らの体に刻みつけて、彼らはじっとたたずみながらも、生き続けていくのだろう。
 この自然界を作り上げた神様は、この樹々たちが、他の生き物たちのように飛んだり走ったりできない代わりに、つまり自らが根づいたところから一歩も動けずにいる代わりに、条件がそろえば何千年もの間という、生物界最大の長寿をお与えになったのだ。

 そこで思い出したのは、前にもここで引用したことのある、ルナール(1864~1910)の『博物誌』からの一編、「樹々の一家」である。

「・・・。
 彼らは一家をなして生活している。一番年長のものを真ん中に、子供たち、やっと最初の葉が生えたばかりの子供たちは、ただなんとなくあたり一面に並び、決して離れあうことなく生活している。
 彼らはゆっくりと時間をかけて死んで行く。そして死んでからも、塵(ちり)となって崩れ落ちるまでは、突っ立ったまま、皆から見張りをされている。
 ・・・。
 私は、彼らこそ自分の本当の家族でなければならぬという気がする。もう一つの家族などは、すぐ忘れてしまえるだろう。この樹木たちも、次第に私を家族として遇(ぐう)してくれるようになるだろう。その資格ができるように、私は、自分の知らなければならぬことを学んでいる━━。

 私はもう、過ぎ行く雲を眺めることを知っている。
 私はまた、ひとところにじっとしていることもできる。
 そして、黙っていることも、まずまず心得ている。」

(ルナール『博物誌』 岸田国士訳 新潮文庫)

 こうして、木立ち越しに見る夕景が、木々たちの若々しい春のたたずまいから、錦秋(きんしゅう)の秋の姿に至るまでを思い出させてくれるように、またそれは、私の人生と重なっての回想へとつながる。
 若いころは、現在から未来への思いにあふれていて、そこでは過去は、少し前の子供の頃の思い出でしかなかったのだが、年寄りになると、もう残り少ない現在を強く意識して、さらには長く蓄積された過去の思いにあふれていて、そこで未来などは、見ることのできない霧の中にしかないのだ。
 だから年寄りたちは、今を生きるためにこそ、ていねいに一つ一つの自分の良き過去の思い出を掘り返していくのだろう。

 今までに登ってきた山々の姿、オーストラリア、ヨーロッパ、北海道、文学、音楽、映画、絵画・・・何一つ、深く掘り下げ研究したわけではなく、スペシャリストにもなれなかったけれども、悪く言えば、何にでも興味本位で首を突っ込んだけの野次馬根性だけで、よく言えばその昔にはやった”百科全書派”ふうに、ただ薄っぺらな自己満足だけを味わうことはできたと思うし、それが自分の人生を肯定的に見ることのできる、唯一の点だと思う。
 つまり逆に言えば、そのことを除けば、自分の好き勝手に生きてきただけの、因果応報(いんがおうほう)の惨憺(さんたん)たる人生だったのかもしれないが。
 かと言って、年を取るにつれて、何事もあまりむつかしくは考えなくなった”脳天気”な私にとって、今は良き思い出だけをたどる、安らぎのひと時の中にいたいだけなのだ。
 そうすると、一番長く私の好きなものであり続けた、山々とともにあった日々をはじめとして、上にあげた様々な私の好きなものの思い出があふれてくる。
 よし、この自分の良き思い出の数々を、今ひとたび、この年寄りのいやらしくくどい粘着質のしつこさで、味わい尽くしてやろう。

 朽ち木に巣食い、誰のためにもならず、誰の迷惑にもならず、朽ち木を食べていくだけの、小さな一匹の虫にも、”一寸の虫にも五分の魂”があるように、それぞれの生ある時を生きているということなのだろう。

 だとすると、そんな私にとって、自分だけの今と過去を向いている私にとって、この2年ほどの間にすっかりファンになってしまった、AKBとはいったい何なのだろうか。
 若いファンたちのように、自分の未来を重ね合わせて見ているのでもなければ、まして過去に私とともにあった、女の子たちをしのぶ”よすが”となるものでもないし、とすれば、現在あるもの、つまり歌詞が心地よく頭に入り、音楽のリズムに体が反応し、歌い踊っている若い娘たちを眺めるという、視覚の満足が合わさってのことなのだろうか。
 それならば、なぜそれまでに、他のアイドルたちや美しい女優たちに強くあこがれることはなかったのだろうか。 
 
 ・・・2年半前、ミャオが死んでいる。

 ここまで、ぐだぐだと本題も定まらないまま書いてきて、この最後の疑問に行き当たり、まさに今、その答えになるかもしれないものに気づいたのだが・・・。
 ”ミャオの死”がすべての終わりであり、始まりであったのかどうかは、それが正しい答えであるかどうかは分からないが、私の頭の中で冷たく暗く凍りついていたものの一部分が、今になって氷解して流れ出していくような・・・。
 そうだったのかもしれない。人はいくつになっても誰かに想いを・・・それが初めから仮想のものであったとしても・・・。

 AKBとは、私にとっての、ミャオに代わるものかもしれない・・・。 

  総選挙1位のHKT指原莉乃(さっしー)が最近ネコを飼い始めて、その写真が指原自身の手によってネットにアップされていて、ファンの間では、マンチカンというネコの種類から、”かんたろう”と呼ばれて人気になっているのだ。
 確かにかわいい。もう一度ネコを飼いたいとさえ思ってしまう。そうしたら、私のAKB熱も収まるのだろうか。

 先日、大阪読売テレビの歌謡祭で、AKBが登場した。
 卒業を控えた高橋みなみ(たかみな)がセンターで歌う新曲「唇にBe My Baby」は、歌詞曲ともにもう一つな気がしたが、中ほどで登場した乃木坂46の「話したい誰かがいる」は、作詞作曲ともに、乃木坂らしく上品に洗練された曲調で聞かせてくれたのだが、その後に続いて登場したのは、なんと全員が着物姿のAKB48の選抜メンバーたちであり、その彼女たちが歌う「365日の紙飛行機」が素晴らしかった。
 今までにも、この曲についてはいろいろと書いてきたし、NHKの朝のドラマの『あさが来た』の主題歌として毎日聞いていたのだが、やはりAKB選抜メンバーたちが(選挙による選抜メンバーではなく、運営サイドが選んだ理にかなった選抜メンバーで)、ずらりと並んだ着物姿は、まるで成長した孫娘を見るようで、振り付け動作もいくらかは日本舞踊ふうにおしとやかな感じで、今までの時として一歩間違えばどぎつい安っぽさが見えるような衣装や振り付けからは、一転しての”大和撫子(なでしこ)”ふうで、それもこの時代劇ドラマに合わせてのことであったのだろうが、やさしく心いやされるひと時だった。
 あえて言えば、今年の紅白の”トリ”にしてもいいくらいだと思ったのだが。
 
 今までの私が見たAKBの作品の中で、あの「UZA(うざ)」のミュージック・ビデオがベストであることに変わりはないが、この歌謡祭での「365日の紙飛行機」を、対照的ではあるが、それに次ぐものとしてあげたいくらいだ。
 この時の放送はもちろん録画していて、短く編集して、今は、この乃木坂とAKBの2曲だけを毎日聞いている。
 いい曲だなあ、ミャオ・・・。
 
   


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