ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

「林と思想」

2015-06-08 21:56:36 | Weblog



 6月8日

「 そら ね ごらん
 むこうに霧にぬれている
 茸(きのこ)のかたちのちいさな林があるだろう
 あすこのとこへ
 わたしのかんがえが
 ずいぶんはやく流れて行って
 みんな
 溶け込んでいるのだよ
    ここいらはふきの花でいっぱいだ 」 

 (宮澤賢治 『グランド電柱』より「林と思想」、 現代日本文学大系27 『高村光太郎 宮澤賢治集』 筑摩書房) 

 北海道に戻ってきてもう3週間余りにもなるが、雨が降ったのは、わずか二三度だけで、それもほとんどは夜中に降っていて。
 つまり、毎日、青空の広がる日々が続いているということだ。
 そして、25度の夏日になったのもまだ二度くらいしかなく、この数日は最高気温20度以下で、最低気温は5度以下になる日もあって、遅霜の警報が出されることもあるくらいだ。
 だから、水無月(みなづき)の6月の今は、初夏というよりは、五月(さつき)晴れの続くさわやかな晩春の季節だと言ったほうがいいのかもしれない。

 今では、庭のシバザクラはさすがにその花の盛りを終え、見上げる紫色のライラックの花や小さな白いミズキの花、さらには私の背丈ほどまでも大きくなってしまった、一際鮮やかなオレンジとクリーム・イエローのレンゲツツジの花も、今や散り時を迎えている。
 それでも、生垣(いけがき)風に並べたハマナスのとげとげの木には、毎日数輪の赤い花が咲いて私の目を楽しませてくれるし、辺りのあちこちには、雑草並みに増えてしまったフランスギク(通称マーガレット)が、つぼみをふくらませて伸びてきている。

 それらの草木に囲まれて、私はほとんど毎日外に出て、庭仕事や畑仕事に精を出した。
 いつ果てるともわからない、シバザクラの中の雑草抜きは別にしても、芝生の補植に草取り、刈りこみ、さらには道の両側の草刈りも始めて、もう二三日でどうやら最初の繁忙期(はんぼうき)は終わりそうだ。
 数日前までは、外に出るのがためらわれるほどにうるさく、耳を聾(ろう)するばかりに鳴いていたエゾハルゼミの大集団も、さすがに数が少なくなってきて、今ではようやく許容できる音量で、普通に聞こえる林の蝉(せみ)の声になってきた。
 朝夕に、辺りに涼やかに響き渡るように鳴いていたキビタキの声ももう聞こえないし、代わっていかにも藪の中の鳥らしいセンダイムシクイの声が聞こえている。
 その他にも、相変わらず、カッコウは場所を変えて鳴いているし、高い木の上ではカラスに警戒するチョウゲンボウの声も聞こえている。

 一仕事の後、休憩を兼ねて林の中に入って行く。
 日の当たる所とは、気温が数度余りも低くて、風でも吹いていれば、汗ばんだ体では震え上がるほどだ。
 あのウバユリの大きな葉が、見る間にさらに大きくなって、群れをなして辺りを占拠している。
 そろそろ、この林の中の小道の手入れをしなければいけない。しかし、道の上に散らばっている小枝類を片付け、刈り払いをしていくにあたっては、いささか注意深くやる必要があるし、意外に時間もかかる。
 この道は、面積で言えば100m四方ほどの小さな自宅林内にある、ただ私が歩き回るだけの散策路であり、その下草のササを刈り払っていくだけのことなのだが、ただそこには毎年新たにササ以外の様々な植物たちも芽を出しているのだ。

 つまり、この小さな林は、私が長年にわたって、ストーヴで燃やす薪(まき)を作るために、カラマツを間伐(かんばつ)して来たので、今ではその間に光も差し込んできて、それまでに自然に生えていた様々な落葉広葉樹もそれなりに生い茂ってきていて、同じように毎年、道の部分のササ刈りをしてきたために、その部分にあらたに、様々な山の植物たちもまた自然に生えてきたのだ。
 オオバナノエンレイソウ、ツマトリソウ、ベニバナイチヤクソウ、(白い)イチヤクソウ、スズラン、クゲヌマラン、ウバユリなどが主なものであり、その中でも特に、もともと少しはあったベニバナイチヤクソウは、その地下茎を伸ばしていつの間にか、道を占領するほどに増えてしまったのだ。(写真上)

 「朝顔に 釣瓶(つるべ)取られて もらい水」
 
 という加賀千代女(かがのちよじょ)の有名な俳句があり、それは説明するまでもないことだが、今のように蛇口をひねれば水が出る水道などがなかった昔の時代には、それぞれの家ごとに井戸があり、あるいは町中などでは何軒かで共同利用する井戸があって、滑車に取りつけた釣瓶(つるべ)で井戸水を汲んでいたのだが、その釣瓶に朝顔のツルが伸びて巻きついてしまい、あのさえざえと美しい朝顔の花がやがて咲くだろうと思うと、むやみにその朝顔のツルを切り取って、水汲みするわけにもいかず、隣の家にもらい水に行っているという、日本人の細やかな心遣いを見事に活写(かっしゃ)したかのような一句である。

 つまり、今ではこの林の中のベニバナイチヤクソウが、道を埋め尽くすまでになってしまったために、その中に踏み込むわけにもいかず、今はそのそばのヤブの中をよけて通っているのだが、問題は新たにそれをよけてのう回路を作れば、ひと時はそれでいいだろうが、やがてこのベニバナイチヤクソウが侵入してくるだろうし、まさにどうすべきか”思案投げ首”といったところなのだ。

 ところで地元の人たちは、このベニバナイチヤクソウを”赤スズラン”と呼んで、ちょうど同じ時期に咲くスズランの花と合わせて、紅白スズランとして花瓶に入れているのだと知って、私も同じようにして部屋に置いている。
 スズランに関しては、家のそばにある植林地に群生して咲いていて、今の時期には、辺りはあの甘くかぐわしい香りでいっぱいになるほどだが、植えてあるトドマツの木が年ごとに大きくなっていて、やがては日も当たらぬようになって消えてしまうのだろうが、私にはどうしてやることもできない・・・。(’14.6.9の項参照)

 前々回には、内地では北アルプス南アルプス白山などで見られる、あの高山植物のクロユリが、ここにも咲いていると書いたばかりだが、このベニバナイチヤクソウも、内地の山では高山植物の一つとして見られている。
 こうして他にもさまざまにある、内地の高山植生によく似た、北海道の高緯度植生環境が、私は好きなのだ。

 さらに、林内を歩いて行くと、この時期には、明るい緑の葉にすがすがしいばかりの可憐な花をつけたクゲヌマランが、あちこちに咲いているのを見ることができる。
 実はこれも、最初はほんの幾つか咲いているだけだったのだが、道の刈り払いをする時に注意して、一緒に切ってしまわないようにしていたので、今では道のそばに何株も見られるようになってきたのだ。
 本当は日差しがあまり当たらない所で咲いている姿の方が、楚々(そそ)とした深窓(しんそう)の美女の面影があっていいのだが、この時はちょうど日が差し込んでいて、これもまた見方によれば、はれてスポットライトを浴びた美人姉妹の姿のようで、なかなかに見ばえがする。


 
 こうしてあまり人にも会わずに田舎に住んでいると、想像力だけはふくらんでいくものだ。
 昔、タモリさん(NHKの『ブラタモリ』をつい見てしまう)がよく言っていた、あの”妄想族(もうそうぞく)”に、私もなっているのだろうか。
 
 ところで、その私の妄想がさらにかき立てられる、あのAKBの総選挙が今年もまたこの二日前に行われたのだ。
 実は、もう二三日前から、今か今かと待ち遠しい気分になっていた。
 自分ではCDも買わずに(中古CDを108円で買ったことはあるが)、つまり今回も投票に参加したわけでもなく、ましては現地の福岡ドームに足を運ぶほどに熱を入れているわけでもないのだが、AKBファンになって2年になる私にとっては、ようやく多くのAKBグループ・メンバーの娘たちの顔と名前を憶えられるようになって、それだけに、この毎年の人気投票イベントは、最近の最大の関心ごとになっていたのだ。
 それは、このブログでの去年の総選挙についての私の書き込み(’14.6.9の項参照)を見ても、さらに一段と熱が高まったのが分かるほどなのだ。
 そして、AKBグループのメンバーたちへの、情報や書き込みをする幾つかのネット・サイトをのぞいてみると、熱心なファン(いわゆる彼らが言う”おたく”の略である”オタ”)たちの、盛り上がりぶりが面白く、私の好奇心もさらに増すことになったのだ。

 今まで、AKBでの総選挙が始まって以来、当時の二人のエースだった前田敦子(あっちゃん)と大島優子(ゆうこ)が交代でそれぞれ2回ずつ、センターである1位に選ばれていて、その次の年の第5回目は、スキャンダルで福岡のHKTに左遷された指原梨乃(さっしー)が、劇的な番狂わせで1位になり(私がテレビで見るようになったのはこの時からだが)、去年は正統派アイドルの渡辺麻友(まゆゆ)が初めての女王に選ばれ、さて今年は誰がトップになるのか。
 去年”まゆゆ””さっしー”に続いて3位になった柏木由紀(ゆきりん)との三つどもえになるのか、それとも長年AKBグループを率いてきて、今年いっぱいでの卒業を発表した総監督の高橋みなみ(たかみな)が最後の花道を飾るのか、そしてアメリカ映画サイトによる”世界で最も美しい顔100人”で50位に選ばれて、さらにこの総選挙前の歌『僕たちは戦わない』で、運営側から推されてセンターをつとめた島崎遙香(ぱるる)が次世代を代表しての女王の座につくのか、さらには名古屋のSKEを率いる松井珠理奈(じゅりな)や大阪のNMBを率いる山本彩(さやねえ)が大逆転するのか。
 続いてのトップ7である”神7(かみセブン)”に入るのは誰か、そしてテレビ出演などの16人の選抜メンバーはどうなるのか、さらに17位から最後のランク付けである80位までに、立候補した280名近い少女たちの中から誰が名前を呼ばれていくのか。
 
 ただ私としては、こんなに数多くいるAKBグループの娘たちの中の、誰か一人だけのファンというわけでもなく、名前を知っている子も知らない子も含めての、年に一度の一大イベントとして見ては楽しんでいるだけなのだ・・・私の孫娘くらいの年ごろの子たちが、それぞれのプライドと意地を賭けひたむきな夢を託して手を合わせる姿に、その結果の中に見えてくる悲喜こもごものドラマに、まさに臨場感あふれる同時進行のドキュメンタリーを見ている思いがするのだ。
 もっとも、彼女たちからすれば、学級内だけの成績発表ならばともかく、テレビで全国中継されている中で、自分の順位が上がればそれだけ、ドーム会場のみんなの歓声とともに、喜びも倍加するのだろうが、順位を大きく下げたり、もしくは80位のランクの中で名前を呼ばれなかったりした場合は、それでも衆人環視のその場から逃げ出すわけにはいかないし、ただひとりさらしものになるという非情さがあることも覚悟しなければならないのだ。

 しかし今回のテレビ放送は、そんなAKBファンたちの思いを十分に満足させるような構成にはなっていなかった。
 まず去年の4時間半という放送時間に比べて、3時間半という時間枠の中では、すべての進行が慌ただしかった。
 放送局サイドとすれば、何とか日ごろからAKBになじみのない一般視聴者にも見てもらおうと、ファンにはわかりきったことを繰り返し説明していたこと。
 ”万人向けのものは、決して誰のためのものでもない”という真理を理解しているのだろうか。私の友達の一人は、”AKBが出ていたらチャンネルを変える”というぐらいだから、最初から興味のない人は見ようともしないだろう。

 さらにあえて言わせてもらえれば、変革による失敗を恐れて、旧態然たる番組構成を変えずに、日々変わりゆくAKBの姿に対応できなかったということ・・・放送局側の無能さぶりを見せつけることにもなったのだ。
 ミスを繰り返す大御所アナウンサーに、この1ヵ月AKBについて勉強したと自慢する関西の人気司会者、AKBなどに大した興味もないのに東京のスタジオに呼ばれて、ヘラヘラ笑いでちゃちゃを入れていたコメンテイターにタレントたち、(今回立候補せずにゲストとして来ていた”こじはる”小嶋陽菜と、いつもHKTと一緒の番組に出ていて真剣に中継画面を見ていた一人を除いて)・・・おそらくこのテレビを見ていた多くのAKBファンたちは、同じように思ったことだろう。
 野球の解説と同じで、野球をよく分かっていない”にわか野球ファン”に、口から出まかせの解説してもらっても、見ている方からすればどこが面白いだろうか。
 AKBの運営サイドと、テレビ局側は本気で取り組んでいるのかとさえ思いたくなるような、大きな不満の残る番組構成だった。
 
 できることなら来年からは、AKBのことをよくわかっている若手アナウンサーに司会をさせて、去年の放送の最後に出演していたAKBファンの若手評論家たちにスタジオで解説してもらい、さらにはこれが一番大切なことだが、なるべく多くの子たちの壇上でのスピーチを取り上げてもらいたい・・・当の本人たちの言葉こそが、彼女たちの今に賭けるドラマなのだから。
 たとえば去年、3期生という古参メンバーでありながら、初めて71位にランクインして、自らも驚き感涙にむせびながら座り込んで、ファンのみんなに向かって頭を下げた田名部生来(たなべみく)の姿が忘れられない。

 実はこの民放での総選挙中継の後に、NHKでのいつもの『AKB48SHOW』 が生放送されたのだが、30分の短い時間の中で、何人ものメンバーたちの喜びのコメントを簡略ながらも見せてくれたし、それをたった一人で1位の指原梨乃が説明し解説したのだ。
 民放などより、NHKの方が、よほどAKBのことを分かっていると言わざるを得ない。それはつまり、指原のトーク力も十分に知っていて、彼女一人の話に任せたNHKプロデューサーの英断の見事さでもあったのだ。
 民放での3時間半にも及ぶ、中身のない解説司会よりも、わずか30分だけだったが、この番組の内容ある充実感はどうだろう・・・。
 AKBグループを愛するメンバーの一人であるがゆえの、指原による見事な無駄のない心のこもった解説だった。
 今AKBグループ内で、これほどのことをできるのは、他にはあの総監督の高橋みなみがいるだけなのだ。この二人が卒業したら、これからの総選挙の解説は、下手な司会者やタレントを使うよりは、この二人だけに任せれば十分であり、それよりも生放送でない録画でもいいから、後日深夜帯でもいいからNHKの手になるAKB総選挙を放送してほしいとさえ思ったのだ。

 というわけで、今年の結果は、総得票数が桁外れに伸びて(何か不可解な点も残るが)、あのHKTの指原梨乃が20万近い票数で断トツ1位だったというのは、今年春の明治座公演やテレビ番組などの活躍を見ればうなづけることだし、柏木由紀と渡辺麻友の2位3位という順位も誰もが納得できることだし、今年もまだ去年からの三強の時代が続いているということだろう。
 ただし、今年何よりも印象的だったのは、あの”ぱるる”島崎遙香が、一部で予想されたトップどころか、まさかの”神7”からの第9位へのランクダウンだ。
 感情をあまり表に出さず、自分の思うがままを貫いてきた”ぱるる”がうつむいて黙って涙を流し、はじめてファンに向かって、力を貸してくださいと呼びかけたのだ。
 誰にも媚(こ)びずに我が道を行く、ある意味世間知らずでわがままでもあった”ぱるる”が、ファンの前ではじめて見せた挫折・・・彼女はやっと自分の周りを見るべく目を見開いたのだ。21歳の彼女に、まだAKBでの時間は十分にある。

 私は今までの総選挙で、CD一枚につき一票というお金がものを言うセールス主体の方法にも、その投票システムから運営に関してもあまりにも不透明な部分が多く、運営側の関与を疑ってはいたのだが、今回の総投票数の爆上げふうな増加に不可解さは残るものの、順位の発表には、おおむね納得できるところが多かった。 (そのようにファンの目を意識して、票数を調節したのかどうかは分からないが。)

 そして今回も、喜びと感激の涙に浸った娘たちと、大きな衝撃に打ちのめされて失望の涙にくれた娘たちがいたのだろうが、なあに自分の人生など、そんな勝負一回で片が付くわけではないし、これからもまだまだこれ以上の決断をして結果を受け止めなければならない時が来るはずだし、良くも悪くも、これはこの時だけの、学びの時、修練の場だったのだ。
 
 いつも書いていることだが、あのベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『1900年』からの引用、流用の言葉でしかないのだけれども・・・。

 ”年寄りの私には、今ゆったりとした心穏やか時間だけがたっぷりとある。
 しかしそれは、近づいている終わりに限られての時間でしかない。
 ところが、君たちは今、激情あふれる喜びの中にいる子がいるかと思うと、一方では悲嘆のどん底の悲しみの中にもいる子もいるのだろうが、それは今の時間だけでのことでしかなく、未来に向かっての目の前には、まだまだこれから何度でも勝負の時があり、そこで失敗してもまだ出直すことのできる、ゆったりと続く時間の大海が広がっているのだ。
 この、みんなくそ可愛い日本の若い娘たちよ! 君たちに、未来はたっぷりとあるのだよ。”
  


  

  


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