ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

抜きつ抜かれつ

2015-06-22 21:51:59 | Weblog



 6月22日

 もう長い間、同じような天気が続いている。
 朝のうちは霧模様の曇り空だが、しばらくすると青空が見えてきて、すぐに快晴に近い晴れた空になる。
 しかし山側には、雲が張り付いたままで、ほとんど取れることはない。

 気温は、朝の10度くらいから日中には20度を超えるくらいまで上がり、日差しはさすがに暑いが、日陰に入ればひんやりと涼しく、梅雨のさ中にある内地と比べれば、何とありがたいことだろう。(今日は久しぶりに、25度を超える夏日になったが。)
 私が北海道を、特にこの十勝地方を好きなのは、今の時期だけではなく、あの厳しい冬の寒さの中でもそうなのだが、こうした居心地のよい、晴れた天気のが多いことにある。
 まさに、お天気屋の私には、もってこいの土地だということになる。

 もっとも物事は、それで自分の思うがままに、すべてうまくいくというわけではない。
 暑い日差しが照りつける中での仕事は、すぐに汗だくになってしまう。それなのに水不足などの諸事情から、家ではたまにしか風呂に入れずに、ベタついた体のまま寝るしかないというのは、風呂好きの私にはつらいことだ。

 とはいえ、ようやく昨日までに、林内の枝切り片づけと、道の草刈りなどを終えたが、特にその中では、前にも書いたことのある外来種の雑草、オオアワダチソウやセイタカアワダチソウの駆除に一番手間がかかった。
 この二つの外来アワダチソウは、秋には、在来種のアワダチソウと同じように、穂状に連なる小さな黄色い花を咲かせて、青空の下に群生する姿は悪くないのだが、その繁殖力たるやすさまじいもので、年ごとにあたりの草原を自分たちだけで埋め尽くしてしまうほどなのだ。
 もっとも同じ外来種とはいえ、フランスギク(俗称マーガレット)やコウリンタンポポ、そして秋にかけてのオオハンゴンソウやアラゲハンゴンソウなどは、観賞用として、庭の片隅に、それぞれ刈り残してはいるのだが。(写真上は、フランスギクとルピナス)

 こうした駆除されるべき外来種の雑草(他にもセイヨウタンポポなど)が日本に入ってくる前は、草原と言えば、地名として残るほどに、芦(あし)原、萱(かや)原、笹(ささ)原あるは蓬(よもぎ)原などが多かったのだろうが、特に北海道では、酪農畜産の牧場が多く、輸入牧草が入ってくることもあって、外来種の雑草がまたたく間に増えたような気がする。
 
 ともかくこのオオハンゴンソウは、他の草がいっぱいに茂っていて日陰になっていても、そこで芽を出し成長していけるほどに、繁殖力が強く、それまでは、長鎌(かま)で刈り払いしていたのだが、一向に減る気配がなく、それで地下茎でつながり根を張っていることに気づいて、今では見つけ次第に引き抜くようにしてはいるのだが、見逃して油断しているとそこからまた増えてきてしまうのだ。
 ただ、このオオハンゴンソウの類の唯一の弱点は、根周りが弱いことであり、上の方をつまんで引き抜けば、短い根ごとに簡単に引き抜くことができるのだ。
 ただし、背の高いものは見つけやすいけれども、まだ低く小さいものは、草むらに潜り込んで探すしかないから、それだけに手間がかかるのだ。
 この一週間ほどで、気がついた所だけでも、二三百本は抜き取っただろうが、まだまだ見逃しているところもあるだろうし、林のふちの一角ではとても手が付けられないほどに広く群生していて、そこから綿毛の種が飛ばされて、またどこかで根付き増えていくのだろうが、どうすることもできない。
 ただ”抜きつ抜かれつ”を繰り返すしかないのが、現状なのだ。
  
 こうして、今のわが家の庭や草地は、私がいなくなれば、誰も手入れする人がいなくなり、たちまちのうちに荒れ果てて、草木の繁るにまかせただけの土地になってしまうことだろう。
 ただし、植物たちにとっては、今までの理不尽(りふじん)な外の力で強制的に刈り取られ抑え込まれていたのに、ようやく思うがままに成長繁茂できるようになって、本来の自分に備わった力を十分に発揮できるようになるのだろうが、もちろんそれからはまた、それぞれの植物たちによる、果てしなき闘いが始まるわけでもあるのだ。

 動植物から細菌類に至るまでの、この世に生を受けたすべての生き物たちの、その根本にある本能は成長し生き延びることであり、それは、ただ己の利益保身のためだけに、全精力を傾けて周りと闘うことでもあるのだ。
 それが正しい生き物としての生き方であり、自分の死さえも、種族のためではなく、あくまでも個々としての利になるべく考えられた死に方になるのだろう。(『利己としての死』日高敏孝著 弘文堂)
 もちろん、そうしたほかの生き物たちとは違い、感情に基づく判断力と複雑な思考回路を持った人間たちではあるが、自然界の中で見れば、それぞれに一匹の弱い動物でしかないから、孤立した個としては生きていけなくて、集団として生きていくために、様々な社会の掟を自らの頭に記憶させては、それを代々、世の中の理(ことわり)として理解し受け継いできたのだろうが。 

  しかし、時にはそこから逸脱し、それ相応の報いを受けながらも、あるいは運良く免れて、なおかつ多くの人に迷惑をかけながらも、そうした理への思いやりもなく、ただ自分勝手に生きては死んでいった人たちも多くいたに違いない。
 ことの良し悪しはともかく、そう考えてくると、私たちは、社会、人々というかかわりの中で生きているけれども、あくまでも基本は、ひとりの生き物として、幸も不幸もすべてが自分に返ってくる、自分だけの生き方しかできないということでもある。

 自分の周りに起きるすべての出来事は、そこで自分がそうしていたからであり、運命的な偶然さえも、その時たまたまそこにいたからだと結論づけることもできるだろう。
 その結果は受け入れるしかないし、それを、自分への報いである不幸として、あるいは自分に責任のない偶然の不幸でさえも、そのまま認めたうえでの、次なる新たな人生へのステップを踏み出すことが必要になるのだろう。
 くよくよ考え、いつまでも後悔したところで、昔のことを、あの時のことをやり直しができるわけでもなく、それだからこそ、自分の目の前の不都合な真実からも目をそらさずに認めて、一刻も早く新たに他に向かう道を見つけるべきなのに・・・と、特にこれからの人生の時間がたっぷりと残された、若い人たちに対しては、特にそう思うのだ。

 私たち年寄りは、そうした若い人たちにありがちな、不安や悲しみを、他人事のようにではなく、昔あった自分の人生のエピソードの一つとして、多分に余裕をもって、あるいは高踏派(こうとうは)的な高みから見下ろす気分で、えらそうに教訓を垂れるのだ。もうこの先、自分には起きそうにもないことだから・・・。
 この、皮肉屋で頑固でぐうたらなジジイは、そうした人の世の、幸不幸の出来事を横目で眺めつつ、一方では、ただ単純に生きるか死ぬかだけの、自然の世界を、植物たちや昆虫や鳥や動物たちの生き方を見ては、いつも感心しているのではありますが・・・。

 たとえば、金曜日の夜遅くのNHKの『ドキュメント72時間』(録画して見ているのだが)、それは、ある場所に72時間にわたりカメラを置いて、そこに集まる人々の姿やインタヴューだけで構成している番組であり、おそらくは放送時間に倍する時間をかけて、撮影インタヴューをして編集しまとめたものなのだろうが、そこに映し出される人々の、今ここに来ている様々な理由と、それぞれに背負ってきた様々な人生の、ほんのわずかな一断面が、まさにドラマ風にではなくごく自然に語られ、切り取られ撮影されていて、見た後にはいつも思うのだが、この世には絵にかいたような幸せや、またあまりにも悲惨な不幸というのではなく、それぞれが生きていく社会の人間関係の中で、自分に似合っただけの、そこそこの小さな幸せの時を過ごすために生きているのだと・・・。
 
 さらに昨日のいつものNHKの『ダーウィンが来た』~美しき国蝶オオムラサキ~、もまた生き物たちの新たな一面を知って、興味深い一編だった。
 狙われやすい幼虫時代に、敵と闘うその雄々しい姿。それはまたあのきれいな紫の羽を持つ成蝶(オス)になってからも、強い羽ばたきだけの力で(確かに他のチョウと比べて筋肉のついた胴体体上部が大きいのだが)、あのスズメバチを払い落とすだけではなく、カブトムシ相手にさえ闘い、さらには、二匹で鳥さえも!追いかけている姿は(10日もかけたという撮影)、もうただただ驚くばかりだった。
 それは繁殖期間の短い、オオムラサキのオスが必死になって、飛び回るものはすべてメスだと思って追いかけているのだとの説明だったが、それだけだとは思えない・・・。

 もう一つ、これはたまたま数日前に見た、TBS系列の『生き物にサンキュー』というネコがテーマの2時間番組だったのだが、その中で”逆立ちして歩くネコ” というのがあって、それはよくYouTubeなどに投稿されているような、飼い主が芸として仕込んだネコなのだろうと思って見ていたのだが、何と生まれつき後ろ足が動かない障害を持っていたネコが、誰から教えられることもなく、逆立ち状態になって動かない後ろ足を縮めたまま上げて、歩いている姿だった。
 そのネコの飼い主は、アルバイト店で働く青年とその母親だった。
 その彼がある日の夜、雨の降る駐車場のそばを通っていた時に、クルマの陰で泣いている子ネコを見つけて、抱き上げたけれども、後ろ足が動かない捨てネコだったのだ。
 それを承知で、彼はこの子ネコを家で育てようと思い、抱きかかえて家に帰ったのだ。

 私は、涙がこみあげてきた・・・。
 さらに映像は続き、今では大きくなったそのネコは、彼が夜遅く仕事から帰ってくるのを待っていて、居間にいた所から逆立ちで歩いて彼のベッドのそばに行き、座って待っているのだ。
 私は、もう涙を止めることができなかった。
 ああ、ミャオ。

 生き物はすべて、あの『利己としての死』に書かれているように、自分の遺伝子を残すためだけに、あくまでも利己のためになるものとして行動し生きているのだろうか・・・。
 こうした生き物の種族を越えた、情感の通い合う姿は何と理解すればいいのだろうか。
 今までにも、いろいろな動物番組で、幾つもの動物たちの行動を見てきたのだが、たとえば自分の子供ではないのに、群れの子供として乳をあげたり世話をしたりする動物たちがいるということ・・・。
 それは確かに、『利己としての死』以前の、ローレンツによる名著『ソロモンの指輪』にあるように、自分の種族のために、種の保存の本能のためにと考え説明されるのだろうが、しかし、あまりにも人間と密接な関係にあり、ペットとして位置づけられてきために野性味に乏しいといわれるイヌやネコたちと、人間とのこうした情感はどう考えればいいのだろう。

 昔の映画『野生のエルザ』 (1966年、原題”Born Free"主題歌が大ヒット)にあるように、子供のころから人間とともに暮らしていれば、猛獣といえども人間と心が通い合うようになるというのは、昔からよく知られていることなのだが。
   つまり人間の感情が分かるペットとしてのイヌやネコ、さらに少しは人間の思いが分かる馬や牛やヤギなどの家畜たち、そして、人間を他の動物たちと同じような敵だとしか思わない、野生の動物たち・・・その差は、お互いに触れ合う時間、理解するための長い時間が必要だということなのだろうか・・・不信から信頼への、そのための時間。

 さて、私が今回書こうとしていたのは、前回に続いて、あのAKBの”スキャンダル”についてだったのだが、途中から生き物たちの生き方の話になって、グダグダと続けてしまい、まあそれも年寄りのもの忘れしやすく混乱しがちな頭ゆえのことと、お許しをいただいて。
 その”ゆきりん事件”だが、その後も何の進展もないままに、事件に関わるすべてのサイドから何のコメントもないままに、さらに1週間が過ぎてしまい、ネットの書き込みから見る限り、大多数のファンたちからは、いまだに批判の声と投げやりな声が聞かれるほどなのだ。

 しかし、二人の関係する運営・プロダクション・サイドの、”なかったことにしてスルーする”という、徹底した情報抑え込みは、ある意味で見事なまでであり、他の週刊誌などはもとより、テレビの芸能ニュースでさえ一言も触れられないありさまで、”アイドルにスキャンダルはない”という、彼らの強い意向が感じ取れる。
 それほどまでに大事なことなら、なおさらのこと全否定するにしても、ファンたちに対する一応の説明会見があってもよさそうなものだが、つまりは会見を開くこと自体が、もうその時点で週刊誌報道があったことを認めたことになり、一般ニュース化されたことになるからできないのだろうが。
  これ以上、何とも言えないが、ただ皆が被害者になっただけの、哀れな出来事だったのだ。

 ところで先日、世界に冠たるトヨタ自動車の、アメリカ人女性重役の麻薬逮捕事件が報じられて、翌日にはすぐ、豊田社長自らが出席して記者会見を開き、事態を説明して、捜査には全面的に協力すると述べたうえで、逮捕された彼女のことを”大切な仲間であり、信じている”と繰り返し話していた。
 単なるタレントの週刊誌スクープ記事と、大企業重役の逮捕とでは、事の重大さも違うし、スキャンダル三面記事と刑事事件という違いもあって、大した比較にはならないのかもしれないけれども、そこには事件が起きた時の、責任ある企業としての対応の差を見た思いがした。
 本来、若い男と若い女が愛し合う姿なんて、すべてが美しく、祝福されるべきものなのに、その背中に描かれた”アイドル”という文字は、かくも厳しいものなのだろうか。 

 1週間ほど前、庭の花の終わったシバザクラの上に、小さなチョウが二匹、交尾しながらじっととまっていた。(写真下)
 詳しくは分からなかったが、シジミチョウ位の大きさで、紋様からすればジャノメチョウの仲間だろうと思い、写真を撮った後で、図鑑で調べてみると、やはりというべきか今までにも見たことのある、それほど珍しくもない(といって北海道だけの固有種だが)、シロオビヒメヒカゲだった。

  さらに後日、モニター画面で大きく引き伸ばしてみたところ、何とその羽には鱗粉(りんぷん)ではない毛がびっしりとついていた。
 おそらくは、越冬するチョウであるために、寒さから身を守るように毛が生えているのだろうが、それならば同じように越冬する(多くは越冬できずに死んでしまうが)、クロヒカゲやヤマキマダラヒカゲなどは鱗粉がついただけの普通の羽なのに、と不思議に思えてしまうのだ。
 もっとも、高山植物たちでも、その花や葉が毛に覆われたものと、そうでないものがあるように、彼らだけが自然に適応するために作ってきた何らかの仕組みがあるのだろうが。
 それにしても、このシロオビヒメヒカゲの二匹の姿は、きれいだった・・・。