6月30日
一週間ほど前までは、朝夕が霧模様でも、日中は青空が広がり、良い天気の日が続いていたのだが、先週になって、一日の天気模様は一変して、すっかり霧や曇り空だけの肌寒い日になり、それがずっと続いている。
三日前には、とうとう最高気温が10度以下になり、ついにストーヴに火を入れてしまった。さらに今日も、朝9度で日中13度位と、またストーヴの薪(まき)に火をつけた。
寒くなってストーヴに薪を入れて燃やすのは、大体室内の温度が15度以下に下がった時を目安にしているのだが、今年は6月初めにストーヴを使わなくなってから、これで秋までは御用済みだと思っていたのに、何と7月を前にまた火をつけることになるとは。
そんなふうに、天候不順の肌寒い日が続いているのだが、その前の晴れた日が続いていた時にも、大雪山のライヴカメラで見る映像は、ガスに包まれていることが多かった。
今週の天気予報でも、さらに一週間曇りや雨のマークが続いていて、晴れるのは昨日の月曜日の一日だけという有様だった。
これでは、もうそのたった一日の日に山に行くしかない。
前回の楽古岳(6月1日の項参照)から、もう1カ月もの間が空いていることだし、本来ならば、せめて一月に二回の山行は欠かしたくないところなのだが、それというのも、山に行く間が空きすぎると、山登り自体がつらくなるし、翌日のお定まりの筋肉痛にも悩まされることになるからだ。
昨日は、全道的に晴れ後曇りの予報だったが、ともかく午前中だけでも晴れ間が広がるのなら、それで十分だと思っていた。
登るべき山は、このヨレヨレの年寄りをもやさしく迎えてくれる、今夏の花が咲き始めたばかりの大雪の山々。それもロープウエイを使って高いところにまで上がれる、あの旭岳方面か層雲峡黒岳方面のどちらかなのだが。
若いころには、ロープウエイ代やリフト代をケチっていて、この二つの登山口から登ることは少なかったのだが、今では私の大雪山登山のメインルートになっているのだ。
春の残雪のころから、初冬の雪山の時期まで、この大雪山にはもう数十回は登っているのだろうが、いつまで繰り返しても飽きることはない。
すっかり年寄りになった私にでも、手軽に登れる山であり、いまだに北海道と九州の二つの地を行き来している私には、この北海道の大雪山と、そして山群としての規模は半分くらいになってしまうが、あの九州の九重山は、なくてはならぬ山域である。
いずれも火山噴火によってできた、溶岩台地上の上に、トロイデ(鐘状火山)状の幾つもの山頂部を連ねた形でまとまっていて、台地上の稜線に上がれば、高山環境と同じような展望が広がり、さらに大雪山の高山植物群落が作る広大なお花畑と、九重山の初夏を彩(いろど)るミヤマキリシマの一大群落は、またそれぞれの秋の紅葉と雪山景観とともに、筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい見事さである。
この二つの山群と、さらには、南北や中央の日本アルプスと八ヶ岳などの、中部山岳の山々にも繰り返し登ることができたことは、もうそれだけでも、日本に生まれた私の山登り人生が、つくづく幸せなものだったと思えるのだ。
年寄りはこうして、自分の人生を振り返るのだ。今まで、無慈悲に強欲のままに貯めてきた自分のお金を取り出しては、満足げに数え直している、あのスクルージじいさん(ディケンズ『クリスマス・キャロル』)のように、今までの思い出を引き出しなつかしんでは、ひとりニヒニヒと不気味な笑みを浮かべているのだ。・・・いやな年寄りになったものだ。
さて、今の時期は夜の明けるのが早いから、若いころには夜明け前の3時には起きて、暗い道を走って朝早い時間には登山口に着き、すぐに登り始めたものだが、もちろん今はそんな元気もないし、それならば前日のうちに登山口近くに行って、そこで民宿などに泊まって、朝一で出発するという手もあるのだが、それも面倒だからと、いつもの毎日のように夜明け過ぎに起きて、それから出かけることになるから、着くのは遅くなるし、そのために山に長くはいられないし、またそんな長時間を歩く元気もないのだ。
ということで、登山口から1時間余りで頂上に立つことのできる黒岳に登ることにした。
朝のうち十勝平野は雲に覆われていたが、天気予報で晴れマークが出ていても、今の時期はオホーツク海高気圧の影響で、朝のうちはこうした霧模様の低い雲に覆われることが多く、気にはしていなかったが、やはり山間部に入って行く糠平(ぬかびら)温泉あたりから、豁然(かつぜん)と空が晴れてきて、一面の青空が広がっていた。
ウペペサンケ山(1848m)にニペソツ山(2013m)、いずれも谷筋に残雪が残るだけなのだが、例年に比べてやや少ないようにも見える。
道の両側には、先日にも家の庭の花の所で書いた、あの外来種の白いフランスギクの花がいっぱいに並んで咲いていて、その先には、ルピナスの花がまたずっと続いていた。
地形図で見ても分かるとおりに、まさに山に囲まれた盆地地形の典型とでもいうべき所、その森林平原のただ中にある十勝三股は、山好きな人にとっては、春夏秋冬を問わずに山々の一大景観を楽しめる場所であり、周りの山々に登る大切な起点となる所でもあるのだ。
それは、先にあげたウペペサンケ、ニペソツは言うに及ばず、世に知られていない活火山でもある丸山(1692m)を含め、西には石狩岳(1967m)から音更山(1932m)に連なる山脈があり、さらに北を区切って十勝と上川を分ける山波となって、ユニ石狩岳(1756m)から三国山(1541m)へと続き、西側には、四つのトロイデ状の頂を盛り上げて並んでいるクマネシリ火山群(西クマネシリ岳、1635m)がある。
この山域への登山者は、それほど多くはないが、秘境性と高山性を兼ね備えた魅力的な山々ばかりであり、大雪や日高ほどではないにしても、私も今までにたびたび足を踏み入れてきたのだが、最近では寄る年波に勝てずというべきか、すっかり足が遠のいてしまってはいるのだが。
さてその十勝三股から、大雪国道は高度を上げて続いていき、三国峠のトンネルを抜けると、青空の下に、残雪豊かな大雪山の山々が連なっているのが見える。何回となく同じ光景を見ていても、やはり心躍る一瞬だ。
その雄大な山岳ロードを、今度は下っていき、長いトンネルを抜けると、やっとのことで層雲峡温泉街に着く。
クルマを停めて、すぐにロープウエイに乗り込む。まだ夏の初めということもあってか、登山客と観光客が半分ずつくらいで、座席に座っている人の他は、立っている人が何人かいるだけの余裕ある車内だった。
さらにリフトに乗り換えて、上がっていくが、そのリフト下には、チングルマやミヤマキンポウゲ、チシマノキンバイソウなどのお花畑が整備されていて、両側のダケカンバやトドマツの林からは、ルリビタキの声が聞こえてきて、まさに初夏の山の感じにあふれていた。
申し分のない青空が広がっていて、正面に黒岳の緑の急斜面から頂にかけての山容が近づいてくる。
リフトを降りて、登山口のノートに記入して歩き始めたのは、日も高くなった8時に近かった。
ジグザグにつけられた岩の多い登山道を登って行き、木々の間から見える層雲峡の谷あいには、上川方面からの雲が雲海となって流れ込んできていた。
もちろんそれらの雲は、すぐに上がってきて山々を隠してしまうようなものではなかったし、むしろ雲海として静かにたゆとい流れていて、景観として眺めるには、むしろ都合よくさえ思われた。(写真上)
ともかく久しぶりの登山だからと、無理しないようにゆっくりと登って行った。
すぐの所で、中高年夫婦を抜いた後は、先にも後にも人影は見えず、ただ上から下りてくる人に、一人二人と出会うぐらいだった。
シーズンの時には、上り下りの人で、何度も立ち止り道を空けなければならないほどなのに、そんな雑踏の人々の声も聞こえず、なんともありがたい静かな山道だった。
道には所々に、大きな雪だまりが残っていたが、いつもほどの長い雪面にはなっていなかった。
あのマネキ岩が近づいてくると、両側には、咲き始めた黄色のミヤマキンポウゲにチシマノキンバイソウ、白いエゾノハクサンイチゲに紫のハクサンチドリなどの花々が彩(いろど)りを添えていた。
一度短い休みを取り、写真を撮りつつではあったが、やはり久しぶりの山登りに疲れてしまい、頂上に着いたのはコースタイムの1時間10分よりも15分余りも遅くなっていた。昔は、50分を切るくらいで登っていたというのに、これが年かと言う以前に、日ごろの不摂生(ふせっせい)の反省をすべきなのだろう。
ただ、目の前には、いつもどおりに青空の下に、残雪の大雪山の山々が広がっていた。
私が最初に登った北海道の山であり、この景観を見たことで、北海道に移り住もうとまでも思った眺めであり、何度見ても飽きることはない。
頂上には、他に一人さらにもう一人がいるだけで、物音ひとつ聞こえなかった。
私はひとり、黒岳山頂から反対側の西の方へ、黒岳石室(いしむろ)へと降りて行った。
できることなら、御鉢(おはち)展望台の先の、北鎮岳(ほくちんだけ、2244m)まで行くつもりではあったが、それぞれの山の頂き辺りには、今や小さな雲がまとわりつき始めていた。
もう何度もたどったコースだし、辺りがガスに包まれるほどになったら、いつでも引き返す気でいた。ここまでの眺めだけでも、十分に今日来たかいがあったのだから。
礫地(れきち)の道のそばに見られる、イワウメやミネズオウ、そしてメアカンキンバイなどの花はまだ咲き始めたばかりだったが、下の方の斜面ではあのキバナシャクナゲの花が群落を作って咲いていた。
そして、このキバナシャクナゲはこれから先もずっと続いていて、まさに今回の山登りは、この花の盛りを見るために来たようなものだった。
石室小屋前の十字路をそのまままっすぐに、なだらかな高原台地が続く雲ノ平に向かって歩いて行く。この時に反対側から来た大きなザックの男の人に会ったきりで、そのまま戻ってくるまで誰にも会わなかった。
この時期の大雪山で、誰にも会わない静かな山歩きのひと時を味わえるなんて、私の久しぶりの登山を察知していて、まるで神様が差配(さはい)していてくれたように思えるほどだった。
そして幸いにも、雲はあまり大きく広がることなく、天気が崩れる気配もなかった。
そして、盛りのキバナシャクナゲを前景に、右手には残雪模様の北鎮岳(2244m、下の写真上)と凌雲岳(りょううんだけ、2125m)、左手には北海岳(2149m、下の写真下)と見えているが、このおなじみの構図は、また秋の紅葉時にも、色彩を変えてどうしても写真に収めたくなるポイントなのだ。(’14.9.16の項参照)
周りで、鳥たちのさえずる声が聞こえる、海岸の草原などでも聞くことのできる初夏の鳥、ノゴマの声だ。
かなり離れていて、長尺の望遠レンズではなかったが、とりあえずシャッターを押して、家に戻ってモニターで拡大して見ると、”日の丸”という愛称でも知られる、ノゴマの赤い喉元(のどもと)がはっきりと写っていた。(写真下)
このノゴマという鳥は、私が初めてプロミナー(テレスコープ、望遠鏡)で見せてもらった鳥であり、そのことで後に私が”日本野鳥の会”に入会するきっかけにもなったのだ。
それはちょうど会社を辞めたころ、そこから先に一歩を踏み出せずにいた私だが、それまで会社の休みの時に何度か訪れていたことのある北海道をじっくり見てみようと、意を決して、1カ月もの長期バイク・ツーリングの旅に出かけた時のことだった。
その旅の中で出会った人々、様々な境遇にいてもそれぞれに今の自分をしっかりと生きている人々・・・それが、今まで自分の周りの仕事関係だけの、小さな世界しか知らなかった私には、新鮮に映ったのだ。様々な別の世界が、それぞれに確かな形であるのだということ。
その時に、北のはずれにある民宿で出会った若者2人も、そうであった。
互いに住む所も違い、学生や会社員という立場も違いながら、それぞれに一人で夏の北海道にやって来ていたのだ。道北の湖沼群や草原に、渡り鳥としてきているだろう鳥たちを見るためだけに。
三脚に据え付けたプロミナーの他にも、首に双眼鏡をさげ野鳥図鑑を片手にして、真剣な顔でのぞき込む二人、目を輝かせながら、鳥たちについて話し合う姿に、私は、それが何かも十分に分からないまま、引き込まれていったのだ。
そこには、私の知らない世界があり、ひたむきに物事にかかわり合う人々がいること・・・それは彼ら二人だけではなかった。
青森の山の中で、古い湯治場(とうじば)を守る老夫婦と小さな屋台でイカ焼きを売っていたいた若い姉妹・・・話し込むうちに気楽な旅人と見られたのか、いずれからも婿(むこ)養子になってくれないかとさえ言われたのだが。
他にも、ゆでたてのエビを袋いっぱいくれた小さな神社のおかみさん、さびれた漁村の道のそばで小さな娘の手を引いて楽しそうに歌いながら歩いていた若いお母さん、”これ食え”と私のバイクのカバンに何本ものトウモロコシを入れてくれた農家のおとうさん、何キロもの道をトラックで先導しながら案内してくれたねじり鉢巻きのおやじさん・・・ひたむきに生きている人たちだからこそ、自分の今も他人の今もしっかりと思うことのできる人々たち・・・あのノゴマの鮮烈な赤色の印象は、その時の私の北海道旅行の思い出でもあったのだ・・・。
私は、その時に決心したのだ。自分が思う、信じるものがあれば、どこでも生きていけるのだと。
私は、その後東京を離れて、北海道の田舎に小さな山林を買い、自分ひとりで家を建て、今こうして住んでいるのだ。
そうして生きてきて、今、年寄りになりつつあるのも、それも当然の時の流れであり・・・ただ余りにも多くのことがあって、それらはすべて、良しにつけ悪しきにつけ、今ここにいる私のために、在(あ)ったということなのだ・・・。
この山歩きの時に口をついて出たのは、前にも何度も書いたことのある乃木坂46の「君の名は希望」(今年の2月9日の項参照)であり、その中最後の方の一節から。
「・・・その微笑みを僕は忘れない。
どんな時も君がいることを
信じてまっすぐ歩いて行こう。」
(秋元康作詞 杉山勝彦作曲)
私にかかわってきてくれた多くの人々を思う、そして最後に母とミャオのことを思う・・・私は、今を生きているのだと思う。
ステップの刻まれた雪の斜面を上がり、御鉢(おはち)展望台に着いた。
ぐるりと取り囲む、巨大な噴火口跡の斜面が、残雪紋様に彩(いろど)られていた。
まだまだ雲は出ていたものの、大きく広がることはなく、私はそのまま、両側にキバナシャクナゲが縁(ふち)どる道をゆるやかに登って行った。
左手の砂礫地斜面には、所々に色鮮やかな黄色のミヤマキンバイが咲いていた。背景には間宮岳(2185m)から北海岳(2149m)に続く残雪紋様の御鉢噴火口が見えていた。(写真下)
やがて、前方に、まるで巨大な雪壁のような北鎮岳の雪渓が立ちはだかっていた。
一応アイゼンは持ってきていたが、雪面にはちゃんとステップが刻まれていたし、雪もむしろ適度にゆるんでちょうど良い歩きやすさだった。
雪の斜面を、こうして一歩一歩と登って行くのは楽しいものだ。
この春は、前回の楽古岳の登山ではほとんど残雪の道がなかっただけに、それが不満でもあったのだが、今回こうして残雪歩きをすることができたし、今度は戻る時の、この雪渓の滑り降りの”尻セード”ができるかと思うと、もうそれだけでうれしくなってきた。
誰もいない中岳分岐の三叉路に着き、今度は右手の砂礫地斜面を北鎮岳へと登って行く。
すると今までの暑い日差しに代わって、涼しい風が吹くつけてきて、間もなく辺り一面が白いガスに閉ざされてしまった。
頂上まで、もうすぐの所だった。
次回に続く。