6月1日
数日前に、山に登ってきた。
朝いつものように、4時の日の出のころには起きて外を見たのだが、何とそこには、ずらりと残雪の日高山脈が立ち並んでいた。
まだ戻ってきて、二週間余りしかたっていないけれども、これほどまでに空気の澄み渡った、見通しの効く天気の日は初めてだった。
これは、何としても山に行かなければならない。
もっとも前日の天気予報を見て、こうした天気になるだろうことは幾らかは予想していて、山に行く準備も整えてはいたのだが。
つまり、前回にも天気のことで書いていたように、晴れた日が続いているのに、翌日の予報で気温が下がり、なおかつ晴れマークが変わらずについているということは、天気が続く時によくあるように気温も次第に上がって、それによって空気も温められて水分を多く含み、視界も悪くなるというパターンではなく、冷たい空気が入ってきて、それまでの濁った空気と入れ替わり、見通しもきいてくるという好ましい状態になることが多いのだ。
もっともそれでも、気になる点もある。つまり冷たい空気が入ってくると、暖かい空気と触れ合って雲が湧き山にかかるということもあるからだ。
しかし、今はそんな心配をしている時ではない。目の前に見せつけられた、おいしそうなごちそうを前に走り出さない馬はいないはずだ。
私は、クルマに乗って家を出た。
途中から見える、なじみある日高山脈の山々をそれぞれにちらりちらりと目をやりながら、南へと向かった。
日高山脈最南端の名山、楽古岳(らっこだけ、1472m)が行く手に見えていた。
この山は今までに、4回登っている。
そのうちの2回は、今はもう札楽古(さつらっこ)林道の荒廃から廃道同然になりつつある広尾側から登ったものであり、一つは、春先の残雪期に、隣の十勝岳とのテント泊縦走での起点としてたどった道であり、さらに残りの2回は、今では唯一の登山道のあるコースとしての、浦河町上杵臼(かみきねうす)の楽古岳林道からのルートであり、さらにそのうちの一つは、メナシュンベツ川を遡行(そこう)しての沢登りで登ったものである。
もちろんすべて単独行だったし、これほどの有名な山にもかかわらず、いつも平日を選んでの登山だったから、他の登山者に会うのもまれだった。
そして、今回楽古岳に登ろうと思ったのは、前回の登山から何ともう10年余りもたっていて、”冥途の土産(めいどのみやげ)”にもう一度は登っておきたいと思ったからでもある。
ところで、こうして日高山系の山に登る時に、まず第一に気になるのは、この奥深い山々に多く生息する、体長2m体重300㎏にもなるヒグマとの遭遇(そうぐう)である。
今にして思えば、北海道の山に登り始めたころは、特に日高の山に登る時には、一般登山道も少なく、原始的秘境性が残されているがゆえにヒグマも多く、そのまさかの場合に備えて、登山装備はどうしても物々しいものになっていたのだ。
もし、ヒグマに至近距離で出遭(あ)って、逃げれば相手は追う習性があるからできないし、もし相手が立ち去らなければ、結局最後にはその巨大な相手に向かって闘うしかないからと、登山ナイフと鉈(なた)を腰に下げ、爆竹も用意して、鈴も2種類、一つにはザックに一つにはストックにといういでたちで、そうまでしてでも日高の山々にひとりで登っていたのだ。
しかしその後、何冊ものヒグマに関する本を読んでは、その生態行動などを知り、爆竹はかえってヒグマを興奮させるだけで危険だとか、早朝夕方霧模様の時などには特に注意することなどと、多くのことを教わり、さらには実際自分も、離れた距離ではあるが何度かヒグマに出遭ったことがあり(’08.11.14の項参照)、それらの経験から、ヒグマはむやみに人を襲うわけではないということが分かって、今では、ただ山登りの要所要所で鈴を鳴らすだけという、いたって普通の登山スタイルになってきたのだ・・・もっとも、相変わらずの単独行での不安は続くが。
さて、大樹(たいき)の街を過ぎて、国道236号のいわゆる”天馬街道(てんまかいどう)”へと向かう短絡路の途中からは、残雪の楽古岳の颯爽(さっそう)とした姿を見ることができる。(写真上)
南日高の山に登るために、もう何度、この道を通ったことだろう。
それまでの襟裳(えりも)岬周りの、たびたび交通止めになることのあったいわゆる”黄金道路”を通って、十勝から日高側へと回っていたのに比べて、この日高山脈を貫く野塚トンネル経由の”天馬街道”ができて以来、南日高の山々に登るのが、どれほど楽になったことか。(自然破壊のトンネルだとの声もあったのだが。)
その野塚トンネル出入口を起点に、北に向かえば、トヨニ岳(1529m)からピリカヌプリ(1631m)、ソエマツ岳(1618m)へ、南に向かえば、野塚岳(1353m)からオムシャヌプリ(1379m)、そして十勝岳(1457m)からこの楽古岳へと、それまでの半日分のアプローチが省略されて、日帰りもしくはテント泊縦走の山旅ができるようになったのだ。
(さらに付け加えれば、高度はぐんと低くなるが楽古岳以南にも、ピロロ岳(1269m)、広尾岳(1231m)そして最南端の豊似岳(とよにだけ、1105m)と続いていて、いずれも積雪期に登ったのだが、それぞれに素晴らしい眺めを持った登りごたえのある山々だった。)
もっともそれらの山には、積雪期に雪を利用して支尾根にとりついてからの稜線歩きか、あるいは夏から秋に沢登りで稜線まで詰めて登るといった、とても初心者にはそう簡単に登れる山々ではないのだが、そんな中で唯一、登山道がつけられているのがこの楽古岳なのである。
逆に言えば、この日高山脈は、いわゆる夏道の登山道がつけられた山が少ないから、夏の沢登りか、あるいは積雪期の尾根伝いとグレードが上がり、それだけに人が入り込むのも少なく、あの知床の山々以上に、いまだに秘境性を保った山域であり続けられるのだろう。
私が日高山脈を好きになり、その山麓平野に住みつくほどまでにのめり込んだのは、百数十キロにも及ぶ、あの北アルプス、南アルプスに匹敵するほどの大山脈でありながら、高度は1000m余りも低いけれども、同じように氷河に削られたカール地形もあって、十分な高山の雰囲気を備えているにもかかわらず、いまだに登山者の少ない、原始的な匂いを残した山域であったからでもある。
さて、ついつい好きな山の話になると止まらなくなるのだが、この辺りにして、先を急ごう。
クルマは山間部に入り、新緑の山ひだを眺めながら、野塚トンネルに入り、日高側の浦河(うらかわ)方面に抜けて下りて行くと、途中から左に曲がる道に入り、砂利道になる。行く手の牧場の牧草地の彼方に一際高く、楽古岳の見事な円錐形のピークが見えてくる。
どこから見てもそのツンととがったその形は、まだ登ってはいないけれども、テレビや写真でたびたび見ているあの東北の名山、朝日連峰の主峰、大朝日岳(1871m)に似ているといつも思うのだが。
その先から楽古岳林道になるのだが、長い間土砂崩れで通行止めになっていたほどで、あちこちに補修土止め工事が施されていた。
ほどなく、終点の楽古岳山荘小屋の前に着く。平日だから他に誰もいない。そこにクルマを停めて、歩き出したのはもう7時に近かった。
すぐにメナシュンベツ川の流れを渡るのだが、昔は水量が多いと靴を脱いで渡るしかなかったが、今では円柱のコンクリート・ブロックが流れの中に飛び石のように並べられていて、”因幡(いなば)の白ウサギ”ならずとも、楽に対岸に渡ることができる。
後は、林道跡の道から、川の両岸に広がる河畔林(かはんりん)の中をたどる踏み跡道になる。川の流れ音の中で、鈴を鳴らして歩いて行く。
明るい林で、下草にシダ類のオニゼンマイなどが群生していて、あの南アルプスは仙塩尾根(通称バカ尾根)の樹林帯の道に似ているが、何よりもうれしいのは、今の時期に日高の山々の山麓、渓流沿いなどによく見られる、赤いオオサクラソウが点々と咲いていることである。
5回ほど石伝いに川の流れを横断するが、まだ雪どけ水の多い時期で、水面下の苔で滑りやすい石の上に靴を置くしかない所もあって、気をつかう。
1時間ほどで、上二股の尾根取り付き点に着く。そのそばにあった苔むした古い倒木の上には、十数株のオオサクラソウが根付いて咲いていた。(写真下)
生きることとは、こうしたことなのだよと、教えてくれているように。
どこで生まれようが、いつの時代に生まれようが、命あるものとして生まれたからには、ただそこで生きていくだけのこと・・・。
さて、一休みした後、目の前の急斜面のにつけられたジグザグの道をたどって行く。
そして、私は、今か今かと待ち構えていた。
十数年前、同じ時期にこの道をたどったことがあって、その時に、道のそばに延々と続くオオサクラソウの一大群落に出会い、思わず声を上げたほどだったからである。
しかし、あのひと時は幻だったのか。今はただ、道の両側から生い茂るササの陰に、いくつかの花が見えるだけだった。
ササに負けてしまったのだ。
思うに、あのころはまだ登山道の手入れが定期的にされていて、道の両側のササ刈りも行われていて、明るい感じの山道だったのだが、今では、ササ刈りもされずに、道も所々小さく崩れたりしているほどで、積雪期にはとても道だとは分からないだろうとさえ思われる。
内地の場合は、北や南アルプスなどは、営業山小屋が幾つもあって、彼らが定期的に手入れしているから、歩きやすい登山道が保たれていて(特に思い出すのは、今は亡き、あの北アルプス餓鬼岳(がきだけ、2647m)小屋のオヤジさんで、その登山道にかける執念には頭の下がる思いがしたものだ)、ところが北海道には管理人スタッフが何人もいるような営業小屋など一軒もないし、それどころか九州と四国を合わせてもまだ広い面積の中に、人口は一県あたりほどしかなく、国立公園管理センターなどがある大雪山など以外の山では、登山道の手入れは、とても善意の地元山岳会などだけの手におえるわけもなく、こうして手入れがされないままになっているからなのだろう。
さらに前にも書いたことがあるが、ササの侵入繁茂による高山植物帯の減少は、あの大雪山は五色が原の南側においても顕著に見られるが、20年ほど前までは、赤いエゾコザクラや彼方にまで続く黄色のチシマノキンバイソウの群落があったというのに。
それも今となっては仕方あるまい、植物たちはまた人間たちが手を加え新たに作り出した環境の中で、それでもそれぞれに生きていくほかはないのだから。文句一つも言わずに。
急斜面のジグザグ道が終わると、ようやくなだらかになった尾根に出た。
ここからしばらくは、緩急繰り返しの新緑の明るい尾根道が続いている。
新緑のカエデ、ナナカマド、ミズナラそしてダケカンバが立ち並んでいて、所々にオオカメノキの白い花が咲いていて、ムラサキヤシオの赤いツツジの花が目に鮮やかだった。(写真下中央)
さらに一休みして、いよいよこれからは、ダケカンバ帯の急な登り道がえんえんと続く。
尾根の下の方では、まっすぐに上に伸びていたダケカンバの枝が、雪の重さで幼樹のころに根元から曲がり、そのまま成長して横に伸び、さらに先の方で上に伸びているのだ。
自然の力に従いながらも、できるだけの自分の力でと抗(あらが)いながら、生き続けていこうとする力。
バテバテになって、ようやくハイマツに囲まれて展望が開けた1130m点に着いたが、まだ目の前には雄大な斜面を見せて、肩から続く頂上稜線が見えている。
振り返ると、登ってきたこの尾根と下の谷の向こうに、アポイ岳(810m)とピンネシリ(958m)の山塊が見え、しかしその向こうには海岸線からの雲が押し寄せてきていた。
重い腰を上げて、さらに肩に続く急斜面を登って行く。何度目かのジグザグを繰り返した後、ようやくダケカンバが小さくなり、低いミヤマハンノキの灌木帯の向こうに、待望の日高山脈の眺めが、縦位置の山の並びになって続いていた。
手前に大きく十勝岳、さらにオムシャヌプリ、野塚岳、トヨニ岳、ピリカヌプリ、左に神威(かむい)岳と続き、さらに遠く、カムイエクウチカウシ山から右に張り出して、エサオマントッタベツ岳、札内岳、十勝幌尻岳などを見ることができる。
ただし気になるのは、今や稜線部分が隠れてしまったアポイ岳方面だけではなく、目の前の十勝岳の上にも、まだ小さいけれども雲が流れてきていたことだ。(写真下)
この稜線から道はゆるやかに頂上へとたどるのだけれども、雲がかる前には何とか頂上にと気は焦っても、もう足はバテバテでなかなか前に進まない。
ただ、細い道の所々に咲いているキバナシャクナゲに、小さなキクザキイチゲ、ケエゾキスミレの花に慰められて、ダラダラと登り続けて、ようやく目の前に、ミヤマキンバイの小さなお花畑が広がり、もう登るべき所はなかった。
標高差1100mほどを、コースタイムの3時間50分よりは、30分余りも余計にかかってしまったけれども、ようやく5度目の楽古岳の頂上にたどり着いたのだ。
やはり、十勝岳の頂上付近にはもう雲がまとわりついていたし、南側の中楽古からピロロ岳、広尾岳、そして襟裳岬方面もすっかり雲に包まれていた。
その中でも、西北の十勝平野方面は相変わらずの青空が広がっていたし、なによりもうれしかったのは、いつも今の時期に見ることのできる、頂上を黄色く覆うミヤマキンバイの群落だった。(写真下、背景は雲がかかり始めた中楽古からピロロ岳方面)
いつもの誰もいない頂上で、もっとゆっくり展望を楽しみたかったのに、この雲行きではもう晴れることはないだろうからと、わずか30分足らず居ただけで、頂上を後にすることにした。
振り返ると、ミヤマキンバイの黄色い頂上が次第に見えなくなっていた。
”Adieu l'ami (アデュー・ラミ)”、(1968年フランス映画『さらば友よ』の原題)、もう二度と来ることができないかもしれない頂きに向かって、感謝をこめて別れの言葉をつぶやいた。
さすがに、登るよりは楽だけれども、下りは下りで踏ん張る力が必要だから、ただでさえ疲れた脚にはこたえる。
行きに休んだところで、同じように束の間腰を下ろすが、やはり脚がつってきた。
長居は脚によくないとすぐに立ち上がる。むしろゆっくりでも歩き続けていた方がいいのだ。
ようやく尾根から、あの沢へと下りるジグザグのササの斜面にまで降りてきたが、足がなかなか上がらないと思った瞬間、木の根につまずいて、もんどり打って倒れてしまった。ササが茂っているので転がり落ちることはなかったが、やはり年寄りの体力の上に疲れが重なってと、自戒することしきりで、それからは、さらにゆっくりと足元に注意して降りて行った。
沢の流れの音が近づき、ようやく取り付き点に戻ってきた。ここからは、沢沿いの平坦な河畔林歩きだけだと思うと、元気が出てきて、あとは五か所の渡渉(としょう)点を慎重に渡り、途中のオオサクラソウの写真を撮ったりして、いつものAKBの歌でも口ずさみながら、歩いて行った。
最後のコンクリート・ブロックの渡渉点を渡り、振り返ると、そのメナシュンベツ川の両岸に茂る新緑の林が光を浴びてきれいだった。
下りは、疲れてもいたし写真を撮ったりしていたためか、これもコースタイムよりは30分余りも余計にかかって、3時間も、つまり、今回は休みも含めて8時間もの山行ということになるが、今の私には限度いっぱいの、しかし久しぶりのいい山歩きだった。
さらに書き加えれば、心配したヒグマの足跡やフンも見ることはなかったが、あちこちにエゾシカの足跡がついていて、尾根道の下草がササとくれば、これはもう当然のことだが、マダニがつき放題で、時々ズボンについたやつをつぶしたり払いのけたりだけでも10匹ほどになり、もちろん家に帰る前に途中の温泉に入り、衣類も着かえたのだが、おそらくは頭についたものが、ずっと動き回っていたのだろう、昨日の夜になって脇が気になって見てみると黒い点が・・・やはり食いつかれていたのだ。
しかし、まだ血豆のようになるまで血を吸って膨らんではいなかったので、小さなキャップに酢を入れて、その部分にしばらくあてがった後、そのダニをはがし取ったのだが、まだ今もその部分が赤くはれ上がっている。
今まで毎年、繰り返し同じようにダニに食いつかれていて、こんな年寄りの古くなった血を吸ったところでとも思うが、ダニにとっても、できることなら若いネエちゃんたちの新鮮な血を吸って、その若々しい血を栄養にして、たくさんの卵を産みたいのだろうけれども、こんな山奥に、そんなきゃぴきゃぴのAKBみたいなネエちゃんが来るわけでもなく(彼女たちも総選挙で大変な時期なのだ)、仕方なく、もう枯れたヨレヨレじいさんの血を吸うしかないのだ。
まあ、生きていくとはそういうことなのだろう。まずは目の前に、食べるものがあることだけでも、十分だと思えばいいのだから。
ダニの教え、オオサクラソウの教え、ダケカンバの教え・・・。