ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

消えゆくヒオウギアヤメとアブドゥーラ

2014-06-16 22:05:46 | Weblog

 

 6月16日

  8日間、晴れて暑い日が続いた後、次の8日間は、全く日の射さない肌寒い雨の日が続いた。
   北海道には梅雨がないといわれているが、それは7月の”エゾ梅雨”とも違う、内地の梅雨そのままの空模様だった。
  そして一昨日、待望の青空が広がってきて、その中に、久しぶりに雲があるのを見たような思いがした。
   そうなのだ。雲は、雨の日や曇り空では、周りがすべて雲に埋めつくされているから、雲の形がわからない。
   私たちは、青空になって初めて、空に浮かんでいる雲ののどやかな光景に気がつくのだろう。

  そうした晴れた日が戻ってくると、再びすべてのものの上には日の光があふれるようになる。
  今までの暗い日々と比べると、何と草花や木々が輝いていることだろう。

  そして、今まで押し黙っていた林の中のセミたちも、待ちかねていたかのように、みんなで一斉に鳴き交わし大合唱になる。
  こうして、この晴れた日に間に合って、思いの限り鳴くことができて、種の保存本能の思いを遂げて、セミとしての一生を全(まっと)うしたものもいれば、たまたま降り続く雨の日に出てきて、十分に鳴き交わすこともできぬまま、そのままひとり短いセミとしての一生を終えるものもいるのだろう。

 誰が悪く、誰が正しいということでもない。ただ、自然の神の差配のもとに従っているだけのことだ。
 そうして、今まで自然がつくりあげてきた社会は、動いて来たわけだし、それでいいのだと思う。
 そこには運不運もなく、平等不平等なる不平すらあるはずもないのだ。
 ただただ、受け入れることだけがあるのだ。
 そうすれば、気持ちがずっと楽になる。すべて、不満に思わないし、 争わなくってもいいからだ。
 それは、不満たらたらにあきらめることではなく、何かを恐れて争いから逃げることでもない。
 例えて言えば、ただ道ばたに花が咲いていて、人気(ひとけ)のない静かな道を、自分が選んだだけのことだ。

 さて、家の近くにある、まだ苗木が植えられて数年ほどしかたっていない植林地では、下草が草原状に残されていて、前回書いたように、スズランの群生地があり、さらにヒオウギアヤメやトカチフウロなどの花が咲いている。
 もう数年もしたら、さらに苗木が大きくなり、10年もたてばすっかり木の陰に隠れてしまい、これらの花々は徐々になくなってしまうことだろう。

  私はこうして晴れた日には、今のうちだけだと思い、その植林地に行って花々を眺め、花々の香りを楽しみ、写真に撮って戻ってくる。(写真上はヒオウギアヤメ)

  もう少しの間見られるだけで、やがては消えゆく定めにある花々たち。
  しかしそれは、誰が悪いわけでもなく、どうすればいいというわけでもない。

 もうずいぶん前の話だが、こうして植林地になったばかりの所に咲いていた花を、移植して助けてやろうとしたことがある。
 それは、本州では北アルプスなどの高山帯でしか見られない、高山植物の花として有名なハクサンチドリであるが、北海道では、山だけでなく丘陵地帯から平地でも咲いているのだ。

 家の近くの、まばらに木が生えている原野に近い丘の斜面に、そのハクサンチドリが咲いていて、毎年花の季節には見に行くのを楽しみにしていた。 
 しかし、ほどなくまわりのカシワやミズナラ、シラカバなどのすべての木が切られて、一面のエゾマツの植林地になってしまった。
 私はその時、このままでは消え去る運命にあるハクサンチドリを助けてやろうと思い、家に持ち帰り移植した。
 次の年、そのハクサンチドリは、あのさえざえとした赤紫の小さな花を咲かせて、私を喜ばせてくれた。
 しかし、次の年、その花は咲かなくなり、さらに次の年には、もうその緑の葉さえもなくなっていた。 
 それは、他の場所にあった山野草を、自分の楽しみで盗掘・移植したわけではなかったのだけれど、この時から私には、”やはり、野に置けれんげ草”という言葉が、身に染みて感じられるようになったのだ。

 それにしても、このスズランの群生と、ヒオウギアヤメの幾つもの株が、もう何年もたたぬうちに見られなくなるというのは、哀しいことだ。
 ただ、このスズランもヒオウギアヤメも、自分の家の林のふちに、多くはないが幾つか咲いているし、群生地としても、まだまだこの広い北海道のあちこちに咲いていることだろうから。

 青空の下、一面に広がる大地から、聞き覚えのあるリズムに乗って、ピアノの音が聞こえてきた。
 話は変わるけれども、先日、NHK・BS”プレミアム・アーカイブス”で、何度目かの再放送の番組として、2010年制作の『”南アフリカの絶景を弾く”ジャズ・ピアニスト、アブドゥーラ・イブラヒム』 が放映され、それを録画して見たのだ。
 その番組は、前に再放送されてはいたのだが、南アフリカのジャズピアニストなら、あの『アフリカン・ピアノ』で有名なダラー・ブランドなら分かるけれども、アブドゥーラ・イブラヒムなんていう、アラブ系の名前は聞いたことがないし、二番煎(せん)じの若手のジャズ・ピアニストの話だろうと、余り見る気にもならなかったのだ。
 しかし今回は、そのタイトルにある”南アフリカの絶景”にひかれて、一応録画することにした。

 そして私は、番組を見始めてすぐに、その年老いたピアニストが、あのダラー・ブランドその人であることを知らされて、驚いた。

 私が彼のピアノを聴いていたころから、すでに30年以上はたっているだろう。 
 東京で働いていたころ、私は若者の一人として、当然のように、体ごと突き動かすようなロックのリズムに酔い、その始まりはビートルズあたりだったのだろうが、次第にハードロックへと進んで、ディープ・パープル、E・L&P、B・T・O、レナード・スキナードなどからイエス、ピンク・フロイド、ジェスロ・タルなどのプログレッシヴ・ロックへと向かい、そこからロビン・トロワーやサンタナそしてマクラフリンなどの個人技の超絶ギターにひかれて、ついにはジャズへの道とつながることになり、チック・コリアやキース・ジャレットなどを聴いて、それらのジャズのソロ・ピアノから、いつしかクラッシック音楽の世界へと導かれることになったのだ。

 私の聞く音楽は、日本の流行歌に民謡から、世界の民族音楽、映画音楽、ポップス、シャンソン、ファド、タンゴから、クラッシック、ジャズ、昔のロック、そして最近のお気に入りAKBと、もうそれは知らない人から見れば、玉石混交(ぎょくせきこんこう)の魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界というべきか、精神錯乱状態のハチャメチャぶりの好みであって、ということは単に広く浅いだけで、何一つ深く極めたものはないということにもなるのだが。

 そうして、一時期にハマってよく聴いていたジャズの中でも、もちろんマイルスやコルトレーンも良かったのだが、次第にピアノ・トリオなどが自分が聴くには一番合っているように思われて、そこからついには、ピアノ・ソロの世界に入り、モンクやビル・エヴァンスからオスカー・ピーターソンなどを知ったのだが、何と言っても衝撃的だったのは、キース・ジャレットのアルバム『ケルン・コンサート』の世界であり・・・それは一つのテーマから即興演奏の音が延々と続く、瞑想(めいそう)のひと時だったからである。
 キース・ジャレットには、他にトリオ編成の名盤もあるけれども、やはり彼のピアノ・ソロの世界こそが、(来日コンサートを聴きに行ったくらいで)、当時の私の求める音の世界にふさわしいものだった。
 彼はその後、クラッシック音楽の世界でも活躍して、バッハの『平均律』 や『フルート・ソナタ集』なども録音している。

 話がすっかりそれて、キース・ジャレットのことになってしまったけれども、そうしたピアノ・ソロを聴くようになって、様々なジャズ・ピアニストのレコードを探していたころに、出会った一枚が、ダラー・ブランドの『アフリカン・ピアノ』だった。(写真)


 

 そして、それが優秀録音で有名な、あのECMレーベルのヨーロッパ輸入盤であることも、その時に、すぐ買う気になった理由の一つだった。
 当時、ジャズだけでなくクラッシック音楽もよく聴いていて、さらにはいくらかオーディオの世界へも入りかけていた私は、プレイヤーのカートリッジからステレオ・アンプそしてスピーカーへとつながり出されてくる音の、最初の音源であるレコード自体(詳しく言えば、演奏ホールの音響や録音機材なども関係してくるのだが)、そのレコードが作られた国によって、大きく音が変わることを少しは分かっていたからだ。

 つまり、一つの演奏が録音されたオリジナル・テープから、メタル・マスター・ディスクが作られ、それからマザー・ディスクになってスタンパーによって、レコード一枚一枚にプレスされていくのだが (音楽雑誌の編集という仕事柄、当時のレコード工場を見学させてもらったことがあり)、細かく言えば、音質を変えることはどの段階にもありうることであり、さらに厳密に言えば、演奏された音をそのままレコードやCDにトレースさせることがいかに難しいかということにもなるのだ。

 私はそのころ、ヨーロッパ輸入盤レコードと国内盤レコードの違いを、聞き比べたことがある。
 それは、ピエール・ランパル(fl)によるヴィヴァルディのフルート・ソナタ集『忠実な羊飼い』(現在はヴィヴァルディの偽作ということになっている)であり、当時よく聴いていたFM放送「バロック音楽の楽しみ」の冒頭のテーマ曲にもなっていて、朝のひと時にふさわしいさわやかな曲であった。 

 そのエラート原盤と日本コロムビア盤の音質の違いは、私の貧弱なステレオ・コンポでもはっきりと分かるほどに、衝撃的なまでの差があったのだ。
  エラート原盤では、ランパルの息づかいと、後ろできらめくヴェイロン=ラクロワのクラヴサンの音に、ホールの空気感が感じられたのに、日本盤ではそれらの音がすっかり薄められて、ただフルートの音だけが強く聞こえてくるだけだった。

 もちろんそこには音に対する、個人的な好みがあるから、私の好みから言えばという但(ただ)し書きをつけなければならないのだが、そのことを知って以降、私はクラッシック音楽においては輸入盤しか買わなくなってしまったのだ。
 その上に、輸入盤の方が安かったこともあるが。

 二つのレコードの音の違いとは、一言でいえば、間接音の響きを重要視した音の作りと、直接音の響きを大切にした音の作りの違いであり、またホールでの響きと楽器そのものの発する音の差にあると思うのだが。
 私は、その後のヨーロッパ旅行で、各地の音楽ホールや教会などで様々な演奏を聴いて、豊かな響きのホールの音を堪能(たんのう)することになったのだ。

 ともかく、輸入盤のそれは、まさしくホールから聞こえてくるアナログの音であり、一方の国内盤は、直接に聞こえる楽器の音をとらえようとしており、その後、日本で開発されたPCM録音は、じかに楽器音をとらえるという点でまさに画期的なものになり、さらにそれは、以後主流となっていくデジタル録音への一大変換点になったのだ。

 ただし私は、あのランパルの『忠実な羊飼い』を聴きたくなった時には、CDなどではなく、今でも変わらずにあのエラート原盤レコードに針を下ろすことになるだろう。

 またしても話がそれてしまったが、ともかく私は、その当時から輸入原盤の音の方が私の好みだったから、ともかくにも、ECM原盤の『アフリカン・ピアノ』 を買ったのだ。
 そして流れてきたピアノの音は、今まで聞いたこともない、いやどこかで聞いたことのあるようなリズムで、私の思いをアフリカの地へといざなうかのようだった。
  左手で奏(かな)でられる単調に繰り返されるリズムは、まぎれることもないアフリカ民族特有の音の響きであり、そこに右手の奏でるメロディーが、今の思いを語るかのように流れていく。
 素晴らしい一枚のレコードだった。これだから、レコードあさりはやめられないとさえ思った。

 さらに、他にもソロ・ピアノのレコードはないかと探し回り、それぞれに傾向は違うけれど、マッコイ・ターナーやポール・ブレイなどのピアノの音もなかなかに味わい深いものがあった。

 しかし、やはりジャズはジャズであり、クラッシック音楽のピアノの構築性と技巧性には及ばないところもあり、次第に私はジャズの世界から離れてしまい、それ以降長きにわたって、ほとんどクラッシック音楽だけを聴くという毎日になっていたのだ。
 ところが、そんなクラッシックな毎日を、最近ここにも書いているように、歳を取ってきて幼児帰りが始まったのか、何とAKBの歌声が変えてしまったのだ。

   さらに、あのワールドカップ2010年南アフリカ大会の記念番組として制作された、このアブドゥーラ・イブラヒムのテレビ番組を見て、私の心の中に、昔聴いたあのダラー・ブランドの『アフリカン・ピアノ』のリズムが響いてきたのだ。
 レコードは、九州の家に置いてあるから、今すぐには聞けないけれど・・・。
 南アフリカのケープタウン出身の彼が、波の打ち寄せる砂浜にピアノを置いて、あるいは内陸部カラハリ砂漠の砂の上にピアノを置いて、アフリカのリズムを刻みながら、そのピアノが奏でる音に彼の思いを託していたのだ。

 そして、私がその名を長い間憶えていて、多くのジャズ・ファンもまた親しんでいたダラー・ブランドという名前は、彼が青年時代のころ、当時はまだ船による旅行が盛んだった時代であり、世界中の多くの船が航路の要衝(ようしょう)であるケープタウンに停泊し、その時立ち寄ったアメリカ船の船員や兵隊たちから、当時アメリカではやっているジャズのレコードを買うために、いつも彼が1ドル札を手にして待ち受けていたために、アメリカ人たちから、”ダラー・ブランド(ドル印)”と呼ばれるようになったからだ、と明るく笑って話していた。
 
 その後、彼はアパルトヘイト(人種差別政策)の南アフリカを離れて、アメリカに渡り、ジャズ・ピアニストとして成功したのだが、母国の白人政権が崩壊して、アパルトヘイトが廃止され、ネルソン・マンデラが復帰することになり、彼も祖国に戻ってきたのだ。
 彼が街中を歩けば、誰もが声をかけてくる。
 それは、彼が、第二の国歌とも呼ばれる、反アパルトヘイトのシンボルともなった曲「マネンバーグ」の作曲者であることを知っているからだ。
 若いころの彼の名作『アフリカン・ピアノ』で、クレジットしていたアメリカ風な名前、ダラー・ブランドから、イスラム教に改宗して、名前をアブドゥーラ・イブラヒムに変えた気持ちも分かるような気がする。  

 あの『アフリカン・ピアノ』のジャケット写真の若き日の彼から、もう40年余りもたっていて、当時の面影はないけれど、むしろそこには風格さえも感じる老人の顔があり、その力強いまなざしで遠くを見ながら、彼は語る。

 「75という歳は、やっと物事が理解できるようになる年齢であり、これからやりたいことが山ほどある。」
 「現代は、時が進みすぎた時代であり、時計の針を戻す必要がある。」

 そして、時々、自分の祖先であるブッシュマン居留地を訪れては、彼らの話に耳を傾けるのだ。

 そのブッシュマンの老人の一人が、砂漠で生き抜くための食べ物の知恵を紹介していた。
 小さなサボテンの一種を採り、ナイフでそのとげのある皮をむいて口にして、これを幾つか食べれば、一日他に何も食べなくてもいいほどの貴重な食べ物なのだと話し、さらにヒースのような植物を砂の中から根ごと掘り返し、その根には解熱剤の効果があり、少し切り取った後の残りはまた根のついたまま砂の中に戻し、そこに自分の着ている大切なシャツの一部を切り取って、感謝の気持ちで一緒に土の中に埋めたのだ。

 それは私が、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)やタラノメ、コゴミなどの春の山菜を採る時の思いと同じことだ。
 今年だけでなく、来年もまた採れるようにと配慮すること・・・自然の中で、自然の恵みを受けて暮らしている人たちが誰でも考えていることなのだ。
 そして日本の農漁村でも、山の神、海の神に感謝して、お神酒(みき)をあげたり、獲れたばかりのものを神様にささげるという風習が、いまだに受け継がれ残っているのだ。

 自然に対して、最大限の感謝の気持ちを持つこと、それは自分たちが生きていくための大切な教えでもあるのだ。
 
 この番組で私が知ったのは、昔よく聴いたダラー・ブランドに、その音楽に再会した喜びとともに、いやそれ以上に、この番組では小さな挿入話でしかなかったのだが、アフリカの砂漠に生きた民、ブッシュマンたちの、自然を敬い生きていく知恵を教えられたことだ。
 あの、オーストラリアの原住民アボリジニーズたちと同じように、本来はすべて自分たちの暮らしている土地であったのに、砂漠の中の居留区に押し込められる形で、現代社会に同化させられている、彼らの今を思わないわけにはいかなかった・・・。 

 「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこに行くのか」

 (ポール・ゴーギャン、1848~1903)