4月7日
最高気温が20度近くまでも上がるような、あれほど暖かい日が続いていたのに、この数日は10度ほども一気に下がり、ミゾレも降ってまるで冬に逆戻りしたような寒さだった。
私は、そこであわてて厚着をしたり、ストーヴをつけたりコタツにもぐり込んだりするからまだいいが、その寒気に直接さらされる野生の動物たちや植物たちはどうしているのだろう。
もちろん、同じスタイルのままで耐えるしかないのだが。
しかし、彼らは、そのくらいの気温の変動では、びくともしない体を持っている。
気の遠くなるほどの昔から、何代にもわたって寒暖の差にさらされ続けてきた体は、その変容を記憶した遺伝子を次の世代に伝えては、多少の環境の変化には耐えうる体つきになっていったのだろう。
ちなみに人間たるや、こざかしい知恵を働かせて、自分の身にまとう衣を調節したり、自分のすみかで暖をとったりする方法を覚えて、そうして道具を使うことで環境の変化に耐えてきたのだ。
しかし、もしそうした道具が使えない日が来たら・・・。
これまでに、自然の中で他の外敵を次々に征服していった人間も、しかし今や、自分の身の回りをあまりにも整理処分し清潔にしていったために、本来内在していた自らの抵抗力を弱めて、些細な細菌にたやすく感染するようになってしまったのだ。
前回少しふれた(というより余り評価できない映画ではあったが)、あの日本映画『復活の日』(’80)ではないけれど、環境汚染による自然破壊と同時に、新型ウィルスなどによる病気のまんえんで、人類はいつの日にか滅亡の危機に追い込まれるのではないのかと、私は何の根拠もない漠然とした不安の想像を広げてしまう。
その時に最初に滅びるのは、いわゆる先進国と呼ばれる国々の人々、現代の経済文化の利益をいっぱいに享受している人々なのだろうか。
いかに高度な医療技術があるとしても、余りにもぜいたくな環境に慣れすぎていて、余りにも脆弱(ぜいじゃく)な体になってしまっているから・・・。
そして、生き残るのは・・・現在もなお敵味方に分かれて殺し合う争いの中にあり、政治経済の不安定さゆえに、貧しさと劣悪な生活環境にあえぎ、後進国と呼ばれる地域に住む人々・・・乳児死亡率、病気罹患率が高く、平均寿命が著しく短い国に住む人たち、たとえばアフリカの大半の地域に住む人々、しかし彼らこそが、実はそうした近未来的な人類存亡の危機に対して、生き残る人たちではないのか、そうした彼らこそが、むしろ人類の生存の希望となる人たちではないのか・・・。
人類は、約200万年前に彼らが初めて出現したアフリカの大地で、再び振り出しに戻るのではないのかとさえ思ってしまうのだ。
しかし、私はそうした人類の行く末を真剣に憂えているわけではない。
私ごときが、聞きかじりの知識だけで、勝手な未来予想図を描いたところで、何の裏付けもない妄想にすぎないからだ。
ただ、悠久の時が流れる地球の歴史の中では、人類生存の時間などわずか一行で記述されるだけのものでしかないということ。
そんなかすかな人類生存の光芒(こうぼう)の中で、さらに見えるかどうかも分からぬ、一瞬の個人の命の跡など、天空の数え切れぬ星屑の一つにもならないだろう。
だからこそ、だからこそ、今奇跡的にも生きているものたちの命がいとおしく感じられ、今の自分の小さな命がありがたく思えるのだ。
しかし、そういうふうに思えるようになったのは、実は長い歳月を生きてきた自分の体験があってゆえのことなのだ。
その昔、何も分からずにやみくもに大声をあげて走り回っていた、あの若き日の無謀で大胆な挑戦の成功と失敗の結果として、それらの経験の積み重ねを経て、そう考えるようになってきたのだ。
思い起こせば、もう何十年も前のことになるが、若き日の私は、あの時オートバイに乗って、オーストラリア大陸の砂漠の中の道を走っていたのだ。
遥かなるかなたの、空と地平の区切りに向かって、果てしなく続く一本の道。(写真上)
周りを、360度に渡って取り囲む、丸い地平線。
生き物の影はおろか、クルマ一台さえも見えない道のただ中にたたずみ、私は涙を流した。
怖かったからではない、つらかったからではない。
そこにそうしていることが、私の望みだったからだ。
私が、悠久の大地の中で、ひとりそこに立ち、今生きている自分を思ったからだ。
しかし、そうしたセンティメンタルな感慨にふけるのも、ほんのわずかなひと時だけだった。
砂漠の中で、次のペトロール・ステイション(ガソリン・スタンド)まで何としてもたどり着かなければならない。
その昔、オーストラリア大陸をぐるりと一周する道は、Route 1(国道1号線)と呼ばれていたが、北西部のダーウィンからパースに至る道の半分ほどは、未舗装路になっていて、単なるダートではなく、所々、ウェイブ・コロゲイションと呼ばれる、昔の洗濯板のような波状道路になっていたり、さらには深い砂の道になっていて、4輪の自動車ならともかく、そのクルマで走る人たちでさえ命を失うことがあるほどの、全くどこが国道1号線なのだと思ってしまうほどの状態で、特にひとりでバイクで走るには、かなり過酷な道だったのだ。
バイクが、オフ・ロード用の車種で荷物も少なかったなら、あれほどに苦労することもなく、むしろダートとして楽しめる所もあったかもしれない。
しかし、私が選んだバイクは、当時ストリート・スクランブラーと銘打たれていた、ホンダのCL350だった。
広いオーストラリア大陸をツーリングするには、やはり大半を占める舗装道路で距離を伸ばせるスポーツ・タイプのものがいいし、なおかつ悪路走行にも対応したものでなければならないからだ。
しかし現地を走って初めて分かったのは、問題は車種ではないということだった。
それは、後ろに乗せる荷物との、バランスの問題だったのだ。
もし、荷物をあまり乗せずに、空身に近い状態だったならば、あの深い砂の道でもあれほど苦しむこともなかっただろう。
しかし、後ろには両側にサイドボックスをつけていて、荷台には大きなリュックサックとそして予備のガソリンタンクの入ったバックをくくり付けていて、それだけで100㎏近い重さがあり、当然のことフロントのタイヤが浮き上がりやすくなる。
深い砂の道では、後ろのタイヤに荷重がかかり、前のタイヤは軽くてふらつきやすく、バランスを失ってはすぐに倒れることになる。(写真)
もっともそんな砂の道だから、スピードも出せないし、注意して倒れればケガをすることはない。
しかし、バイク自体の重さと後ろに積んだ荷物を併せれば、300㎏近い重さがある。
そのうえ、早くしないと、倒れたバイクのタンクからガソリンがこぼれてしまう。
気温45度。その暑さの中、ケガをしないようにと、レース用の革製の上下を着こんでいる。
誰も見てはいない。誰も手伝ってはくれない。
何とか早く、その重たいバイクを抱え起こすしかない。必死になって気合の声を出して・・・。
ただ先に向かうために、ただ生きるために、有無を言わせない本能による、いわゆる火事場の力を出したのだ。
(上の写真は、そうして何度も倒れた後で、次のスタンドも近かったし、バイクのタンクのガソリンも残り少なく、こぼれてもいなかった。だから、私には少し心の余裕もあって、それだからこそ、記録として撮った一枚だけの写真なのだ。)
今まで、このブログでは余り書くこともなかった昔のオーストラリアの旅のことについて、今になってなぜ書いておこうと思ったのか。
理由は簡単だ。前回、初めてオーストラリアの旅の写真を乗せた時(1月6日の項)と同じように(あれ以来中断したままになっていたのだが)、その続きのスライド・フィルムのスキャン作業をしていたからだ。
そして、その中断したところから始めて、上の写真にあるように、この旅の一番の悪路帯だった西北部の道から、麗しの街、パースにたどり着くまでを、ようやくスキャンし終えたばかりだったのだ。
そして今、そこまでで再び中断して、この旅のスライド・フィルムはまだ半分は残っているし、白黒フィルムも20数本はある。
生きている間に、もう一度それらの写真の光景を確認して、記録ノートを清書しては思い返し、最後にはそれらのすべてを人の目につかぬように、焼き捨てるなりして処分しておかなければならない。
なぜかといえば、それは私のために私がひとりで行った旅であり、私とともにそれらの記録が消え去ることが望ましいからだ。
つまり、この旅の記録が、人類の進歩に寄与するほどの出来事であり発見であったのならばともかく、取るに足りない個人のずいぶん昔の旅の記録にすぎないからだ。
すべて私とともになくなってしまうのが、正しいものの処理の仕方だ。
これからも若き日の私と同じように、未知の冒険に乗り出す若者がいることだろう。その時は、彼は苦労して冒険の旅への準備を整え、さらにも増しての苦労を重ねて実行するべきなのだ。
何も先人の後を追うだけでは、新しいものを得ることはできない。
しかし、そうした苦労をして、探し回り歩き回ったすえに手に入れたものは、パソコンのキーボードを叩いただけで手に入れたものよりは、はるかに価値のある喜びを与えてくれることだろう。
”若いうちは、苦労は買ってでもせよ”という言葉は、何も年寄りたちのサディスティックな命令口調の、苦労強制ということではない。
まさしくそれは、年寄りたちの若き日の反省から出た、心ある忠告の言葉なのだ。
若者たちは、何かを探し求めてもダメなときに、すぐにあきらめてしまうのではなく、辛いけれどももう一度頭を低くして、挑んでみるべきだということ。
一度拒否されても、すべての門戸が閉ざされたわけではないのだから、可能性がある限りは進むべき道はあるということだ。
それでも、結局は失敗して、やめざるを得ない結果になることが多いのだろうが、しかし、また別な道を探すことはできる。
そしていつの日にか、成功への道を潜り抜け、今まで経験したこともないほどの、明るく開けた黄金のひと時を知ることになる。
さらに時がたち思うのだ、自分のやり遂げたことが、あれほどに輝いていたなんて・・・。
私はそういうことを、誰かに伝えたいと思っているわけではない。
あの時の、あの若い私に向かって、今になって思い出すように語りかけているだけのことだ。
若い時のあの一途な思い、人生の時の重さも知らぬまま、自らに呪文(じゅもん)のように言い聞かせるだけで、ひたすらに走り続けていた日々・・・。
”若いうちは、苦労は買ってでもせよ”という言葉をネットで調べていたら、同じ意味だという英語のフレーズが書いてあった。
”Heavy work in youth is quiet rest in old age."
まあ直訳すれば、”若い時にきつい仕事をしておけば、年を取ってからはゆっくり休めるものだ”ということなのだろう。
思うに、その言葉だけでなく、格言とか言い伝えとかことわざとかいったものは、いずれも年寄りたちが、若いころの自分の無謀な行動やひどい失敗などを思い出して、えらそうに若いものに教えさとす言葉なのかもしれない。
しかし、若者は誰も年寄りの言うことを、聞いてはいないのだ。
そこで、若者はまた同じ過ちを繰り返すことになる・・・それでいいのだ。自分の身に及んで、そこで初めて分かるもの、身につくものだから。
『世の中は、泡沫(うたかた)のごとしと見よ。
世の中は、かげろうのごとしと見よ。
世の中を、このように観(かん)じる人は、死王もかれを見ることがない。』
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳 岩波文庫より)
春になると、母がいつも楽しみに待っていた、庭のコブシの花が満開になった。
毎年、ほんの少しずつ花の数が増えていって、今ではもうそこだけが明るく華やかで・・・。(写真)
『年年歳歳花相似(ねんねんさいさい はなあいにたり)
歳歳年年人不同(さいさいねんねん ひとおなじからず)』
(『唐詩選』劉希夷(廷芝)「白頭を悲しむ翁に代わりて」岩波文庫)