4月28日
数日前に、北海道に戻ってきた。
まだすべてが冬枯れのまま景色だけれども、あたり一面雪に覆われていた冬と比べれば、それだけでも確かに春だった。
カラマツの林のそば、日陰になったところに少しだけの残雪があり、冬の姿を忍ばせていた。(写真上)
帰ってきた日は、曇り空で寒々しく、気温も13度くらいしかなかったのだが、その後晴れた日が続き、気温も一気に20度を超える毎日になって、一昨日など、帯広では27度と鹿児島と同じ夏日になっていた。
日本の北と南の気温が、日本国内で一番高かったというのも、なかなか面白い現象だった。
帰ってきた日に、庭の片隅で、とがった緑の葉の間からのぞいていた鮮やかなクロッカスのつぼみは、この暖かさで一気に開いて、周りがすべて枯れ草色なだけに、強烈な春の命の色彩を見せていた。(写真)
林のふちでは、こちらはいかにも野の花らしい落ち着いた色合いで、フクジュソウの黄金色の花が二つだけ、花開いていた。
園芸種のクロッカスと、野草のフクジュソウ。人間がかけ合せて作りだした鮮烈な色彩と、自然界のなじみある色合い。
どちらがどうだという前に、私には、いつも春の到来を一番先に教えてくれる、大切な花々である。
そしてこの二つの花が嚆矢(こうし)となって、草花や木々の若葉の緑がいっっぱいに満ち溢れて、北海道の春は一気に、あるいは爆発的な勢いで広がっていくのだ。
たとえて言えば、管弦楽曲『春の祭典』。
あの北国のロシアの大地で、すべての命ある物たちがうごめき出し、むせ返るほどに増え、やがては飛び跳ねるような活気に満ち溢れる、春の様子を表現した、あのストラヴィンスキーの『春の祭典』の冒頭部の全奏音の高まり、命の開放感あふれる喜び。
私は九州でも、すでに春の訪れを見てきていたのだが、そこではまだ真冬のころから、雪のない大地のあちこちで少しずつ、ゆっくりと春の予感を感じていた。
真冬でも、サザンカの花が咲いているし、日当たりのよい斜面では、あのオオイヌノフグリやハコベなどの小さな野の花を見つけることができる。
さらに山の中にある家から、ずっと下った町にまで行けば 、そこここに、黄色い菜の花やスイセンの花さえも目にするることができたのだ。
同じころに咲き始めたウメの花が終わると、一気に春の盛りの華やかなサクラの季節になる。
こうして、私はぜいたくにも、一年で二度の春を迎えることができるのだ。
しかし、ということは、九州での鮮やかな新緑の光景を見ることはできなかったし、また北海道の早春、長い冬が終わり日ごとに雪が少なくなっていき、ついには去年以来の地面が現われてきて、初めての緑色である、芝草やフキノトウの芽が顔をのぞかせるころの、湧きあがる喜びを味わうことはできなかったのだ。
何事にも、いいことばかりではなく、その裏には公平に、いつもそれを相補う形での良くないこともあるということだ。
九州の家では、毎日風呂に入って、次の日はまだ温かい風呂の残り湯で洗濯ができたし、水道の水で普通に洗い物ができたし、ウォシュレットなどではない旧式の便座だが、ちゃんと水洗トイレを使うこともできたのだ。
ところがこの北海道の家では、井戸水だから、それも6mほどの深さしかない浅井戸だから 、いつも枯れてしまうことを気にして十分には使えない。
ゴエモン風呂にはその水を大量に使うから、いつも1週間くらいはそのままの溜め置きで、沸かすのにも時間がかかるからたまにしか入らない。風呂好きな私だから、毎日入りたいのに。
洗濯は、井戸水が冷たい上に、雑排水は地下浸透だから、多少はまた井戸水に戻るのではと気になって。最近はほとんど町のコインランドリーを利用している。
さらに問題はトイレだ。大きい方は外の小屋に作った溜め込み式のトイレなのでいいとしても、年を取ってから、夜中にトイレに起きるようになって、そのたびごとに家の外に出て立ちションするしかないのだ。
おお寒っ、冬場ならなおさらのこと。
そのうえ一軒家の真っ暗な外だから、いつヒグマが出てきて、間違えて先っちょをかじられないかと気になるし。
というわけで、いかにも豊かな”北の国から”の生活のように見えて、実は、内情はあばら家での原始生活と言ってもいい程度のものなのだ。
まあそれでも、電気は来ているから、こうしてパソコンは使えるし、テレビを見てひとり馬鹿笑いすることもできるのだが。
ところが、この度帰ってきたら、何と井戸のポンプが動かないのだ。
毎年凍らないように、吸入・吐き出しのパイプは外して、本体の水抜きもしていたのに、ポンプのモーターが動かない。
取り外して見てみたが、とても素人(しろうと)の手におえるものではない。
このポンプは二代目で十年ほどになるが、今までにも二回ほどこの冬場の凍結等で故障して、そのたびごとにかなりの修理代がかかっていた。
その修理代を考えればと、思い切ってポンプを買い替えることにして、ネットで調べると近くの大きな町のホームセンターよりはずっと安くなっていて、すぐに注文して三日で届いたのだが、さて事はそう簡単には運ばなかったのだ。
今までのポンプにつないであった塩ビパイプとの金属継ぎ手がさび付いてしまっていて、手持ちの工具とサビ取りスプレーぐらいではびくともしないのだ。そこでスパナで挟んで、ポンプ接続金具を金づちでたたいて回そうとしていたら、そこがポロリと折れてしまった。
万事休す。
もうこうなれば、新たに吸入・吐き出し用の塩ビパイプと継ぎ手の部品などを買ってきて、自分でできないこともないのだろうが、もうこの年寄りにはそんな元気は残されていなかった。
地元の工事店に、お願いするしかなかったのだ。
やれやれ、ネットで安いポンプを買ったまでは良かったのだが、そして周りのみんなにいい買い物をしたと言いふらしたのに、結局は素人の先走りにすぎなかった。
よくあることだ。うまくいったことはさも自慢げに話してまわり、しくじったことはあまりみんなに話したくはないものだ。
そういえば、あのエラスムスの『痴愚神礼賛(ちぐしんらいさん)』の中に、こういう古いたとえ話が書いてあった。
「人間はズダ袋をかついでいるが、前のほうの袋には自分のよいところを入れ、後ろの袋には自分の悪いところを入れておくから、自分の悪いところには気づかない。」
エラスムス(1466~1536)は、ルネッサンスから宗教改革期のネーデルランドにおける高名な人文主義者であり、神学者でもあり哲学者でもあった。
彼が書いた『痴愚神礼賛』は、当時の堕落した王侯貴族や聖職者たちを痛烈に批判風刺した作品であり、それが当時の一般民衆にうけて、ベストセラーになったとも言われている。
さらに彼は、あの『ユートピア』を書いたイギリスのトーマス・モア(1478~1535)とは深い友情で結ばれていたが、モアはヘンリー8世のイギリス国教会への改変に反対して刑死してしまう。
そのモアのひたむきな生き方を描いていたのが、あのフレッド・ジンネマン監督の『わが命つきるとも』(’66)であり、前にもこのブログで少し触れたことがある。(3月24日の項参照)
ところで、この話は、古くローマ時代のホラティウスやペルシウスなどが書いた、風刺詩の中の一節としても知られていて、それをエラスムスは、この本の中で、賢人ぶった人たちにたとえて皮肉って書いていたのだ。
(以上『世界の名著 エラスムス トマス・モア』より『痴愚神礼賛』渡辺一夫・二宮敬訳 中央公論社)
前回、あの上田秋成の『癇癖談(かんぺきだん)』について少し触れたのだが、思えば洋の東西を問わず、いつの時代にも、おごり高ぶる人々をにがにがしく見つめては、皮肉り風刺する文を書かずにはいられない人々がいたのだ。
つまりどのような世の中でも、悪の意識すらなく我欲をむさぼり生きた人たちがいて、それに対する形で正しさを求め良心に従い行動した人たちがいて、しかし、多くの人々は、自分の身の回りのことだけで、生きていくだけで精いっぱいだったのだろう。
世の中は、少しは進歩しているようで、実は昔と大して変わってはいないのかもしれない。
季節が移り変わっていくように、ただ人々が変わっているだけなのかもしれない。
みんな同じように、喜び悲しみ、笑い泣いただけのことなのかもしれない。
私がこちらに戻ってきて、毎日快晴の日が続き、気温もぐんぐんと上がり、むしろ九州にいた時よりも暖かく(ただし明朝は-5度くらいにまで冷え込むとのことだが)、帯広では、昨日北海道内で一番早く、エゾヤマザクラの花が開花したとのことだ。
家の庭でも、昨日エゾムラサキツツジの花が二つ三つ開いたかと思ったら、もう今日はいっぱいに咲いている。(写真下)
ナナカマドの芽が盛り上がってきて、桜のつぼみも赤く見えてきた。今年は明らかに、すべての花の咲くのが早いようだ。
そして、十勝平野の彼方に立ち並ぶ日高山脈の稜線は、まだ白く連なっているが、山の雪は今の時期としては少なめだった。
つまり、私はもうその山の一つに登ってきたのだ。
次回は、その山の話について。