4月1日
もうすっかり、春本番を感じさせる暖かい日が続いていて、冬枯れ色の庭も、あの”花咲か爺さん”の話のように、見る間に明るく変わってしまった。
昔の人が、それまでの見慣れた冬枯れの景色から、一気に春の色合いに変わった喜びを、あの昔話に託したのだろう。
鮮やかな、春の景色の幕開けだ。
ウメの花が満開になり、コブシの白い花があふれ、ツバキの赤い花に、足元には黄色いスイセンの花、そしてジンチョウゲの香りが漂う。
そんな家の庭に、鮮やかに、ウグイスの一声。
その温かい日差しに誘われて、久しぶりに山道を1時間ほど散歩してきた。
思えば、とうとうこの3月は一度も山に行かなかった。あの、厳冬期の蔵王に行ってからもう一月以上もたってしまったのだ。
一つには、今九州の山に登るには、どうも中途半端な時期だからだ。
雪の季節は終わってしまい、今雪は頂上付近にうずくまったネコのようにわずかに残るだけで、どう見ても残雪の山の景観とはいえない。
そのうえ、九重などの火山性の山道には朝夕の凍結でできたぬかるみがあって、足元ばかり見ていなければならないし、新緑の時期にはまだ早くて、見るべきものが何もない。
いやかろうじて、あのマンサクの黄色の花がちらほらと、そしてアセビの花も見られるかもしれないが。
ともかく九州の山では、冬の雪景色を楽しめる前後の季節、つまり紅葉の終わりから雪が積もるまでと、雪が溶けてしまい新緑になるまでの時期が、山としては一番さびしい時期なのだ。
しかし、本州の山や東北・北海道などの高い山では、見るべきものが何もない時期などあり得ない。
というのも、秋の紅葉の終わりのころには、もう雪が積もり始めるし、冬の大量の雪は、新緑のころを過ぎても、鮮やかな残雪の景観となって、私たちの目を楽しませてくれるからだ。
もし私が今、日本アルプスや上信越の山々、東北・北海道の山々のふもとに住んでいるとしたら、周りにはまだ雪に覆われている山がいくらでもあるから、天気のいい日にはそんな山々に登っていることだろう。
それならば、先日蔵王に行った時のように、また遠征の山旅に出かければいいのだが、そこはそれ、口先だけは達者な、実は腰の重たいぐうたらじじいのこと、テレビの前に巨体を横たえて、くだらないバラエティー番組でも見ては、下卑(げび)た笑い声を立て、誰もいない気楽さからは、鼻ホジはするわ、屁はこくわ、どもならん。
それでもさすがは人の子、こんなことではいかんと、なまった体を鍛えるべく、時を見ては山坂歩きをしようという、殊勝な心がけもまだ残っている。
というわけで、晴れた青空の下、すがすがしい春風が吹く中を歩いて行くと、道端に咲く、レンギョウの黄色い花が目につく。
さらに歩いて行くと、あちこちに今が盛りの、アセビの花が咲きこぼれんばかりに、すずなりになって咲いている。(写真)
足元には小さな紫色の、オオイヌノフグリ・・・すべては、春が来たことを告げる花たちだ。
久しぶりに、30分ほどもかかる坂道を登って、少し息を切らせながらも、立ち止まることなく歩いて行く。
上空の青空と、遠くに見える山々、汗ばんだ体に風が吹き抜けてゆく。
いつもたとえにあげる映画の題名のように・・・”Far from the mudding crowd"『遥か群衆を離れて』(’67)、そのために多くのことを犠牲にしたにせよ・・・何事もなく、穏やかに生きていくこと・・・それが私の望んだことなのだ。
これもまた、今までに何度も取り上げてきた、あのローマ時代の政治家にして、哲学者であったキケロー(BC106~BC43)の言葉を思い出す。
「・・・不平のない老年を送る人・・・そういう人は欲望の鎖から解き放たれたことを喜びとし(ている)・・・。」
「・・・(引退後)快楽がなくなった。これなくしては人生は無だとか、いつも敬意を払ってくれていた人々からさげすまれるようになったとか、(いう)繰り言を耳にした(が)・・・(しかし)すべてその類の不幸は、性格のせいであって、年齢のせいではない。」
「老年にとって・・・あらゆる欲望への服務期間が満了して、心が充足している、いわゆる心が自分自身とともに生きる、というのは何と価値あることか。」
(『老年について』キケロー 中務哲郎訳 岩波文庫より)
つまり、心穏やかに生きることは、実は群衆から離れることではなく、”遥か欲望から離れて”いること、そうした離れたところで暮らすことにあるのかもしれない。
私が、山に登るのは、こうして誰にも会わない山道を歩くのは、逃げているのではなく、私の望ましい場所に向かっているだけのことだ。背筋を伸ばして歩くこと、”Walk tall"・・・。
こうして、今までに学んできた言葉を思い出すことによって、時々自らを励ますことが、私には必要なのだ。
人は助けが必要なとき、誰かの力添えによって、あるいは有意義な助言を受けて、奮い立つ力が湧いてくる。
それがひとりっきりの時だとしても、心のうちから浮かび上がってくる言葉があるはずだ、昔誰からか聞いた言葉であり、あるいはいつか教えられた言葉だ。
いつも人は一人で生きてきたのではない。その後ろに広大に広がる自然があるように、いつも誰かの励ましの言葉に包まれて生きてきたのだ。
そうしたすべてのことに、感謝する思い・・・。
などと真面目なことを考えながら、前回、書くことのできなかった映画『英国王のスピーチ』(2010年)について、少し考えてみることにした。
この映画が、すでに高い評価を受けていることは知っていたから、去年民放のBSで初放映された時には、喜び勇んで録画したのだが、時期が悪かった。
ちょうどその夜は、雷が鳴り響き、哀れ電波障害を受けて録画番組は一部ずたずたになってしまい、これでは見る気にならないとそのまま見ないでいたのだが、このたび例のNHK・BSで放映されることになり、ようやく安心して全編を見ることができたのだ。
そして見終わった後、すぐに思ったのは、何と言っても映画になりそうにもない、小さな話題を取り上げて、うまく肉付けしていった脚本のうまさである。
イギリス王室にかかわる謎めいて重層化した話を、歴史的な成功譚(たん)へと、一つに収れんしていくその手際よさに、ただ感心するばかりであった。
その話とは、老いたイギリス国王ジョージ5世(在位1910~36)が亡くなった後、その後を継いだのは長男のデイヴィッドであり、エドワード8世となったのだが、離婚歴のあるアメリカ人シンプソン夫人と結婚するために、在位わずか1年にも満たずに退位してウィンザー公となった。
代わって跡を継いだのが、次男であったヨーク公アルバートであり、これからはジョージ6世(在位1936~52)として国務に携わることになるのだ。
しかしアルバートは、デイヴィッドのように帝王学を学んできたわけではなく、今の海軍士官の地位で十分だと思っていたのに、突然の国王の地位に戸惑ってしまうのだ。それにはもう一つの、理由もあった。
彼は、公の場でのスピーチの時に緊張するあまり、言葉に詰まりつかえてしまう癖があったのだ。
時は風雲急を告げるヨーロッパであり、これからは公の場への出席も増えて、それとともにスピーチの機会もさらに増えてくることだろう。
かつて、アルバートのスピーチの失敗を傍で見たこともある、妻のエリザベスは、今までの古い言語治療法では治らないと思い、人づてに聞いた言語障害療法士のもとへと、夫とともに尋ねることにした。
裏町のあまりきれいではない部屋に通されて、そこで初めてオーストラリア人のライオネル・ローグと対面することになる。
(この時、ライオネルのオーストラリアなまりを、もちろんキングス・イングリッシュのアルバートは気にしたのだが、それは私たちがよく知っている”エイ”を”アイ”と発音するような目立ったものだけではなく、調べてみると、多くの単語の発音や用語法としても見られるものだとのことである。別の機会にこのオーストラリアン・アクセントについても書いてみたいと思う。)
さて、彼はまず、精神分析的にアルバートの幼児体験の幾つかを暴き出して、それがトラウマの一つになっていたことを教える。
さらには、国王になるアルバートを、皇族の親しい人にしか呼ばせない愛称で”バーティー”と呼びかけては、二人だけの部屋で発声や呼吸法などの治療法を進めていく。(写真)
しかし途中で、当然のことながら国王たるべきアルバートの逆鱗(げきりん)に触れることになり、断絶にまで追い込まれることもあったが、やはり治療の必要に迫られて和解しては、さらに訓練を重ねて日を追うごとにその効果が現われてきて、ついにその大切な日がやってくる。
アルバートは、全国民に対してラジオで、ヒットラーのドイツとの戦いに突入したことを知らせ、今後の戦いを鼓舞する見事なスピーチをしたのだった。
放送室の外で待っていた王妃エリザベスは、いつもアルバートの傍に付き添ってくれていた彼に対して、今まで決して呼ぶことのなかった名前で、感謝をこめて”ライオネル”と呼んだのだった。
最近新しく見つかった、ジョージ6世へのライオネルの治療記録などを調べて、書き上げられた脚本は、当時の王室内紛や、第二次大戦前の国内外の大きな事件などには余り触れることもなく、主題(原題)の”King's speech"にかかわる人々だけを取り上げ整理したことで、流れるような一つの物語となったのだ。
日本の脚本家のいったい誰が、こうした皇室のあまり公にはされていない話題を、その人々のひたむきさと、激情と小さなユーモアを含めて、上品にそして感動的に、書き上げることができるだろうか。
話は横道にそれるが、これはたまたま、民放BSで放送された小松左京原作の日本映画『復活の日』(’80)を見たのだが、その話は世界が新型細菌のまんえんによって人類絶滅の危機にさらされるという、近未来のSF的なストーリーだった。
しかしその脚本はあまりにも単純で、さらにストーリーをつなげるだけの映像に面白味はなく、すぐに早送りをしてしまったのだが、あれほど多くのハリウッド・スターと日本俳優陣をそろえていながら、ありきたりのストーリを追うだけの安っぽい映画に、もうそれ以上は見てはいられなかったからである。
同じような話なら、いかにアメリカ映画とはいえ、あの核戦争後の世界滅亡の姿を描いたスタンリー・クレイマー監督の『渚にて』(’59)のほうが、はるかに真実味があり、人間の哀しみと愛おしさにあふれていた。
『復活の日』のラストで、主人公がずっと同じボロボロの服をまとい、海岸から砂漠、そして氷河のある高山までの信じられないほどの距離を、ヨタヨタした足取りでさまよい歩く、という姿自体が非現実的であり、日本映画の芝居小屋演劇の域を出ない悪しき典型を見る思いがした。
誰でも、映画はスクリーンに映った架空のお話だと分かってはいる。だからこそ、真に迫った現実だと思える夢を見たいのだ。
さて『英国王のスピーチ』の話に戻ろう。
この映画では製作者の意図と、脚本、監督、撮影、美術などのラインが見事に統一されていて、映画を見る側としても、疑問がわき起こる暇もなく、そのまま映画のストーリーの中に入っていけたのだ。
そして、その物語にふさわしい演技陣だった。
ジョージ6世アルバートを演じたコリン・ファースはそれまでにも、『高慢と偏見』(’95)『イングリッシュ・ペイシェント』(’96)『恋におちたシェイクスピア』(’98)などのイギリス名作映画に出演していて、今回の国王役も、制作発表前にはまだ3番手の候補だったとは思えないほどの、はまり役になっていた。
相手役の言語療法士ライオネル・ローグを演じたのは、あのオーストラリアの個性派俳優、ジェフリー・ラッシュである。
オーストラリア映画『シャイン』(’96)で一躍脚光を浴び、その後も『恋におちたシェイクスピア』『エリザベス』(’98)さらには、あの『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズでも有名である。
しかし実在のライオネル・ローグは、残された写真で見る限り(ウィキペディア参照)、なかなかに端正な顔立ちをしていて、悪く言えば多少容貌魁偉(ようぼうかいい)なジェフリー・ラッシュとは、まさに別人の違いがある。
もっとも制作サイドからいえば、国王と療法士という立場の映画での効果をより鮮明にさせるために、さらにはオーストラリアン・アクセントで話すオーストラリア出身の俳優ということで、結果として納得できる人選になったのだ。
次に王妃エリザベス役のヘレナ・ボナム・カーターは、『眺めのいい部屋』(’86)であの内気で気の強い娘役を演じ、さらにゼフィレッリの『ハムレット』(’90)ではオフィーリア役だったのに、今やお母さん役になっていて感慨深いものがある。
しかし、何よりこの映画のキャストで驚いたのは、というかうれしかったのは、あのクレア・ブルーム(1931~)がジョージ6世の母親王太后役として出ていたことである。
あのチャップリンの名作『ラインムライト』(’53)の可憐な踊り子役、オリビエの『リチャード3世』(’55)での王妃アン役の彼女が・・・。
さらに、この映画に必要な歴史的人物たちも、チャーチル、チェンバレンそしてボールドウィンなどを、メーキャップなどで似せた顔つきにした俳優たちが演じていた(特に髪がセンター分けのボールドウィンなど思わず写真で見た通りだと思ったほどだ)。
付け加えれば、このジョージ6世一家の二人の幼い娘たちの、長女のほうは現在のエリザベス女王であり、妹のほうは今は亡きマーガレット王女になるのだ。
というわけで、今まで誰も取り上げなかったテーマを見事にふくらませて作り上げた、全く良くできた映画であり、映画を見終わった後にもいい映画を見たという満足感は残るのだが、テーマが現代に近い王室関係の話ということもあって、映画のために大きく話を広げるわけにもいかず、やや内向きの小ぶりな感じになったことは否めない。
それならば、欲を言えば、二人の男の心理的対決の様を、もっとじりじりと迫る感じで描いてほしかったとも思えるのだが・・・。
ところでタイミングよく数日前に、同じイギリス王室の映画『ヴィクトリア女王 世紀の愛』(’08、ジャン・マルク・ヴァレ監督、エミリー・ブラント主演)がNHK・BSで放映された。
実はこの作品は、ジョン・マッデン監督ジュディ・デンチ主演の映画『Qeen Victoria 至上の愛』(’97)で描かれていたヴィクトリア女王の、それ以前の若き日の時代のことを描いたものであり、しかし作品の出来としては今一つで、ヨーロッパ王室間の単なるラブ・ロマンスに終わってしまった感がある。
話のヒロイン、ヴィクトリア女王(在位1837~1901)は、ドイツ系ハノーヴァー選帝侯家の血筋を引くジョージ3世の、第4王子であったケント公エドワードの長女として生まれたのだが、父親の兄弟たちに後継ぎがなく、回りまわって彼女が18歳の若さで、イギリス女王の地位に就くことになったのである。
その後、同じドイツの名家ザクセン=コーブルク=ゴータ公の次男アルバートに出会い、二人は結婚して、単なる入り婿ではなく、共同統治という形でイギリスを治めていくのだが、そのあたりの若き日のヴィクトリアとアルバートの姿が、この映画『ヴィクトリア女王 世紀の愛』(原題”The young Victoria")で描かれている。
そしてその後のことが、その前に作られた映画『Queen Victoria 至上の愛』(原題 Mrs.Brown)の主題になっていて、映画の出来としてはこちらのほうが見ごたえがあった。
夫のアルバートを亡くしたヴィクトリアは、長い服喪期間を経て、いつしか従僕で馬丁のブラウンと思いを通わせる仲になり、口さがない連中は、女王のことを陰で”Mrs.Brown" と呼んでいたが、その関係もやがて終わり、彼女は隆盛を迎えていた大英帝国の力強き君主であり続けて、82歳で亡くなるまで、実に64年間にわたってイギリスとその広大な植民地を統治し続けたのだ。
彼女の名前に関して呼ばれる”ヴィクトリア朝”こそは、すべてにおいてまさにイギリスの絶頂期の呼び名だったのだ。
ついでに、前回取り上げた映画『ブーリン家の姉妹』で描かれていたアン・ブーリンは、ヘンリー8世の王妃になり、その後わずか3年もたたないうちに断頭台に送られることになったのだが、その悲劇の彼女が生んだ子供エリザベスは、その後めぐりめぐってイギリス女王の座につき、45年の長きにわたってイギリスを統治することになり、あのスペイン無敵艦隊を破り、東インド会社を作り、大英帝国一大発展の礎を築くことになったのだ。
その”処女王”と呼ばれたエリザベス1世については、インド出身のシェカール・カプール監督、ケイト・ブランシェット主演で『エリザベス』(’98)『エリザベス ゴールデン・エイジ』(’07)と続く連作として制作されている。
長い歴史を誇るイギリス王室だが、そこには王座をめぐる深慮遠謀(しんりょえんぼう)をめぐらした駆け引きの日常があり、時には血みどろの争いさえもあったのだ。
そうした歴史の真実を、映画とは別にたどって行くことも興味深いことだ。
しかし、闇の中に隠されて浮かび上がることのない真実もあり、いやむしろ北極海に浮かぶ氷山のように、今となっては誰も知らないことのほうが多いのかもしれない。
結局、私たちは自分たちの周りだけの小さな世界の中に生きて、それもほんの少しのことだけを見知っただけで・・・その辺りに生きている虫たちと何も変わることなく、ただ生きていた日々に一喜一憂しただけのことかもしれない。
(追記1)全く余分なことだが、いつも昼食を食べながら見ていた、あの『笑って、いいとも!』が終わってしまった。
タモリは、いわゆる”すかしたやつ””かっこうつけたやつ”がきらいだった。
いつもそんな彼らを、遠回しな皮肉に包んで揶揄(やゆ)していた。
博学な知識をブラックなユーモアに包んで、ひとり薄ら笑いを浮かべていた。
いつも漂う、やさしいひとりのにおい。
そんなさびしさの中で、誰にも見られないところで、いつも自分は”すかして”いたのだ。
もう二度と現われることのない、一代きりの偉大なる才能(タレント)だった。
なぜやめたのか。うんざりしたのだ、周りの”すかしたやつ”らに。
いくら、百冊のうすっぺらな内容のない本を読もうとも、それはたった一冊の名作を読むことの足元にも及ばないのだ。
これから、昼食の時間には、私を元気にしてくれるAKBの歌の録画でも見ることにしよう。
(追記2)まず最初に、この記事はいつもの投稿日より一日遅れてしまった。
というのも、自分のミスで、書いていた原稿をまた半分以上消してしまったからだ。
いつも、原稿を書き上げるには数時間もかかるから、その間中”gooブログ”とつないだままにしておくわけにはいかない。
そこで、キーボードを打っている時にはネットは切断していて、一休みする時にはそれまでの原稿保存をクリックするのだが、その時ネットとつないでいないと、一瞬で消えてしまうことになるのだ。
今までに何度かその失敗を繰り返してきたのに、さらに年寄りになった今、そのうっかりミスが出てしまったのだ、あちゃー、やってしまった。
結局、今日また一日かかって、さらに分量が増えてしまい、ようやく書き上げたところだ。
しかし今日投稿した文章には、まだ誤字脱字があるだろうから、明日また読み直して訂正し、さらにもう一日たって少し訂正し、もう読み返さなくなるのは、二三日たってからのことだ。
その昔、編集業務に携わっていた者としては、当時の腕のほどが知られてお恥ずかしい限りだが、まあそれも今や年寄りになって、半分ヨイヨイに近づいてきたからでもあり、それを分かって書き続けるという、相変わらずの年寄りの執念深いいやらしさからでもあるのだ。
以上の記事すべては、昨日出すつもりのものであり、4月1日の日付とは何の関係もない、念のため。
つまり、私の人生そのものが、すべて”エイプリル・フール”のようなものだから、せめてここに書くことぐらいは、真実の片割れでもと・・・。
ただ確かに、今日は晴れて気分の良い一日ではありました。家でパソコンの前にいるのがもったいないような、はい・・・。