ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

春の初めに咲く山の花

2014-04-14 18:21:53 | Weblog
 

 4月14日 
 
 家の庭では、満開のウメの花が散り、満開のコブシの花が茶色く枯れてしまったけれど、それに代わって、ヤマザクラが咲き始めたかと思うと、この暖かさですぐに満開になり、さらに春に咲く花の今や主役になってしまった、シャクナゲの赤いツボミが大きくふくらみ始めている。
 青空の広がる快晴の日が、三日間も続いたのだ。
 
 前回も書いたように、本州の残雪豊かな山々では、ましてこの週末は天気も良かったようで、多くの登山者たちが、まさに雪の春山歩きを十分に堪能できたことだろう。
 なかなかこの時期に、遠征登山とまでの決心がつかない私としては、それでもぐうたらな心を励まして、近場の山でガマンするべく出かけたのだが。 
 久しぶりに登ろうと思ったのは、あの別府市街地の後ろに高くそびえ立つ鶴見岳である。
 標高は1375mだが、1800mにも満たない九州本土の山々の中では、もっと注目されてもよい高さの山である。

 ただし残念なことに、頂上近くまでロープウエイが架かっていて、その頂上へは舗装された遊歩道を数分歩けばいいだけなのだ。さらに頂上の周りには、3基ものテレビなどの電波中継塔が並び立っていて、高山の雰囲気をこわしている。
 何よりも、山には原始性や自然性が残されていることを第一とする私にとって、それらの建造物があることは、到底許しがたい人工的景観になるから、私の名山の選定からは第一に除外すべき山になる。

 しかし、前回にも書いたように、山は多方面の視点から見るべきであり、この鶴見岳へも、新緑やミヤマキリシマの咲く時期、さらに冬の霧氷や雪がある時期に、ロープウエイとは反対側から登り、鞍ヶ戸(くらがと)、内山などと結ぶ縦走路を歩けば、なかなかに味わい深い山であることに気づくことになる。
 そして展望的には、別府湾の海が眺められることはともかく、何よりも隣にでんとそびえ立つ由布岳を間近に眺められるし、九重や祖母傾山系を遠望できる楽しみもある。
 と言って私は、この山について多くを知っているわけではない。
 ロープウエイでは2度ほど上がっているが、登山道をたどっての頂上へは、これまでわずかに2回、冬と早春のころにしか登ったことがないからだ。
 
 さて、由布院方面から行くと、城島高原遊園地とロープウェイ駅との間にある大鳥居の上付近(標高約700m)に車を停めてから、出発することになる。
 杉並木の石段の参道を上がると、鶴見岳をご神体としてまつる、火男火売(ほのおほのめ)神社(通称、御嶽権現 おんたけごんげん)に着く。
 上の林道を通って車が来ていて、神主や掃除の人たちが立ち働いていた。これは、次の日曜日に、恒例の”鶴見岳一気登山”があるからとのことであった。
 (ちなみにこの一気登山は、別府の海岸から鶴見岳山頂までの1375mを一気に登ろうという催しであり、毎年大勢の参加者があり、普通には登り5,6時間ほどかかり帰りはロープウェイで降りてくるそうだが、頂上までの最短時間は何と1時間11分!だとか。今年は雨で中止とのこと。)

 その神社の横から、いよいよ正面登山道と呼ばれる山道になる。
 杉林の斜面を登ると、なだらかな傾斜地になって、木の根がはびこる道をゆるやかに上がって行く。
 その半日陰の中に、そこだけ明るくなった一角があった。
 高く並ぶ杉林と、まだ枯れ枝ばかりの雑木林の境に、一本だけ明るくいっぱいの花をつけた木があった。
 クロモジの花だ。(写真上)

 春浅き山の、下部の樹林帯で、いち早く点々とした小さい花をつける木々がある。
 たとえば、九重の沓掛山(くつかけやま)周辺でよく見かけたことのあるマンサクに、このクロモジがあるが、他にはダンコウバイやアブラチャン、シロモジなどの似たような花もあって、私にはそれらをいまだに十分には見分けられない。
 しかし、何と言ってもまだ周りが枯れ枝色の中、これらの黄色い花や、ヤナギの類の新緑の葉の色は、登山者たちにいち早い春のきざしを教えてくれるのだ。
 
 山腹をめぐる林道に出会い、さらにゆるやかに道をたどると、左に南平台(なんぺいだい)を経て西側から頂上へと向かう南登山道を分ける。
 その辺りで杉林は終わり、コナラやブナ、カエデなどの自然林に代わってくる。そして、山腹をゆるやかにジグザグを繰り返しながら登って行くと、いつしか木立がノリウツギなどの低木林になってきて、その間から由布岳の姿も見えてくる。
 枯れ草色のカヤの稜線に出て、展望が一気に開ける。
 上空には青空が広がっているのだが、春がすみのためか、別府湾からサルで有名な高崎山そして南に遠く九重がやっとわかるくらいに見えている。
 
 ロープウェイ駅から続くレンガ舗装道に出て、周りに電波中継塔を見ながら登ると、高い標識と奥宮の祠がある頂上に着く。北東側の展望が開けて別府の市街地と、別府湾が見えている。
 途中で、ロープウェイからの観光客3人に会っただけで、その静けさが、私にはありがたかった。
 確かに今の時期は、下のサクラは満開だが、山の上ではもう霧氷は見られないし、かといってツツジの時期には早すぎるし、観光客にとっては、天気のいい日の展望以外にあまり見どころのない時なのだ。

 それでも、今は誰もいない頂上だが、いつにぎやかにならないとも限らない。私はそのまま、北西に続く鶴見縦走路へと降りて行った。
 その所々で、小さなカヤの斜面に出て展望が開け、鞍ヶ戸(1344m)から内山(1275m)、硫黄山(1045m)へと続く鶴見山脈の連なりが見えるが、何よりも正面奥にでんとそびえる由布岳(1583m)の、存在感のある姿が素晴らしい。(写真)
 
  
 
 この枯草色のカヤの間には、ミヤマキリシマの株がいくつもあって、さぞや花時には美しいだろうと思われる。

 右下に、この鶴見岳の活火山のしるしでもある噴気孔の煙を見て、尾根をたどると鞍ヶ戸との鞍部に着く。
 このまま稜線をたどれば、鞍ヶ戸から内山を経て硫黄山への縦走路になるのだが、雪のある頃に一度往復したことがあり、途中の船底の鞍部への急な上り下りは標高差150mもあって、雪と泥で滑りやすく苦労したことを覚えている。
 しかし、今は年寄りの私だから、長い距離は避けて短い楽なコースを選ぶことにして、その縦走路から左(南側)にジグザグ道を下りて行くと、先で由布岳東登山口から来た道に出会うが、この道は左に曲がって南平台へと向かう道でもあり、冬の雪のある時期に由布岳を眺めるために何度も来たことがある。
 今回もその道をたどりゆるやかに登って、開けたカヤトのコブになっている南平台(1216m)に着く。
 
 ここはいい所だ。いつ来ても、誰にも会わないし、何より正面にひとり大きく鎮座する、由布岳の姿を眺められるのがいい。後ろには電波中継塔の並ぶ鶴見岳が見えている。
 腰を下ろして一休みする。遠くで、何とルリビタキの声が聞こえていた。
 思えば、初夏の北海道の山で、その山の斜面のあちこちから聞こえてくるこのルリビタキの声に、私はいつもさわやかな北海道の夏を感じたものだった。
 このルリビタキがいかに夏の渡り鳥とはいえ、まだ4月の初めなのに、彼はこれから北海道にまで行くのだろうか。
 私もまた。そんな渡り鳥の生活を繰り返しているのだが。
 別に巣作りをするためでもなく、ただ北海道にいたいという私のわがままだけで・・・。
 
 静かな一人だけの山歩きを続ける私だが、今日のこの鶴見岳への山歩きでは、それぞれ別な所で一人ずつに出会った。私と同じ世代のおじさんたちだった。
 それぞれにあいさつの言葉を交わしたが、そのまま互いにすれ違い、一人だけの道を歩き続けて行った。
 自分の前には自分の行く道があり、それをたどって行くだけなのだ。

 前回この鶴見岳に登ったのは、もう10年も前のちょうど今頃のことで、私はそのころ、一週間に一度、短い時には三日とあけずに、山に行っていた。母が亡くなった後だった。
 人気のない登山道を選んで歩き、あるいは家の周りの名前もない小さな沢を登り下りしていた。
 その所々には、ヤマザクラが咲いていた。誰に見られることもない、山の中の一本桜・・・。
 山から帰ってくると、家にはミャオが待っていた。
 ただ鳴き声でしか答えてくれないミャオだけど、ひとりになった私にはどれほどありがたい存在だったことか。
 しかし、そのミャオも2年前に、家のコタツの傍で眠るように息を引き取った。
 
 すべて何も悪くないし、何も間違ってはいない。ただ順送りに、二人とも私の目の前からいなくなっただけのことだ。
 そのうちに、私もこの世から、順送りの一人としていなくなるのだろうが、それまでは精いっぱい生きていくだけであり、そのことが、二人の死に際を見て私が教えられた最も大きなことだった。

 残された時間が多かろうが少なかろうが、今までどおりに日を送ればいいだけのことだ。
 もし一日を、ぐうたらに大したこともせずに、無為に送ったとしても、実はそれが自分の望んだ快適な一日だったと思えばいいだけの話だ。
 よく考えてみれば、誰でも、自分の人生に無駄な時間などなかったと分かるはずだ。
 同じことの繰り返しに費やした時は、学ぶために必要な時間であったし、失敗に終わったことは、すべて教訓として心に刻みつけるためのものであったのだから。

 自然の中から生まれてきた私たちは、また自然の中に戻って行くだけのことなのだ。小さな地球のゴミだったものが、またゴミに帰るだけのことだ。
 無窮(むきゅう)のかなたから、続いてきたかとも思える地球の歴史の中で、私たちが生きた時間など、小さな流れ星のまたたきにさえ値しないものなのだから、まして取るに足りない自分の身の回りのことで、何も世界の終わりのごとく悩み苦しむ必要などないのだ。
 大切なことは、できるだけ自分の心を静かにたもつことなのかもしれない。


「虚を致すこと極(きわ)まり、静を守ること篤(あつ)ければ、万物並び作(おこ)るも、吾を以て復(かえ)るを観る。

 それ物の芸芸(うんうん)たる。各々(おのおの)その根(こん)に復帰す。根に帰るを静といい、これを命に復(かえ)るという。・・・。
 
(心を完全に空っぽにし、しっかりと静寂を守っていれば、万物のすべてが盛んに生育していても、私にはそれが根に帰って行くさまが見える。

 草木は今を盛りと繁茂していても、やがてはそれぞれ根に帰っていくものである。地下の根に帰ることを静寂に入るといい、これを本来の姿に帰るという。・・・。)

 (『老子を読む』楠山春樹 PHP文庫より)

 私は腰を上げて、草原の頂きを後にして、鶴見岳との狭間になる鞍部へと下って行った。
 途中から杉やヒノキの林に入って行き、一部道が分かりづらいところもあったが、再び明るい枯れ枝の自然林の所に出てきて、そこからは所々にテープ印があり、道が間違っていなかったことに一安心する。
 林の奥から、甲高い木をたたく音、多分アオゲラのドラミングなのだろうが、姿は見えなかった。
 右下の、枯れた沢沿いには、ヤナギの新緑だけが点々と鮮やかだった。

 行きにたどった正面登山道に出て、あとは下って行くだけだったが、そのあたりからヒザが痛くなってきた。
 当然と言えば当然のことだ。前回登ったあの蔵王から、何と一か月以上、40日もの間が空いたことになるからだ。
 山登りを続けるのなら、少なくとも月に2回は山に行かなくてはならないのに、年を取れば余計のこと日々の訓練をしておくべきなのに、私がその間、長い坂道歩きの散歩をしたのは2回だけ、これじゃ当然、脚もヒザも痛むはずだわ。
 そして神社からの石段の下りは、もうマゾヒスティックな苦痛に耐えることであり、アヘアへと小さな叫び声をあげてのつらい行程だった。周りに人がいなかったからよかったものの。

 そんなほうほうのていで、私はようやく停めていたクルマのもとにたどり着いた。
 普通の人なら往復で4時間くらいしかかからない道を、5時間もかかっている。
 それは、こんな小さな山登りでさえ、100枚以上の写真を撮ったことと、やはり長い間山に登らなかったこと、さらに合わせてぐうたらなじじいになったせいでもあるだろう。
 
 それでも、こんないい天気の日に家に帰るにはまだ早すぎる。
 期待していたヤマザクラには出会わなかったし、それならば近くのサクラの名所へと行ってみることにした。

 別府・志高湖(しだかこ)の水辺に植えられたソメイヨシノの花は、ちょうど満開になっていた。
 クルマでいっぱいの駐車場の片隅に何とか停めて、花見のシートを広げた人々の間を通って、痛む足を少し引きずりながら湖畔へと歩いて行った。
 水面に花びらが、二三枚、その向こうに桜並木が続き、かなたには由布岳と鶴見岳が並んでいる。(写真)

  

 それは、まさしく私の好きな絵葉書写真の一枚だった。
 こうした私の好きな風景を、死ぬまでに幾つ見られることだろう・・・。 

 皇居内の桜を見るために一部が解放されて、2,3時間待ちの行列をものともせず、5日間で38万人もの人がつめかけたとか・・・。
 その満開の桜を見ることができた一人の男の人が、満面の笑顔でインタビューに答えていた。「死ぬまでには、一度は見ておきたいと思って、もうただ感激です。」
 
 東京ディズニーランドが開演30年で、入場者が6億人に達したとか。一日平均で6万人という数字は、日本の小さな地方都市の人口にもなり、日本の人口の5倍にもなる人たちが、行ったことになるのだ・・・。

 私は、人が群がり集まるところへは余り行きたくはない。
 私は、おそらく死ぬまでに、皇居の桜を見ることはないだろうし、ディズニーランドも知らずに一生を終えることになるだろう。

 それよりも、行きたいところがある。
 まだまだ知らない日本の山々に登りたいし、その新緑のころや、花々が咲いているころに、そして紅葉が盛りのころや雪に覆われたころの山々を見てみたいのだ。
 あのヒマラヤの山々にも一度は行きたいのだが、ガイド付きの大勢の他人とのツアーなど私にはとても考えられないことだし、ただ若いころに行ったスイス・アルプスならば一人でも行けないことはないのだが、国内の遠征登山でさえ気合をかけてやっとのことで出かけているのに、まして外国旅行の準備手続きなどを考えると、ついおっくうになってしまうのだ。

 若いころには、夢でいっぱいにふくらんで張りつめていた風船も、今やすっかりしぼんで手の中に納まるくらいになってしまったが、過去の思い出を含めればそれだけでも十分すぎるほどなのだ。
 それだから、これからも日本国内の山に行くだけだとしても、私は十分に満足することができるだろう。
 思い返せば、この冬の蔵王(3月3日、10日の項参照)、去年の夏の黒部五郎(8月23日の項参照)・・・いずれも、最大のほめ言葉をもって讃(たた)えたいほどの、私の思い出に残る、かけがえのない絵葉書写真の一枚ずつになったのだから。

 そしてまだまだ、私を満足させる山々の景色が日本にはあるはずだ。
 もちろん、それらの山々のすべてに登ることなどできないだろうし、そうして途中で私の命が尽きたとしても、それはそれで仕方のないことだし、今までの素晴らしい山々の思い出を胸に、この世に別れを告げればいいだけのことだ。

 あの芭蕉(ばしょう)の辞世の句のように、「旅に病んで、夢は枯野をかけ廻る」・・・。