4月21日
晴れて暖かい日が続いた後、雨の日に変わって少し肌寒くになってきた。
適度な日の光と、適度な水分。当たり前のことなのだろうが、なるほどこうして植物たちは成長していくのだと思う。
寒さが続けばなかなか花は開かないし、花が開いても寒さにやられてしおれてしまうこともあるし、強い風で吹き飛ばされてしまうこともある。
その後日照りが続いたり、あるいは逆に水浸しの日が続いたりすれば、もちろんのこと、枝葉の繁りや実の付き具合が悪くなってしまう。
それぞれに持って生まれた、その木々の性向やくせがあるとしても・・・。
家の庭の花も、この晩冬から早春、春たけなわの今にかけて様々が花が咲いて、私の目を楽しませてくれた。
木の花だけでも、サザンカ、ジンチョウゲ、ウメ、コブシ、サクラなどがあり、そして最大の華やかな見ものになるのがシャクナゲである。
毎年、このブログでも取り上げたくなるほどの(’13,4.14の項参照)、待ちに待った開花なのだ。
冬の間、まだ小さな固いツボミだったものが 、春の日差しを受けて次第に大きくふくらんでいき、ある日そのツボミが割れて、包まれたままの赤い花びらが顔をのぞかせると、もう開くのは、あと一押しの暖かい日の光だけだ。(写真上、4月10日時点)
そして、二日後には咲き始め、一週間後には一気に五分咲きほどになり(写真下)、今日は雨の中だが、もう八分程の花が開いている。
若いころには、花なんぞには大した興味もなく、ああ咲いているなぐらいにしか思わなかったのだが、一つには、山の上での高山植物を見たり写真に撮ったりしているうちに、さらには年を取ってきて、同じ命ある生き物だと分かってきてから、今まで以上にその生育過程などが気になって注意して見るようになってきたのだ。
まあ人間とはわがままなもので、いつも自分の生育、年齢に合わせてしか周りのものを見られないのだ。
若いころには、周りの若者たちの行動だけが見比べる基準になるし、やがて家庭を持てばそうした生活を維持する大人の人間たちが基準になり、年を取れば同年輩の健康・病気だけが関心事となる。
もっともそれらのどれ一つとして、自分と同じ事例などないのだが。
時と環境と、彼らのその時その時での決断だけで、様々な違いが生まれ、いつしかそれは自分だけのスタイルやり方になって、性格・クセとして形づくられていく。
そして、それらが良くも悪くも自分の個性になっていくのだろう。
その点で言えば木々も同じことだ。
もともと持っていた遺伝子を受け継いでの、その木の性質が、さらに周りの環境によって、様々に変化して、今ある木の形になっているのだ。
このシャクナゲについて言えば、実はこの木は家の庭の環境に一番合っているのではないのかと思われるからだ。
植えてから12,3年にもなる、ツクシシャクナゲの園芸種なのだが、いまでは2mを超すほどの高さにもなったし、ともかく大ぶりな花を枝先いっぱいに咲かせて、毎年花の数が増えていくばかりなのだ。
家の庭は、わずかに勾配のある山すそ斜面にあるのだが、全体にやせた土地で 土は火山性の粘土状のものであり、昔からあったヤマザクラなどは、それほど大きくはならなくても、それなりに土地になじんで毎年いっぱいの花を咲かせてくれるのだが、 今までに植えたことのあるスオウやヤエザクラなどは、いつの間にか枯れてしまった。
それなのに、シャクナゲは酸性土のこの土地にうまく合ったのだろう。今では家の庭木の中では、一番華やかな見ものになってくれたのだ。
シャクナゲという木は、日陰に強いと言われているが、確かに家には他にも二三本あり、そこでは他の木が大きくなって、日当たりが悪くなったりしてるのだが、それでも何とか日の当たるほうへと、枝葉を伸ばして、そこで幾つかの花をつけている。
しかし、いつまでも、それぞれの木が伸びるままにしておくわけにはいかない。私は、この土地にあったこのシャクナゲを大きくするべく、他の木々を切る決心をしなければならないのだが、それらの木には申し訳ない気もするし・・・。
そうした私の優柔不断さが、家の庭をまとまりのないものにさせてしまったのだ。
考えてみれば、植物たちに対する憐みの思いと、ともかくものが多ければよいという、貧乏根性が抜け切れないのは、おそらくは母の性癖からきているものなのだろう。
母は、初めのうちは芝生の庭の雑草をていねいに取っていたのだが、すぐにこれはハルリンドウの芽だから、スミレの葉だから、秋にクサモミジになるからと、いろんな野草の草花を残したものだから、芝生の庭はあっという間に雑草だらけになってしまった。
最初は、ひどい庭になったものだと思っていたが、そのうちこの雑草だらけの庭もまた一興あるのかなと思うようになってきたのだ。
確かに小さなハルリンドウの花はいじらしいし、キクザキスミレはこの地方特有のものだし、オキナグサも絶滅危惧種の一つだしと、むしろそれらを生かして楽しみに眺め、雑草は主にタンポポ、ニガナの類を引き抜くだけにしたのだ。
いつの間にか私は、母の野の花への思いと、草取りのクセを受け継いでいたのだ。
人は、親の性格的なものを遺伝的に受け継いでいるというけれども、それは医学的に証明されるものというよりは、長い間一緒に暮らすうちに、次第に影響され受け継がれるものではないのかと、つまりはその家族のクセではないのかと思っているのだが。
生まれた時からずっとそばにいて、一緒に生活してきた子供が、親に似るのは当たり前のことかもしれないが、それは血縁としてのDNAによるのではなく、いわゆる動物の”刷り込み” 現象と似たような、親と同一行動をとることによる、行為の受け継ぎなのではないのだろうか。
考えてみれば、私が母から受け継いだ性格的なものは、幾つか思い当たるふしもあるが、またそうではないものも数多くある。
それは人間の間だけではない。動物との間にだって、あることだ。
飼っているイヌやネコの性格が飼い主に似ているとか、またその逆に飼い主の顔つきがそのイヌやネコ似てくるとか、よく言われていることだ。
ともかくも、一筋縄ではいかない人間の性格やクセは、”なくて七くせ、あって四十八くせ”と言われるほどに様々なものなのだ。
それを一つ一つたどって行けば、実に興味深く、それぞれに精神分析学的な研究の対象となりうるし、またそこから芸術的なあるいは科学的なひらめきが生まれてくる、源泉ともなりうるのだ。
しかし、注意してみれば誰にでもある、その人だけの変わった性格やクセは、口さがない人々から見れば、格好の揶揄(やゆ)の対象となるのだ。
そのあたりの観察力が、あの”笑っていいとも!”でのタモリは見事なものだった。
お笑いの流れに乗せて、軽くからかうさまはまるで、年寄り子供の喜ぶさまと同じだった。
(『笑っていいとも!』が終わったおかげで、昼休みにはニュースと『徹子の部屋』でも見て、30分で切り上げることができるようになった。ここでは大英断を下したテレビ局に感謝すべきだろう。)
そこで思い出したのが、あの江戸時代後期に大阪で活躍した上田秋成(1734~1809)である。
いうまでもなく、彼は日本怪奇幻想文学の祖とでも呼ばれるべき人であり、名作『雨月物語』や『春雨物語』などの浮世草子・読本作家でもあるが、一方で 本居宣長との論争でも有名な国学者であり、様々な趣味人でもあった。
彼は他にも風刺のきいた随筆・草紙などを数多く書いていて、その中の一冊に『癇癖談』(かんぺきだん) があるが、その巻頭の文で彼自身が、これを”くせものがたり”と呼んでも構わないと書いているが、この”くせものがたり”が”いせものがたり(伊勢物語)”をパロディー化したものであることはあきらかである。
もちろん、これは彼が愛すべき古典『伊勢物語』をよく研究し、傾倒するあまり、その形式を借りて、言葉遊びを入れて、世の中のえせ文化人・通人たちを痛烈に批判した随筆集になっているのだ。
その限りで言えば、またこれは、あの中世の優れた隠者文学・随筆集である、『方丈記』や『徒然草』の風刺 にも通じるところがある。
彼自身が、鴨長明や吉田兼好と同じように、晩年、山里に隠棲(いんせい)していたことからも、その考え方がうかがえるのだが、さらに彼は、そんな自分自身の姿さえも、皮肉を込めて書き綴っているのだ。
「・・・作者はたれともしるさざれど、伝えていふは、在郷の中将とかや。
さだめて、田舎道場の新発意(しんぼち)どのが、やつし腹して、才まぐるものか。文辞(ことば)の京めかせると、故事を雅俗を摘みきたれるとを、これやそれと闇(めくら)のつぶての、当粋(あてずい)なかしら書して、おのが洒落社中(しゃれなかま)にひけらかさむとす。・・・」
これを、自分なりに訳してみれば、「・・・作者は誰とも書いていないけれども、伝え聞くところによれば、田舎に住む位のある人とのことだ(『伊勢物語』の作者、在五中将在原業平 をもじって)。
いやきっと、田舎のお寺の説教の場で語るような、新米の坊主が、洒落っ気を出して、自分の才気をひけらかしたものだろう。
言葉づかいを都風にして、昔から言い伝えられていることなどを、雅(みやび)な言葉や卑俗な言葉におきかえて、 めくらめっぽうに粋がって書き散らかし、洒落の分かる自分の仲間たちにひけらかそうとしたのだ。・・・」
それから、『伊勢物語』の始まりと同じように、『むかし、をとこありけり。・・・』から始めて、当時の”好きものたち”(好事家)の、それぞれの理にかなわないおかしげなる様を風刺していったのだ。
そして最後には、自分のことさえも皮肉って書いていく。
「むかし、深草の里に、世を倦(うむ)じてや住家をもとめて、かくれたる人ありける。・・・」
その物思いにふける、作者の小さな庵の窓辺に、一羽のウグイスとコマドリがやってきて、この屋の主は一体何をしているのだろうかと、さえずり話し合うのだが、最後にコマドリが言うには・・・。
「このあるじが輩(やから)は、これおこなふ事あたはぬものなり。にごるといへば、悪(にく)むべきを、ただ世のありさまと見ば、ことごとしくいむべきにもあらず。
・・・世にすたれたるあそびも、ひろふ神のまもりはありけるものを、それこれのたがいをいはで、世に押し売りつつ、見きかむには、いかりもうらみもあるまじきことならずや。
それをたがえるものにうちなげくは、我がしこのこころのおごりなり。
淡きをくらひ、薄きを着るとも、あたへばかさねん、おくらばくらはん。
驕(おご)らずというにはあらで、まずしきがなす、身のおこないぞ」とて、駒王のからからとわらへば・・・。
(この屋の主人のような人は、自分も濁ってまでは世の中の人とは付き合えないのだ。ただ、憎むべき世の中だと言って、すべてのことを忌(い)み嫌うべきではない。
・・・今の世の中ではすたれた和歌や管弦、芸能などでも、”捨てる神あれば拾う神あり”で、どこかでおこなわれているものもあって、そういった世の中の移り変わりがあることを 見聞きすれば、そうむやみに腹立たしく思ったりすることもなくなるのではないか。
それを、あれこれ指摘して文句言うのは、その人の心のおごりなのだ。
食べ物は質素に、着るものは薄着でガマンしていても、もしおいしいものがあれば喜んで食べるだろうし、温かい着物があれば喜んで重ね着するだろう。
だから、質素で高潔な生き方をしていると言ったところで、結局は自分が貧しい暮らしをしているだけのことではないのか」と、コマドリは”ヒンカララララー”と笑ったのだ。)
(以上「新潮日本古典集成」より 『雨月物語・癇癖談』 浅野三平 校注 新潮社)
まさしく、”もって、銘すべし”と、自らを省みるにふさわしい一節ではある。
この上田秋成については、その名作『雨月物語』 についてだけでなく、あの泉鏡花に与えた影響や、晩年の随筆集『胆大小心集』や岡本かの子の『上田秋成の晩年』など(いずれも青空文庫で読むことができる)と併せて、いつかじっくりと書いてみたいものだ。
この三日ほどは曇りや雨の肌寒い天気が続いているのだが、その前に、天気のいい日に、裏山のほうへ往復一時間余りの坂道歩きをしてきた。勾配のある道を登って行くと、やはり息継ぎがきつくなり、脚も疲れてくるのだが、その一方で心と体は喜んでいるのだ。
青空の下、シダレザクラの向こうに、そのサクラ以上に、新緑の彩(いろどり)の木々が鮮やかだった。(写真下)
春はいいよなー、春は・・・。