5月7日
ミャオ、もうひとりで過ごすことに慣れただろうか。ベランダで横になりながら、毎日を暮らしているオマエのことを思うと、やはりつらい気持ちになる。
甘えることができるのは、エサをやりにきてくれるおじさんだけだ。その他に、時たま家に来る人もあるだろうが、オマエはそのたびごとに私が帰ってきたのではないかと身を起こし、ニャーと鳴いているのかもしれない。
オマエは、指の曲がらない肉球をじっと見ては、考えているのだろう。一つ二つ・・・六つ・・・、後は数えられないくらいに、たくさんの日が過ぎて行った気がすると。
私の心は、いつもオマエとともにある。しばらくは、辛抱して待っていておくれ、私が戻るその日まで。
私は、昨日ようやく山に登ってきた。こちらに戻ってからも、毎日、山登りには向かない天気の日が続いていた。
ただ1日だけ、朝のうちに恐ろしく晴れ上がって、白雪の日高山脈の山々が、ずらりと立ち並んでいた。それは、もう眺めるだけでも十分に満足できるほどの、目に鮮やかな光景だったのだが、残念ながら山に行くことのできる天気ではなかった。
いくら晴れていても、天気図では気圧の等高線が混んだ状態で、低気圧が過ぎ去る時だったのだ。案の定、外にも出られないくらいの風が吹き荒れていて、山の上ではと想像するだに恐ろしいほどだった。
いつも一人で山に行く私が、自らに言い聞かせているのは、穏やかに晴れた日、それも高気圧が真上にあるような、快晴の天気の時が望ましいということだ。
それは、山々の展望を楽しむためであり、もちろん遭難しないためでもある。天気が良ければ、風雨の日と比べて体力も消耗(しょうもう)しないし、道迷いなどをすることも少ない。
たとえ他の人たちと一緒に、あるいは大勢の人とのパーティーを組んで出かけたとしても、最近の遭難事件の例のように、たった一人のリーダーの間違った判断のために、大量の遭難者を出すことになる。
それは、単独行の時の一人だけではすまない、事件性を帯びた多くの悲劇を生み、多くの迷惑をかけることになるのだ。
しかし、それでも単独であることは、確かに危険を伴う。例えば、山中で急病に陥った場合、どうするのか。まして私のように、人と会わないために、誰も行かないような山にばかり登っていては・・・。
もちろん、その時は必死になって、這いつくばってでも山を降りようとするだろうが、それも到底不可能だと分かれば、答えは一つしかない。これを限りと、あきらめることだ。
つまり、自然の中で生きること死ぬことの、ごく当たり前の、生き物の一人としての事実を、受け入れるしかないのだ。
それは例えば、あの松濤明(まつなみあきら)の遺稿集『風雪のビバーク』に記された、涙を誘うほどの最後の言葉を思い浮かべるかもしれないが、私にはそれほどに執着するものはない。
ただ、前にも書いたことのある、良寛和尚(りょうかんおしょう)の言葉、『死ぬ時節には死ぬがよく候(そうろう)』を思い出すだけだ。
もっとも、実際に死に臨めば、そう無欲恬淡(てんたん)とした気持ちではいられないのだろうが・・・。
もちろん、私は、いつもそうした死を前提としての山登りについて、考えているわけではない。ただ、自然の静寂の中で、なるべく快適かつ安全な山登りを続けられれば、それにこしたことはない。
それはまた、静けさという枠をはずしさえすれば、年寄りになってからも、ほんの数分歩いて登れるような山が、日本にはいくらでもあるということだ。つまり、他の観光客と伴にクルマやリフト、ロープウェイに乗って、おとなしく皆の後をついて行けばよい。
そして静けさは、近くの丘や林の中を歩く時にとっておけばいいのだ。
つまり、ここで、あえて大上段に振り構えて言う必要もないだろうが、自然の中にいること、それこそが、私にとっての生きていることの、最も大きな意義なのだ。
その自然の中で、私はひとつの生き物になって、山に登る。
それは、ミャオが、野山を歩き回る時にこそ、生き生きとしているように・・・。
ところで、私は毎日、日の出の頃には目を覚ますのだが、今朝は、昨日の山の支度をする時に忘れていたものに気づいて、そのために時間をとられ、さらに天気予報の確認のためにと(高気圧が去ってしまい、夕方には曇るとの予報で)、出発するのが遅くなってしまった。
クルマで家を出てから、ずっと十勝平野は霧と低い雲の中にあった。しかし、ネットで見た気象衛星の赤外写真では、北海道全部が晴れ渡り、中心部の大雪山から日高山脈にかけての形のままに、白い連なりが写っていた。つまりこの雲の上に、雪の山々が浮かんでいるはずなのだ。
そして、天馬街道の道が山間に入る頃から、少しずつ晴れてきて、野塚トンネル傍の駐車場に着く頃には、もう上空には青空だけが広がっていた。さすがに連休期間だけあって、他にも3台のクルマが停まっている。
すぐにプラスティック・ブーツにはき替え、ザックを背にして歩き出す。
一時このプラスティック・ブーツは、経年変化の劣化によって、登山中に割れてしまうことがあり、大きな問題となり、近年では、新しい防水皮革ブーツだけになりつつあるようだ。
しかし、私は、そう頻繁(ひんぱん)には使わないこともあって、10数年前に買ったものと、さらに2年前にも別な一足を買い足して、使っている。
雪以外のところでは歩きにくいが、なんといってもその防水性能が捨てがたいのだ。
新しい方は、一昨年のカムイ岳(’09.5.17~21の項)でも使ったのだが、二日行程くらいでは靴下までぬれることはなかった。古い方は、日帰りだけで少し水がしみこんでくるが、足なれていて歩きやすいし、その二足を山に応じて使い分けている。
さて、道路を少し戻って、橋を渡りきった所まで行く。防雪柵があり、その傍はネットの張られた土留め工事跡の斜面である。斜面の角度が70度近くもあり、一応、工事用のロープが下がっている。
去年はすべて雪の斜面だったのだが、今年は雪が少なく地肌が出ている。前回はそこからアイゼンをつけて登ったのだが、今回は、面倒で靴のままその壁をよじ登ろうとした。
上のササ斜面を含めて、わずか5mほどの高さだが、途中でずるりと靴が滑った。下は、橋のたもとからそのまま、20mほど下の谷にまで落ち込んでいる。私は必死でササをつかんで、事なきを得た。
何もアイゼンは、雪や氷のために使うだけではない。ここはアイゼンをつけて登るべきだったのだ。
このコースでは、この登り口だけが危険なだけで、後は問題になるところはないだけに、私の不注意だった。
今回、私が目指すのは、去年、天気が悪くなり途中までで戻った1225mピークである。(’10.4.28の項)
野塚岳(1353m)の北尾根が、冬尾根として登られる1147m分岐からさらに北に向かい、1151m点から東に向かった先にある、1225mピークである。つまり野塚岳から長々と伸びる北尾根の中で、もっと高い頂なのだ。
そこからの南日高の山々の眺めに、私は長い間憧れていた。去年失敗して、今年こそはどうしても行きたいと思っていたのだ。
さて、登り口で少しヒヤリとしたが、その後は低いササから雪の急斜面になり、アイゼンをつけて登って行く。
1151m点に至るこの西尾根は、北側に豊富な雪が残っていて、古い雪の上に、まだ新しいあの二日前の雪(私の家の周りでも2cmほど積もった)が数センチほど積もっていて、見た目もきれいだし、程よく固まっていて歩きやすかった。
しかし何といっても、そこは急峻な日高の山の斜面だ。息が切れて、何度も立ち止まる。振り返るとダケカンバの樹々の間、青空の下に、白雪のトヨニ岳(1493m)が見え、右手には、国境稜線から野塚岳への白い山なみが連なっていた。
やがてこの西尾根の分岐に出ると、そこからは明るく開けて、1151m点へと長い雪堤(せきてい)が続いている。これら北国の山々に、夏の初めのころまで残る、残雪の雪堤こそ、私の最も好きな道だ。
ここには全く人の足跡もないし、まして獣たちの足跡さえもなかった。青空が広がり風もなく、長袖のシャツだけで十分だった。
私はストックを手に、ゆるやかな雪堤の上を一歩一歩と登って行った。後にはトヨニ岳の姿が大きかった。(写真上)
そして、下から2時間半くらいかかって、去年と同じ丸い雪の丘の1151m点にたどり着く。待望のその眺めは。
しかし、またしても残念なことに、途中から気になっていた、西側の日高側から吹き上がってきた海霧の雲が、もう山々を隠そうとしていた。他はすべて青空が広がっているというのに。
それでもかろうじて、野塚岳、オムシャヌプリ(1379m)、十勝岳(1457m)の姿が見えていたが、あの楽古岳(1472m)は雲に隠れていた。(写真下)
ただ、天気が悪いわけではないし、ともかく目的の1225mピークまでは行こうと思った。そこからは、今度は南側に雪堤ができていたが、しっかりしていて歩きやすかった。
それにしても暖かく、雪もゆるんできていて、アイゼンに雪が団子状につきやすく、ストックで叩き落しながら歩いて行く。
こんな雪道では、アイゼンはいらないのだが、取り外しまたつけなおすのも面倒で、そのままにして歩いた。
この展望の良い、余り高低差もなく伸びやかに続く雪堤の道を、ひとりっきりで歩いて行くのは気分が良かった。
ただ残念なのは、右手に立ち並んでいるはずの南日高の山々が、もうすっかり雲に被われてしまったことだ。今は、かろうじて南端の山の、広尾岳(1230m)とピロロ岳(1269m)が見えているだけだった。
1時間ほどで、ハイマツが少し雪の上に出ている1225mピークに着いた。
南側には、さらに余り高低差のない雪堤が続いていて、その先にあるのが、この野塚岳北尾根の最南端の山、三角点のある1193mピークである。あの山まで行けば、今見えている中部から北日高の山々が、さらによく見えるのだろうが。
そして、再び1151点に引き返すと、今まで山々の上に大きな波のように押し寄せていた雲が低くなり、何とあの秀麗な三角錐の頂を見せて、楽古岳の姿が浮かんでいた。
さらにしばらく待っていると、、やがて十勝岳、そしてオムシャヌプリから野塚岳と見えてきた。良かった、これで私の望みの半ばはかなえられたのだ。
とは言っても、いつの日かもう一度、これら南日高の山々がくっきりと見える日に来なければとも思った。
私は、途中の尾根歩きからの山々の姿をまだ見たくて、南側の野塚岳冬尾根分岐へと続く雪堤を下って行った。
そして登り返して、1時間ほどで1147点に着いた。そこには、野塚岳を往復したのだろう、登山者たちの足跡が残っていた。しかし、もう山々は雲に隠れてしまっていた。
後は、雪が少なくてササが出ているその冬尾根を下り、最後に雪の大斜面を尻セード(お尻すべり)などですべり降り、トンネル上に出て、駐車場に着いた。
今回は、またしても天気が今ひとつで、私の望む山登りには少し物足りなかったが、ともかく久しぶりの雪の日高の山歩きで、まずは楽しむことができた。往復、7時間ほどでバテバテになるほどでもなく、適度な雪山ハイクだった。
と言いつつ、今日、私の脚のふくらはぎは筋肉痛で痛いのだ。ああこのくらいの山登りで、情けなや。
しかし、美しい山々の姿を求めての、私の登山行脚(あんぎゃ)の旅は、まだまだ続くのだろう。いつの日か、年寄りになってしまい、もし病の床に伏せるようなことになっても、私は山への憧れを失うことはないだろう。
『旅に病(や)み 夢は荒野を かけめぐり』、という有名な芭蕉(ばしょう)の辞世(じせい)の一句が思い出される。