5月13日
拝啓 ミャオ様
昨日、一昨日、さらに数日前にも、素晴らしく晴れた日があったのに、私は山に行かなかった。
前回にも書いていたように、私は、いつも晴天登山をしている。そんな、ゼイタクな選択ができるのに、山に登らなかったのだ。
それは一つには、前回の登山から間が開いてなくて、脚にはまだ筋肉痛の余韻(よいん)があったからだ、というよりは、年ごとに、ぐうたらになってきたといったほうが良いだろう。
たった一人でこの家を建てた時の、今にして思う、あの連日の猛烈な労働。そして家ができて、さて目指す山々に登れると、日をおかずに山登りにのめりこんだ日々。あれから、何年もの月日が過ぎてしまった。
その後、私は、何一つの進歩もないまま、いたずらに哀しく馬齢(ばれい)を重ねてきただけだ。そして、思えば、今までに数々の別れがあり、さらに、ただひとり私に残されたミャオでさえ、遠く離れた所に置いてきているのだ。
いささかの寂寞(せきばく)感にさいなまれることがあるとしても、それは自業自得(じごうじとく)、因果応報(いんがおうほう)であり、またこれほど私にふさわしい言葉もないだろう。
神様はよくしたもので、いつも幸せと不幸せの配分を、相半ばするように考えてくださる。ただ私たちが、その配分に、これは幸せなことだ不幸せなことだと、気づいていないだけのことだ。
私は、ともかくそんな天気の良い日に山に行かなかった自分を、情けなく思い、しばらくは落ち込んだ気分になってしまう。
しかし、こんなに明るく太陽の光が溢れている時に、ウダウダ考えて家に居ても、返って哀しくなってしまうだけだ。じじむさいオヤジよ、テレビや書を捨て外に出よ、という声が聞こえる。
そうだ、いつもの裏山に行こう。私は身支度をして、ポケットにビニール袋とハサミを入れ、肩にはカメラを下げ、手には刈り払い用の長鎌を持って、家を出る。畑やカラマツ林の傍を通って、広い牧草地に出る。
私の目の前には、私がこの地を選んだ理由の一つでもある、北海道らしい雄大な風景が広がっている。青空の下の日高山脈である。(写真は、左のペテガリ岳から右の1826m峰まで。)
この百数十キロにわたって連なる、日高山脈の山々の眺めこそが、山岳眺望(ちょうぼう)マニアである私にとっての、最大の楽しみなのだ。
それは、例えて言えば、宝塚歌劇団の星組が舞台にずらりと並んだ姿とか、あるいは今をときめくAKB48のカワイコちゃんたちが、ステージに並んで歌い踊る姿のようなものなのだろうか。
いや私にとっては、たいした興味もないそれらの舞台よりは、広大な青空の下に、それぞれの個性ある姿を際立たせて、そびえ連なるこれらの山々の方が、どれほど魅力的なことか。あーたまらん。
ゆっくりと山々を眺めて、写真を撮った後、次の目的地へと向かう。ヒグマに遭わないようにと、時々口笛を吹き、掛け声をかけて、藪の中や沢沿いをたどって行く。
ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)の花が咲き乱れいて(写真下)、その端のいくつかをハサミで切り取り、さらに所々に小さく群がっているアイヌネギ(ギョウジャニンニク)を見つけては、そのいくつかだけを切り取っていく。
こうして袋がいっぱいになり、私は満足して家に戻る。それは小さな山登りほどの時間と体力もいる。
さらに、これが一番イヤな所なのだが、家に入る前に、玄関の所でダニ検査をしなければならない。
これから夏にかけてが、最もダニの動き回る頃なのだ。彼らは、ササの葉や小枝の先に止まっていて、人やヒグマ、エゾシカ、キタキツネが通りかかれば、さっとその体に乗り移る。
そして少しずつ、その体の中を這い回り、ベストな場所で、かにバサミのように前足を肉身に食い込ませる。これで、もうその体から離れることはなくなる。後は吸血管をその体に差し込んで、もとの体の何倍にもなるまで血を吸い続けるだけだ。
やがて、小豆(あずき)ほどの大きさになった体は、自然に離れ落ちて、地面を這いながら産卵場所を探して卵を産む、そして卵からかえった成虫は、再びササや小枝に這い上がって、生き物が通るのを待つのだ。
そのダニが、服について動き回っているだけなら、すぐにつぶしてしまえばいいのだが、体についてしまうと厄介(やっかい)だ。特に、頭につくと、それから数日はもぞもぞと髪の毛の間を這い回る。
風呂に入ろうが、頭を洗おうが、そんなことくらいでは取れない。私は、余りの不快さに、脱毛症になることを覚悟して、ハエ取りスプレーをかけたり、掃除機のホースを頭に当ててみたりもした。
それでも、取れないのだ。今も、少し体がかゆいし、一匹、どうも体のどこかにいる気がするのだが・・・。
というわけで、いつも物事には、いいことがあればまた何がしかの悪いことがあることを、日々思い知らされているのだ。
ベストの日に山に登ろうとしても、その日を自由に選べるとしても、なかなか、事はそういつも思い通りに行くとは限らない。
そして、その単純な法則を学び知る頃には、私たちは、すでに、冒険や挑戦、変革へと踏み出す元気を、少しずつ失ってきており、しかし代わりに、静穏さを愛し、日々慣れ親しんだものに執着することになるのだ。
それは、若い時だけが素晴らしいということではなく、まして年を取り中高年になるほどに、良くなってくるというわけでもない。いくら、年とともに、物事が見えてくるようになるとしてもだ。
いつの時代にも、気づく気づかないはともかくとして、幸不幸は等しく相半ばしてあり、私たちは誰しも、そんな日々を生きているのだ。
数日前にあった、NHKスペシャル『大津波』(番組時間が短すぎた)での、生と死を分けた一瞬の判断、それは当然、生き残った人たちからだけの話であり、死者たちから聞くすべもないのだが、そこではどうしても、運や運命という言葉を持ち出して考えてみたくもなる。
さらに昨日、あらた若い命を自ら断った、あるタレントの娘のことが報じられていた。
死はいつも、生者の側だけから語られる。確かに、すべての死は、残された生者にとっての悲しみであるのだろうが、しかし、また同じように、すべての死者にとっての悲しみでもあるのだろうかと、ふと思う時があるのだ。
前回にも、この生と死のことについて少し触れたのだが、私は何も、死者たちを不遜(ふそん)に、事実として冷たく、取り扱っているわけではない。
むしろ、前にも書いたように、身近な母の死の衝撃を、ただ一人で受け止めながら過ごした日々が、いかにつらいものであったかを経験しているだけに、残された人々の悲しみについても、幾らかは理解しているつもりである。
そして、誰にでもいつかは訪れる死のために、つまり自らに返る心構えとして、彼らの生と死について考えてみたのだ。
生き残った人々が同じように言っていたのは、その災害のさなかに、「ああ、これでダメだ。死んでいくのだなあ。」と思ったという言葉であり、それでも一縷(いちる)の望みを捨てずに、生きようとする必死の行動をとったのだ・・・。
私は子供の頃に、川でおぼれて死にかかったことがあり、今になっても、その時のことをまざまざと憶えている。
必死になって、水の中でもがき苦しみ、私はこれで死ぬのだと思った。走馬灯のように、短い人生の思い出が駆け巡っていき、そして私は助け上げられた。
それと相反するように、まだ人生の何たるかも十分に理解しないまま、(しかし彼女としては、もうそれまでの人生で十分だったのかもしれないが)、自ら死を選んで実行した、その意思の源を考えてもみた。
私が高校生の頃、同じクラスの私の後の席にいた友達が自殺した。それは、今でも余り書きたくはないつらい思い出であるが・・・。
ともかく、それらの出来事は、いずれも生と死についての重たい、余りにも重たい言葉であり、行動であったのだ。
今日は、未明からの雨が、とうとう一日中降り続いていた。その雨の中、さらに夕方の闇が深まる中、裏の林で、一羽のアカハラが鳴いていた。
アカハラはヒタキ科のツグミの仲間で、その赤褐色の腹の色から名づけられたのだろうが、同じ仲間のクロツグミのように、いつも周囲によく通るような声で鳴いている。キョロン、キョロン、ツルリ。
毎年その鳴き声を聞いては、夏鳥がやってくる季節になったのだと思う。
さらに今日は、昼間、窓辺へ目をやった時に、まだ枯れた色が多い林の中に、ありえないほどに鮮やかな、コバルトブルーの色が目についた。
コルリだった。まだ移動の途中なのだろうか、さえずり鳴くこともなく、枝から地面へと往復しては、しばらくの間、私の目を楽しませてくれた。
今日は、ストーヴで薪(まき)を燃やさなければならないほどの、寒い一日で、気温も6度くらいまでしか上がらなかった。それでも、春は日一日、はっきりと進んできている。
さわやかな青空が広がった昨日、家のエゾムラサキツツジは満開になり、庭のシバザクラやチューリップが咲き始め、エゾヤマザクラも二三輪開いて、私の家での開花宣言の日だった。
すべて、何事も変わることなく、毎年繰り返していくのだ、芽を出し、花を咲かせ、さえずり鳴いては・・・。
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