ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(138)

2011-05-28 21:21:48 | Weblog



5月28日

 拝啓 ミャオ様

 前回、南日高の山に登って(5月7日の項)から、もう3週間も間が開いてしまった。登ろうと思っていた日高の山も、ただでさえ雪が少ない上に、暖かい日が続いて、大分雪が溶けてしまい、ヤブ尾根をたどることはできなくなってしまった。
 そこで、それなら林道の雪が溶けて、奥まで入れるだろう山々のことを考えて、東大雪の山の一つ、石狩岳に登ることにした。
 
 この山には、今までに3回ほど登っているが、思えば前回の登山からは10年以上もたっている。それは、まだフィルム・カメラを使っていた時代のことで、その時の、青空を背景にした山々の写真も残っているのだが、今の液晶画面で楽しむわけにはいかない。
 そこで、あらためてデジタル・カメラで山の姿を撮って、例のごとく大画面に映して、ひとりニヒニヒと、薄笑いを浮かべながら楽しみたいのだ。
 明日の天気予報は、全道的に晴れマークがついているし、よし、久しぶりに、石狩岳に行くべと決めて、早めに寝た。とは言っても、翌日、いつものように4時頃には目が覚めたのだが。
 外は深い霧で、早速、気象衛星画像を見ると、大雪や日高山脈の回りに雪ではない雲が、うっすらと映っている。大雪山旭岳のライブカメラでも、少し雲がかかっていた。

 心配になって、気象庁発表の5時の天気予報まで待った。やはり、変わらずに、全道的にも晴れのマークだ。気になるのは、気温の高さだ。昨日の午後から天気が回復して、一気に気温が上がり、夏日の25度くらいになるという。
 気温が急に上がると、雪崩(なだれ)の心配もあるが、私にとってはそれ以上に、雪解けなどで水蒸気が満ちて、春霞のようにぼんやりとしか山が見えなくなるのが気がかりなのだ。
 今まで、天気の日でも、かすんで山がよく見えなかったことが何度もあった。何よりも、山岳展望を山登りの楽しみの第一にしている私には、山がかすんで見えないことは、雲が多い日と同じように残念なことなのだ。

 さて、これは年を取ってきてからの、私の悪いクセなのだが、ベストの時をねらう余り、出かけるのに慎重になり、グズグズと時間を過ごし、行きそびれたり遅くなったりしてしまうのだ。
 しかし、これから1週間の天気予報では、もう天気の良い日はないとのことだし、ついに決断して家を出た。

 山々に近づいてくると、確かに霧は取れて、青空が広がっていたが、もう気温も上がっていて、糠平(ぬかびら)辺りから見るニペソツや石狩の山々も、少しかすんでいた。
 元は御殿飯場跡と呼ばれていた、二十一の沢出合いの登山口に着いたのは、もう8時に近かった。もちろん、こんな時期の平日だから、他にクルマがいるはずもなく、人の気配もなかった。
 しかし、目の前の、何という素晴らしい石狩連峰の眺めだろう。川上岳(1894m)からポン石狩(1924m)、石狩岳(1967m)そして音更山(1932m)へと白雪の山稜が続いている。
 この光景を見ただけでも、やってきた甲斐があるというものだ。しかし、これから登る、そのシュナイダー尾根を見上げて思った。余りにも時間が遅すぎる、今日の、時間に制約がある中では、もう頂上までは行けないだろうと。

 ともかく、プラスティック・ブーツをはきストックを手に、出発した。
 昔は、すぐの所で仮の丸太橋を渡り、右岸側を歩いた記憶があるが、今は左岸に、河岸段丘のササ原を刈り分けて開いた立派な道が続いている。
 先で沢を渡り、急な尾根に取りつく。ジグザグに登って回り込み、尾根上に出る。

 それにしても何という暑さだろう、夏山と変わらない汗が流れ落ちてきて、ともかく一休みだ。
 ルリビタキの声が聞こえる。大雪の山々に初夏の訪れを告げる、あの夏鳥たちがもう鳴いているのだ。樹々の間から、ニペソツ山(2013m)が見えていたが、背景の青空は白っぽく、ようやく輪郭が分かるほどにかすんでいた。
 初めて、石狩岳に登った時、それは7月の初めのころだったが、空は青く澄み渡り、今と同じこの辺りから、原生林の上に一際鋭くそびえ立つ山を見た。
 残雪を刻んだ、孤高の北の山の姿、その雄々しいニペソツ山の姿に、いたく感激したものだった。

 下草にはササが茂り、エゾマツ・トドマツにダケカンバの樹々が混じった細い尾根道は、初めのうちはゆるやかだったが、次第に勾配が急になってきた。
 さらに、まだらに雪が出てきた後、ササが雪の下に隠れ、ハイマツが現れ、ダケカンバが目立つようになってきた。そして、尾根の雪は所々で両面雪庇(せっぴ)の危険な場所となり、慎重に登って行く。(写真上、尾根からの川上岳、ポン石狩、石狩岳へと続く山稜)
 
 雪の上には、たまにシカの足跡があった位で、恐らくはこの5月の連休でさえ、人が入らなかったのだろうと思われるほどに、全く靴跡の痕跡(こんせき)すらなかった。
 固定ロープの岩場を越えて上がると、すぐ上に、国境稜線の雪庇の連なりが見えてきた。しかし、登りはじめてもう4時間近くもたっていて、12時になろうとしていた。
 あの国境稜線に着くには、まだこの雪の尾根を30分以上も登り続けなければならないし、それから頂上まで1時間はかかるだろう。
 朝2時間早く家を出ていれば、昼前には頂上に着いただろうに。それでも、この1650m地点で引き返すのは、私には十分にあきらめのつくことだった。

 それは、頂上からの展望が、このかすんだ空気の状態では、たいして期待できないこと、さらにまだ脚の疲れはなかったのだが、雪山のためのプラスティック・ブーツをはいて、長い間、雪のない道を歩いてきたので、外反母趾(がいはんぼし)気味の足先が痛くなった(普通の登山靴にするべきだった)こと、帰り道に寄るはずの友達との約束の時間があることなどである。
 言い訳はともかく、要するに、今日は出だしから遅すぎたし、天気なのに展望が今ひとつで、すっかりやる気を失っていたのだ。こんな時には、無理をしないほうがいい。

 私は、ハイマツの枝に腰をおろして、山々の景色を眺めた。登ってきた雪稜の尾根の向こうには、十勝三股の森林帯が広がり、彼方にはクマネシリの山々が見え、右手には、これもかすんで、ニペソツ山が高い(写真下)。そのニペソツから天狗岳への連なりの端には、去年登ったあの1618m('10.5.30の項)のピークが、可愛いらしい姿で見えている。
 振り返り尾根の上を見ると、覆いかかるように、この石狩岳の山なみが迫ってくる。川上岳から音更山、ブヨ沼尾根と、周りをぐるりと取り囲んでいるのだ。
 その昔、私は若く、石狩に登った後、音更山も往復して、まだ日の高いうちに、この登山口まで戻ってきた。さらに、二度目の時には、石狩から川上岳、さらにニペの耳(1895m)までを往復して、まだ明るい夕方前に戻ってきたこともあったのに。
 
 帰りは、急な雪面のために、アイゼンをつけて下って行った。そして、誰もいないこの尾根道の所々で立ち止まっては、腰をおろして休んだ。
 時には、辺りの雪山の景色を楽しむために、時には、ルリビタキの声を聞くために、また時には、トドマツやエゾマツの、春先のあの良い香りをかぐために、私は、ひそやかな自分だけのための時を楽しんだ。これが、生きていることなのだと。

 下りは、そうして度々休んだにもかかわらず、さすがに早く、2時間半で降りてきた。雪解け水の勢いが増した川の傍で顔を洗い、頭から水をかぶる。ああ、たまらん。下山後の楽しみの一つなのだ。
 そして、時々見つけてはつぶしていたダニが、まだ帽子や服に三つ四つとついていた。家に帰りさらに翌日までの間に、何と合計12匹。
 彼女らダニたちは、あのササの茂った尾根や刈り分け道で、この春初めての獲物である人間にめぐり会い、それも脂ぎった高血圧気味のメタボオヤジに向かって、喜びの叫び声を上げて飛び移ったのだろう。
 その殆んどを、私は、苦しませずに一瞬のうちに彼岸の彼方へと送ってやったのに、今、まだ、頭と体がかゆいのだ・・・。
 
 さて、登山口からその先に続く橋を渡り、すぐの所で車を止め、20分ほど歩くと、露天風呂で有名な岩間温泉があるのだが、今回は割愛(かつあい)して、帰り道を急いだ。
 そして、久しぶりに友達の家に寄って、そこで2時間ほど過ごした。論語の一節にあるように、「朋(とも)あり遠方より来る、亦(また)楽しからずや」。

 十勝平野の夕暮れの景色が、夕闇に沈む頃、ようやく家に帰り着いた。遠く離れた所にある山に、久しぶりに登り、友達にも会うことができた。いい1日だった。
 しかし、それは頂上に達することのできなかった登山だった。同じ時期に、もう一度、石狩岳に登らなければならないという思いが、今も残っている。それは、あこがれに似て・・・。

 あの有名な登山家、ガストン・レビュファ(1921~)が、その著書の中で書いている。
 
 「 けれども、あこがれは、いつも抱いていなければならない。わたしは、思い出よりもあこがれが好きだ。」
  (『星と嵐』 近藤等訳 新潮文庫)

 山の詩人と呼ばれた、このガストン・レビュファには、『天と地の間に』(1961年)と『星にのばされたザイル』(1976年)という、優れた山岳映画があり、私は、公開されたずっと後になって見たのだが、そのクライミング技術はもとより、山々の映像が素晴らしく、それが私の若き日に、ヨーロッパ・アルプス、トレッキングの旅を思い立たせることにもなったのだ。

 さらに1週間ほど前に、NHK教育で、『モンブランが心の故郷~女性クライマー垂直の岩壁を行く』というドキュメンタリー番組が放送された。
 再放送だということも知らなかったが、アイガー、マッターホルン、グランド・ジョラスの三大北壁に加えて、ドリュ西壁までもすべて単独で制覇し、クライミング界の女王と呼ばれている、カトリーヌ・デスティヴェル(1960~)の登攀(とうはん)映像が素晴らしかった。
 レビュファを思わせる、軽やかな彼女のクライミング技術はもとより、家族や友人達と伴に岩壁や雪稜などを登る姿が、見ているものまで楽しい気分にさせてくれた。
 そしてもう一つ、驚いたのは、カメラ技術の高さである。その場にいるような、いやそれ以上のベスト・ショットで彼女の登る姿をとらえているのだ。

 私たちはこうして、新しい時代の、素晴らしい技術の恩恵にあずかり、また一方では、古き良き時代を思い、その穏やかな時代をしのぶこともできる。
 つまり、私たち人間は、そのいずれをも、時に応じてそれぞれに楽しむことができるのだ。ただし、そのことが果たして、幸か不幸なのかは別として・・・。


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