ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(136)

2011-05-18 20:28:56 | Weblog

5月18日

 拝啓 ミャオ様

 もう九州では、すっかり春から初夏のころの暖かさになっているようで、私としても、寒がりのオマエのことを思えば、一安心なのだが、とはいえ、年寄りネコのオマエにとっては、いつもの飼い主が傍にいないのはつらいことだろう。
 そうなのだ、若い頃には、変化は経験をつむための学習の場となるから、何とか新しい環境に慣れようと思うが、年をとってからは、変化しないこと、居心地の良い日常こそが、生きることなのだから、目の前の環境の激変は、何よりもつらいことになる。

 それは、この大津波で住み慣れたわが家を流されて、いまだに不自由な避難所暮らしを強いられて毎日を送っている、お年寄りたちの例を挙げるまでもないことだろう。
 大勢の人たちと一緒の不便な暮らしに、体調を崩し、病が重くなってしまうのもよく分かる。

 そういえば、先日、あの”YouTube”で見た、『Tunami Fhoto Project』という、14人の写真家の3枚ずつの写真からなる、動画サイト写真展は、なかなかに考えさせられるものだった。
 確かに、津波そのものの恐怖を知るためには、あの時に撮られた何本ものビデオ動画をしのぐものはない。
 しかし、被災者たちの思いを汲み取って、一瞬の、しかし永続的な感情として表現するのには、1枚の写真もまた、強いメッセージ性を持っている。
 そのうちの何枚かの写真は、私の胸の中に、今も残されている。バックに流れる音楽は、坂本龍一作曲によるものだった。

 例えば、その一枚の写真からは、一瞬、あのシューベルト作曲の弦楽四重奏曲『死と乙女』のメロディーが流れ来て、さらに次の一枚からは、イングマール・ベルイマン(1918~2007)の映画『叫びとささやき』(1972年)の一シーンをイメージさせた・・・。
 さらに、私の記憶のアルバムの中には、映画『叫びとささやき』の名前を受けて、また、別な一枚の写真としてのイメージがよみがえる。

 その映画の中で、召使のアンナに抱かれて、死の床にあえぐアグネス姿は、あの水俣病告発のために体を張って写真を撮り続けた、ユージン・スミス(1918~78)の有名な一枚、『入浴する智子と母』(胎児性水俣病の娘を風呂に入れる母)の作品を思い起こさせる。
 私の好きな映画5本のうちの一つに入るだろう、ベルイマンの『叫びとささやき』は、こうして、いつもあのユージン・スミスの写真とつながっている。
 (期せずして、同じ年に生まれた二人だが、亡くなった年には30年もの開きがある。)

 話が脇にそれたけれども、元に戻して言えば、ミャオの今のつらい気持ちが、私にも思い当たるということだ。
 私がこちらに来てから、もう1ヶ月近くにもなる。そして、今にして初めて、ミャオが傍にいなくて寂しいと思ったのだ。
 ここに家を建ててからずっと、九州との間を行き来して、こちらに戻ってくるのが、いつも大きな楽しみだったのに、今はさほどには感じられなくなってきた。
 それは、長年繰り返し登り続けてきた北の山々に、もう十分に満足したからなのか、さらに繰り返し見続けて来た家の周りの風景にも、少し見飽きてきたからなのか。
 いや、そうではない。長い間生活を伴にしてきた、相手というべきか、相方のミャオが今傍にいないことに、その大きな環境の変化に、私もまた戸惑っているのだ。
 それまでは、ミャオの存在以上に、ここでの生活の魅力が勝っていたのに、同じように年を取ってきた私にも、環境の変化が、年毎に身にこたえるようになってきたのだ。慣れるまでには、時間がかかると。

 こちらに来て1、2週間くらいはさほどに感じなかったのに、今になって、というのは、旅行気分のような期間が過ぎて、ここでまた、新たな自分の生活環境を築き上げていかなければならなくなったからだろうか。
 このところ私は、前回書いたようにベストの日の山登りを逃していて、さらにミャオのことも考えて、少し落ち込んだ気分になっていたのだ。

 そんなある日、一羽の鳥が、私の心の中に飛んできたのだ。
 もともと、この家の庭や林には、毎年、様々な鳥たちがやってきている。もちろん、無理な餌付(えづ)けはしないし、エサ台も置いていない。
 私は、野鳥観察愛好家のひとりだが、珍しい鳥を求めて出歩くほど熱心でもない。たまたま、家に立ち寄った鳥たちを見るだけで十分だ。
 というのも、こんなカラマツの樹との混交林の小さな林でも、あのクマゲラが来たこともあるのだ。
 
 そんな鳥たちの中で、今の時期に夏鳥としてやってくるものの一つに、コルリがいる。前回書いたように、今年もやってきた。そしてその日から、何と三日間も家の周りにいてくれたのだ。
 天気は良くなくて、小雨模様や曇り空だったが。あの鮮やかなルリ色の小鳥は、3日もの間、私の胸の中までも瑠璃(ルリ)色に塗り替えてくれたのだ。

 私は、いつも眠りから覚める前に夢を見ている。最近は、つらい夢を見て、いやな気分で目が覚めることが多かったのに、コルリが来て二日間続けて、私は、楽しく幸せになる夢を見た。
 その内容は今も覚えているが、人様から見れば、余りにも他愛のないことで、恥ずかしくとても話せるようなものではないのだが、ともかく、そんな単純なことで、私は、今までの落ち込んでいた気分から抜け出すことができたのだ。
 もちろん、私は、自分の力だけで、何事も解決し処理できるとは思っていない。つまり単純なことだが、このコルリとの出会いのように、他者との出会いによって、初めて、自分の中だけでらせん状に渦巻いていた悩みから、解き放たれることもあるからなのだ。

 今、私は、まさに”わたしの青い鳥”であってくれた、あの一羽のコルリに感謝するばかりである。

 「 どうぞ行かないで このままずっと わたしのこの胸で 幸せ歌っていてね クック クック クック クック 青い鳥」
(阿久悠作詞 中村泰士作曲 桜田淳子歌)

 ミャオから、全くいい年して、ばっかじゃないのー、って言われそうだが・・・。

(写真は、家の窓越しにそのコルリを写したものだが、小雨が降っていて、鮮やかなコバルト・ブルーの冠毛が、水滴に毛ばだっていて、それが何ともいえずに私を幸せな気分にした。)