3月31日
いい天気の日に、日の当たるベランダで寝ていると、暑いくらいだ。そよ風が吹いてくる半日陰になった所に歩いて行って、そこで横になる。
庭の梅の花の香りがして、鳥の声が聞こえている。少し離れた手すりに置いてあるエサ台には、ヒヨドリが来て、飼い主の食べ残しのリンゴの芯(しん)を、盛んにつついている。
すべては、こともなく流れていく。一番大切なことは、こうして何も起きなくて、習慣的な毎日が続いていくことだ。
ワタシは、特別おいしいものを食べたいわけではない。高価なキャットフードや、マグロの刺身が欲しいわけではない。今、毎日食べられているものを、十分に食べることができればそれでいい。
ワタシは、ブランドものの首輪や衣装が欲しいわけではない。親からもらった、この一ちょうらの毛皮さえあれば十分だ。
そして何よりも大切なのは、ワタシをなでてくれる飼い主のやさしい手だ。
相変わらずテレビに映し出されている、大震災の被災者たちのニュースだが、ワタシも飼い主の傍で見ていたら、何とネコの姿があった。それは黒い色の、それも年寄りのネコだった。
飼い主の説明によれば、そのネコは、津波で壊れて傾いた家から離れずに、たった一匹で暮らしていて、毎日、避難所にいる飼い主のおじいさんが、ネコにエサをやりに通っているということだった。避難所に連れて行けば、他の皆に迷惑がかかるし、しかしネコはほっとけないし・・・。
その黒ネコは、おじいさんに喉をなでられてその目を細めていたが、両目からは目やにが垂れ、黒い毛並みも汚れていて、お世辞にも可愛いネコとは言えなかった。それでもおじいさんは、自分の家のネコを、おーよしよしと可愛がっていたのだ。
もっとも、このワタシも、鏡に映る自分の顔を見れば、余り他のネコの器量の良し悪しなど言えないのだが。
「 数日前に雪が降った後は、晴れた日が続いて、日ごとに気温が上がっていく。この九州でも、あちこちで桜の開花が告げられていて、この週末は、各地の桜の名所では、お花見の客でにぎわうことだろう。
家の庭では、前にも写真に撮っていたあの梅の花が(3月20日の項)、ようやく満開になり、青空の下に映えて一際きれいに見える。その傍にある、さらに大きなヤマザクラの木には、まだ花どころか、先に開くはずの葉さえ出ていない。
それでもミャオと散歩していると、所々で春の訪れを感じることができる。先日は、気の早いウグイスが一声鳴いて、そのひと声が辺りにこだましていた。シジュウカラが気ぜわしく鳴き、遠くからはキジの羽ばたきと鋭い鳴き声が聞こえてくる。
道端には、まだオオイヌノフグリやハコベなどの小さな花しか咲いていないが、人のいない家の庭先には、薄紅色のアケボノアセビの花がいっぱいに咲いていた。(写真)
わが家にも、普通の山野に自生する白い花のアセビはあるのだが、なぜか今年は余り花が咲いていない。
私がよく行く九重の山々や、そして家からそのまま歩いて登れる山の中にも、アセビの木が数多くある。2mほどの高さの木の株には、その花の形にふさわしく、鈴なりになって咲いている。
集団という姿の、素晴らしさ。
この度の、東北地方太平洋岸の大地震大津波災害による、多数の死者と、多くの避難者たち。そして、その集団を助け支える周りの人々の集団・・・。
それぞれが、アセビの花のように一つ一つの形としてあり、そして集団となった時に見える感動的な美しさ。
昔から災害の多い、狭い島国の日本で、互いに助け合わなければ生きていけない、その相互扶助(ふじょ)の思いこそが、この国の度重なる困難を乗り越えてきた源なのかもしれない。
しかし、私は今、その花の一つにはなれないし、ただ涙を浮かべて見守ることしかできないけれども・・・。
そして、こうした災害時の助け合いの時に、ふと気づくのは、私自身の余りにも独りよがりな生き方である。前にも書いたように、いつも”群衆から遠く離れて“の思いを持って、いつもひとりで行動し、ひとりでいることは、そうした集団の互助思想の美徳からは、遠く離れた対極の所にあるからだ。
もちろん、私はすべてをひとりでやっているわけではないし、常日頃から周りの多くの人々の助けを借りて、今あるわけなのだが、それでもやむを得ない事情を除けば、私の気持ちとしては、多くの人の中にいたくはないのだ。
それは、私の個人的な生い立ちから来るものかもしれないが、その後の人生の分岐点でさえ、私はいつも自ら好んで、ひとりであることのカードを引いてきたような気がする。
考えるに、性格には生来的なものがあるにせよ、後天的に形づくられた様々な性向は、結局は自分の判断が積み重なり、年輪のように形成されていくものなのだ。
自分の人生の中で起きた様々な悪いことは、それは親のせいでも周りの誰かのせいでもない、あくまでも自分の判断と行動の結果なのだ。
今までも度々ふれてきたように、私は時に、あの『方丈記』の鴨長明(かものちょうめい)や、『徒然草』の兼好法師(けんこうほうし)などの隠者生活を思い、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)禅師の自分に忠実な人生の意味を思い、良寛和尚(りょうかんおしょう)の通俗を突き抜けたようなひとりの暮らしを思い、或いは哲学者のショーペンハウアーやニーチェの強く主張する個を思い、作曲者ブラームスの孤独の哀愁と、ブルックナーの神にささげるひとりの生き方を思う。
そこで、その中の一人である良寛の言葉が、ふと頭に浮かんだのだ。
文政十一年(1828年)に、今の新潟県三条市付近で大地震があり、全壊や消失家屋が一万数千戸、さらに死者千六百人余もの被害を出し、全滅となった村もあったという。
その時、良寛は三条まで出かけて行って、その惨状を目のあたりにして、数編の漢詩や歌を残しているが、その中から。
『 ながらへむことや思いしかくばかり 変わりはてぬる世とは知らずて
かにかくに止まらむものは涙なり 人の見る目も忍ぶばかりに 』
さらに被害を受けた知人にあてた、見舞い状の末文の一節には、以下のように書いてある。
『 しかし災難に逢(あう)時節には災難に逢がよく候(そうろう) 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法(みょうほう)にて候 』
これはよく知られた言葉だから、誤解されることはないと思うけれども、さらに加えて言えば、良寛は、何も被災者に運命だからと冷たく言ったわけではない、災難にあわない良い方法はないかと尋ねられて、上のように答えたのだとも言われている。
この言葉は、死に対する心構えとして、その達観(たっかん)した思いとして、私も常日頃心に留めている言葉ではあるが、そのことを理解したうえで考えてみれば、やはりこれは、ひとりで生きる者だけの、自分を戒める言葉だと思うのだ。
この大災害で、大津波により、目の前で家族を失っていった人々にとっては、良寛が言うように、これが災難にあう時だったのだとか、死ぬ時だったのだとか、とても諦めきれるものではない。
つまりそれは、生活を共にする家族や地域という絆で結ばれた人々と、そうした集団からは離れて独居して生活する人との違いなのだ。さらに言えば、責任ある広いつながりがある日常を持つ人と、狭い自分だけの日常しかない人との差でもある。
私にとって、良寛が残した漢詩や歌、文の数々は、今も変わらず、人生の先達(せんだつ)の一人としての大きな意味を持っている。
しかし、このような大災害の前では、そうした独力で生きる個人の思いだけでは、とうてい処理できない事態を、人々は集団の力で、その助け合いの集合体としての力で、何とか解決して、皆は生きのびてきたのだ。
何という人々の力だろう、何という集合体の美しさだろう。
びっしりと連なって咲く、あのアセビの花たちのように・・・。
そんな時に、誰の目にもとまらぬ小さな名もなき花にすぎない私は、それでも自分は無力なのだと落ち込みはしない。
なぜならそれは、ミャオの生きている姿から私が学んだように、余計なことは考えずに、今ひとりでいる自分がただひたすらに生きていくこと、それだけが最も大切なことなのだ、と自らに言い聞かせているから・・・。 」
参考文献: 『良寛』(柳田聖山 中公クラシックス)、『良寛』(山崎昇 清水書院)、『風の良寛』(中野孝次 文春文庫)
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