ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(184)

2011-03-25 20:16:35 | Weblog



3月25日

 午前中、時折、雪が降っていた。春とはいえ、まだまだ寒い日もあるのだ。それでも昼間は青空が広がり、幾らかは暖かくなったから、飼い主がストーヴを消してしまう。そこで、ベランダにしばらくいたが、風が強い。
 部屋に戻ると、飼い主がパソコンの前に座り、カチャカチャと指を動かしている。ワタシは、ニャーと鳴いて、あぐらをかいている飼い主の太ももの上に乗る。(写真)
 少し座りにくいが、人肌は温かくて、やはりいい気持ちだ。

 といって、ワタシがいつもそうしているというのではない。自分の方から、飼い主の膝に上がったというのは、めったにないことなのだ。
 それは、今まで何度も言ってきたことだが、ワタシの素性が、ノラネコあがりだということからきているのかもしれない。人間に抱かれらる事は余り好きではないし、もし膝の上に乗せられても、すぐに下りていたくらいなのだ。
 それで、最近のことなのだが、飼い主が、暖かいベランダの揺り椅子に座っていて、その時にワタシを抱えあげて自分の膝の上に乗せることがあった。その時、ワタシは上下からの暖かさに、すっかり良い気持ちになって、そのまま少しの間、うつらうつらしたくらいである。
 そういうことが何度かあったから、今日はつい、飼い主の膝の上に自分から乗っていってしまったのだ。そんなワタシを見て、飼い主は、あの鬼瓦顔を歪めて、笑い顔を浮かべ、満足げにワタシの体をなでていた。

 まあ、飼い主が何と思ったかは知らないが、ワタシはただ本能的に、暖かい所が、ぬくもりが欲しかっただけのことだ。
 そういえば、飼い主が見ていた地震津波のニュース映像でも、二匹の犬が寄り添って座っていたり、大勢の被災者たちが、肩を寄せ合って暮らしていたりしていた。

 生き物はすべて、たとえ長い時間を一人で生きていかなければならないとしても、ある時は、他の誰かと一緒になって暮らす必要があり、また一緒にいたいと思う時もあるものなのだ。
 生まれた時は、母親とともにあり、そして両親や兄弟などの家族とともにあり、さらに友人とともにあり、恋人とともにあり、やがては自分で家族を持つようになり、またそうして続いていくのだ・・・。

 ワタシも飼い主も、そうはならなかったけれども、それでも二人、いや二匹というべきか、こうして肩寄せ合って暮らしているわけである。


 「 東北地方太平洋岸を襲った大地震大津波から、もう2週間がたつのに、いまだに続く遺体の発見、被災者の避難生活、そしていつまでも収束することのない不気味な原発事故・・・。
 直接の被害のない私でさえ、相変わらず何か落ち着かない日々を送っている。恐らくは、目の前ではないにしても、ほぼリアルタイムに、映像によって、惨劇のさまを目の当たりにしたからだろう。
 多数の人の命を、瞬時にして奪い去っていく、すさまじいばかり自然界の脅威・・・、それを、ただ茫然と見ているしかないのだ。それは、被害を受けなかった他のすべての日本人の心にも、大きな心の傷跡を残したはずだ。

 情けないことに、今私にできることは、幾らかの募金をして、家庭内の節電に気を配り、なるべくパソコンのインターネットにも接続せず、食料の買い出し以外にはクルマにも乗らないし、ストーヴも昼間は消しておく・・・、そんなことぐらいだろうが。
 
 新聞の読書欄で、”こんな時に本を開くなら”という囲み記事で、何人かの書評者のアンケートが紹介されていた。
 しかし私には、そういった被害を受けなかった彼ら知識人たちの、他人事のような、この災害を自らの教訓にするような記事そのものが疑問に思えたのだ。そんな余裕があるのなら、もっと他に、彼らだけにできることがあるはずだと。
 たとえば、彼ら出版文化に関わるものとして、いつまで続くとも分からぬ避難の生活を強いられている人々に、さらに子供たちに、本を送ってやるべきだなどと思ってしまうのだ。

 そんなことを考えたのは、今回の集団避難している人々の生活が、ほんの少しだけだが、私たちが山登りの時に体験する、長期縦走の山旅の日々に似た所があるように思えたからだ。
 もちろん、否応(いやおう)もなく長期間の不便な集団生活をする人々と、自分の趣味で一定期間だけの好きな山歩きを続ける私とでは、比較にならないほどの大きな違いがあるのだが、それを別にして言えば、幾つかの類似体験がある。
 
 体育館などで、すき間なく並んで、毛布にくるまって寝ている被災者たち。狭い山小屋で、一畳に2人ものすしづめ状態で寝ている登山者たち。
 物資が届かず、簡単な食事しか取れない被災者たち。不便な山の上だけに、簡単な食事でがまんするしかない登山者たち。
 水に不自由するのは、被災者も登山者も同じである。
 そして、長い縦走の山旅を終えて、町に下り、そこで数日ぶりに入る風呂のありがたさ。今回の被災者たちの中には、一週間以上風呂に入っていない人もいたそうだから、そのつらさは推して知るべしだ。

 そして、被災者に送る本のことについて言えば、山での天候待ちで、することもなく長い間山小屋にいた時、そこに置いてあった本が、どれだけ私の無聊(ぶりょう)の慰めになってくれたことか・・・たとえば、天気に恵まれなかったあの三年前の、白馬岳から唐松岳縦走の時がそうだったように。(’08.7・29,31の項参照)

 それにしても、大きな事件が起きれば、それだけ人々の大きな関心事となり、様々な視点からの、意見や批判が百出(ひゃくしゅつ)することになる。
 断わっておきたいのは、私は別に誰かに訴えるつもりもなく、ただ、自分の日々の思いをただ、このブログで書き連ねているだけのことだが、それでも思いは尽きない。

 最後に、前にもあげたことのあるアンドレ・コント=スポンヴィルの『ささやかながら、徳について』(紀伊国屋書店)からの、”第3章 思慮深さ”についての一節を。」

 『 思慮深さとは、持続の徳であり、見通しのきかない未来にかかわる徳であり、好機をとらえる徳、つまりは忍耐と予見の徳なのだ。
 ・・・。
 今日私たちは途方もない力をもち、それにともなう責任を負っている。その責任は、私たちや子供たちの生存ばかりでなく、(技術の進歩とその恐るべき射程という事実からして)、数世代にもわたる人類全体の生存を巻き添えにするほどのものであり、かつてこれほど思い責任が課せられた事はなかった。
 たとえばエコロジーは思慮深さにかかわるものであり、それゆえ道徳と無縁ではない。・・・。思慮深さこそ、私たちの徳のなかで最も現代的な徳であり、というよりもむしろ現代が最も必要としている徳なのだ。』