3月20日
確かに日ごとに暖かくなってきている。午前中には飼い主との散歩に出かけて、その途中のどこでも、芽吹いて伸びてきた若草を食べることができるようになった。
昼間、飼い主がベランダの揺り椅子に腰をおろして、雑誌なんぞを広げて読んでいたりする。ワタシは、その足元で横になって、一緒に春の日差しを浴びている。
すると、パタンと音がする。振り仰いでみると、飼い主が、手元の雑誌を落として、うつらうつらし始めたらしい。髪にも白いものが目立ち始めてきた、その鬼瓦顔を見て、年取ってきたなあと思う。そういう自分も年寄りネコだから、余り人のことは言えないが。
夕方のサカナの時間の後、飼い主が、また庭の枯れ枝や枯れ葉などを掃き集めて、焚火(たきび)をし始めた。
ワタシは、そんな暖かい焚火が好きだから、燃えている日の傍で横になり、行ったり来たりしている飼い主の姿を見ていた。
まったく、人間はどうして、あんなに気ぜわしく動き回るのだろう。いったい、地上に降り積もった枯れ葉などを燃やして、何になるというのだろうか。
「 東北太平洋岸大地震大津波が起きてから、一週間以上にもなるが、やるべき家の仕事や、読むべき本なども読まず、ただニュース映像を茫然として見ては、漫然(まんぜん)と時を過ごしてきたような気がする。
自分では、わずかばかりの募金に応じる以外、どうすることもできないのだが、様々な家族の、それぞれの劇的なドラマの成り行きを知らされるたびに、繰り返し胸が熱くなる。
避難所で子供と共に暮らす妻が、福島原発の現地で放射能汚染にさらされて今も働いている夫の、その身を案じながら、涙目ながらもけなげにインタヴューに答えていた。
妻と、同居する息子夫婦と孫の4人を失いながら、それでも毎日、地区の被災者の捜索にあたる消防団長。彼は地震の後、町の安全を守る水門を閉めに行くことを優先し、家族のいる家に向かわなかった自分の判断を後悔し、インタヴューの中で涙していた。
避難所にいる78歳の老女が、私たちみたいな年寄りが助かって、若い人たちが死んで、申し訳ない気持ちで、と弱々しい声で話していた。
水が引いたガレキばかりのの市街地の一角に、動けなくてうずくまる白い犬がいた。その犬の傍に、元気なもう一匹のまだら色の犬がいて、人の姿が見えると寄ってきて、その白い犬の所に導き、指し示すのだ。
ただただ、みんなを助けてあげたいという思いで、不眠不休の過酷な条件のもと、それでも働き続ける、数多くの人々がいる。本当のヒーロー、ヒロインたち・・・。
その一方で、まずはどう援助の手を差し伸べるかが緊急の問題の時なのに、いずれも大した被害を受けなかった、都会の近代的なビルの中で、危機管理がどうだのと批判するテレビ解説者がいて、さらには、被災者たちの苦しみ悲しみを考えずに、この震災を人類への天罰だと切り捨てたどこかのエライ知事がいた。
報道ジャーナリズムとは、批判することだけが仕事ではない。自らが、その先頭に立って、人々を助けるべく励まし鼓舞(こぶ)することも大切な使命だ。政治家が、評論家であってはならない。自らが、その先頭に立って、まず援助活動に乗り出すべきだ。
その昔から、同じように大きな自然災害に襲われ続けてきた日本。
12世紀の鎌倉時代に書かれたとされる、鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』には、当時の、大火、辻風、飢渇(きかつ)、大地震の様子が書かれている。以下は、第六段の『大地震(おおない)』より。
『・・・おびただしく大地震ふ(振)ること侍(はべ)りき。そのさま世の常ならず、山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわお)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕(こ)ぐ船は波にただよい、道行く馬は足の立ち処を惑わす。
都のほとりには、在々所々堂舎塔廟(どうしゃとうみょう)ひとつとして全からず、或いは崩れ或いは倒れぬ。塵灰(ちりはい)立ち上りて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。
・・・恐れの中に、恐るべかりけるはただ地震(ない)なりけりとこそ覚え侍りしか。』
(この『方丈記』から引用したと思われる記述は、あの『平家物語』巻第十二の『大地震』にも見られる。)
ところで、これほどのおびただしい数の被災地にも、ほんの少しずつだが明るいニュースも伝えられるようになってきた。
しかし現地の人々は、これからも悲しみと苦難の重荷を背負い続けての、まだまだ何年もの間の、忍耐の日々が続くのだろうが。
私たちにできること・・・。
前回写真に撮った、庭のたった一輪だけの梅の花が、二つ三つと次々に咲き始めている。まるで、明るい仲間たちの数を増やすかのように・・・。(写真)」
参考文献: 『方丈記』 日本古典文学全集 小学館、『平家物語』 日本古典文学大系 岩波書店)