3月5日
このところ、また冬が戻って来たのかと思うほどの、寒い日が続いていたが、今日はようやくすっきりと晴れてくれて、ストーヴの世話にならずに、こうして日当たりのよいベランダで寝ている。
いいなあ、春の日差しがワタシの体いっぱいに降りそそぐ。体中の毛を広げると、その根元にまで日の光が感じられる。気持ちが良いうえに、毛や皮膚の日光消毒にもなるのだ。
町の中に住む、部屋飼いのネコちゃんたちは、定期的にネコ・シャンプーなるもので体を洗われ、きれいにされているそうだが、ワタシにはとてもできない相談だ。
ワタシは、親からもらったこのいっちょうらの毛皮を、いつもしっかりとなめ回し、あるいは歯で噛んですいたりしているだけだ。そういえば、ワタシのシャムネコの母さんが、まだ子供だったワタシの体をなめながら言っていたものだ。
『これは、ワタシがオマエにあげられるたった一つのものだけれど、世界で他に同じものは決してない、オマエだけの毛皮なんだよ。ちゃんと、自分で手入れさえすれば、一生ものだからね。』
ああ、母さん。子供の頃別れて、もうそのまま会っていないけれど、今こうして年寄りネコになって、母さんがネコ語で話してくれたことや、教えてくれたことなど、いろんなことを思い出します。
飼い主から聞いた話によれば、あの有名なフランスの作家で思想家でもあるボーヴォワール女史は、女性平等論の立場から、『人は、女に生まれない。女になるのだ。』と言ったそうだが、ネコのワタシは、そこまで深く考えてはいない。
つまり、ワタシたちネコは、オスネコあるいはメスネコとして生まれ、その性差のあるネコの形のままで、生きていけばよいと思っている。余分な人間たちの習慣などを見習いたいとは思わないし、まして押しつけられるのはごめんだ。
飼い主の生活に合わせるのは、飼いネコとして当然だけれども、動物としてのネコの自覚を持って生きていきたいものだ。
純粋なシャム猫であった母さんネコは、こんな山の中に捨てられても、人間たちにエサを乞うために鳴いても、都会のシャム猫である誇りは捨てなかったのだ。今でも、あのりんとした立ち姿を思い出す。
ワタシには、母さんのシャムの色合いが少し残るだけで、他は全くの胴長短足の日本猫だけれども、母さんの持っていたネコの誇りだけは、忘れていないつもりだ。
(ミャオの生い立ちについては、このブログの始まりの時に記載。’07.12.28~30の項参照。)
「今日は、朝ー7度と冷え込んだが、日中は13度にまでも上がって、暖かくなり、山もくっきりと見えて、一日中快晴の素晴らしい日だった。
そんな絶好の登山日和だったのに、私は山に行かなかった。
昨日は、朝3cmほどの積雪があり、さらに雪もちらついていたが、天気予報によると、午後にかけて晴れてくるとのことだった。これが、九州で雪景色の山を見る、この冬最後のチャンスかもしれない。
翌日、土曜日は、高気圧が張り出し、九州全土に晴れマークがついている。今日か明日のどちらに行くべきか。
明日の土曜日に天気が良いとなれば、九重の山々は登山者で賑わうのは確実だ。そうすれば、前回の山(2月2日の項)でのように、またもそんな人々たちの大声の話し声や笑い声を聞くことになってしまう。
それに、このところずっと天気が悪かったから、洗濯物もたまっているし、ミャオとも、晴れた穏やかな日に、散歩をしたい。さらに少し間があいた、このブログ記事も書かなければならない。
もっともこのブログは、あくまでも自分の日々の備忘録(びぼうろく)として、勝手気ままに書き連ねているだけの駄文(だぶん)にすぎないのだが、毎回更新するたびに200人近い人が、退屈しのぎにしろ読んでくれていると思えば、そういい加減なことも書けない。
それは私にとって、少し重荷でもあり、自分への叱咤激励(しったげきれい)にもなるからだ。
と自分でいろいろと理由をつけて考え、昼まで待ったが、確かに少しずつ晴れてきた。よし、今日行こうと決めて、家を出た。
湯布院の街を抜け、やまなみハイウェイをそのままたどり、去年登った倉木山(’10.3.14の項)や由布岳正面登山口を過ぎ、猪ノ瀬戸の分岐から塚原方面に向かい、峠の所で由布岳西登山口に着く。ここから由布岳へは去年登ったばかりだ。(’10.2.21の項)
この車道を隔てて、反対側にも山道がある。余り登る人もいない鶴見岳東登山口である。
鶴見岳(1375m)は、湯の町別府の湯けむりの背後にそびえる山であり、別府の海岸から一気に1400m近くもせり上がる山容は、そこから北に鞍ヶ戸(1344m)、内山(1275m)、伽藍岳(がらんだけ、1045m)と続く山なみとともになかなか魅力的である。
とは言っても、鶴見岳には頂上下まで上がれるロープウェイがあり、さらにテレビ、電波などの塔が林立していて、その山岳景観は大きく損なわれ、それほど登山価値が高いとは言えない。
それでも、海岸の0mからの一気登山が催されるほどで、登山道も三本ほどつけられている。
今回は、その鶴見岳に行くだけの時間的余裕はない。それで、その鶴見岳の側火山(寄生火山)の一つ、南平台(1216m)に行くことにした。登山口からの標高差は、わずか400mほどだ。
この南平台は、地図上にはその名前も道も記載されていなくて、ずいぶん前に鶴見岳に登った時に、現地の標識で知って以来、今までに二度登っているが、人に会ったことはなく、北に続く鞍ヶ戸や内山とともに、静かな山歩きが楽しめる一帯だ。
さて、登山口にクルマを停めて、しばらく林道を歩いた後、新たな登山口標識のある所から、涸れ沢沿いの道に入る。雪は5cmほどで、見上げる沢奥には、木々の彼方に青空も広がっている。
途中で、雪の下の道を見失ってしまったが、気にすることはない。この涸れ沢をつめれば、上の分岐点のある平坦地に出るはずだ。
最後は斜面を登り、平坦地に出る。テレビ塔などがある鶴見岳の頂上付近が、霧氷で白く覆われている。辺りには、わずかにシカの足跡があるだけで、一面の雪原だ。それでも木々の間に続く道らしい所は分かる。
南平台への登りにかかる。雪は15cmほどあり、その上に尾根道の木々の影が長く伸びている。(写真)
頂上手前のコブに出ると、ススキの尾根になり展望が開ける。由布、鶴見、鞍ヶ戸がぐるりと取り囲んでいるが、残念なことに、由布岳(1584m)の上には、相変わらず大きな雲が広がったままだ。
少し下り、霧氷のついた低い林の中に入る。20cmほどもある深くなった雪の斜面を登り詰めると、頂上北側の岩の上に出た。
そこは、辺りを霧氷に囲まれていて、鞍ヶ戸から鶴見岳に続く白い稜線がきれいだった。楽しみにしていた由布岳の眺めは、どうしても上の雲が取れずに日陰になったままだった。(写真下)
すぐ先にある、ススキに被われた平たい頂上からは、サルで有名な高崎山から別府湾の青い海が見えていた。しかし、全体に少しかすんでいて、九重の山々もようやく見えるくらいだった。
この南平台までは、下から1時間半ほどかかり、風をよけながらそこでしばらく過ごした後、帰りは1時間ほどで、クルマを停めた登山口にまで戻ってきた。
それは、わずか3時間ほどの軽い雪山歩きだったけれども、シカの声を聞いただけの、静かな山のひと時を十分に楽しむことができた。
そして、快晴の日の今日、山に行かなかったことは、今にして思っても少しも悔しいことではなかった。洗濯をして、布団を干し、ベランダで少し本を読み、ミャオと一緒に散歩をしたからだ。
こうして、人の集まる所を嫌がるという性癖(せいへき)がますます増長されていくと、あとはただ頑固(がんこ)で偏屈(へんくつ)な年寄りへの道へと、歩んで行くことになるのだろう。
救いようがないのは、それを本人自身が悪いことだとは思わず、開き直って、このブログに書いたりしていることだ。
ともかく今は、ミャオと一緒にひたすらに生きていくだけだが。
家に戻ると、もう5時過ぎになっていた。クルマの音を聞きつけた、そのミャオが、ギャオギャオと鳴きながら、家の前で私を待っていた。
私が毎日欠かさず与える生ザカナの時間は、ミャオにとって、その昔の亡き母の時から続く、一日での最大の興奮、喜びの時であり、そのミャオのネコという生き物そのままの姿には、ある意味では感動さえ覚えるほどであり、生きることの意味を思い知らされるひと時でもある。
こうして私は、ネコを飼いながら、ネコに飼われているのかもしれない。余り人と話さない分、いつしか猫語だけを話すようになったりしていて・・・。
さらに、それは、あの有名なフランツ・カフカの小説『変身』のように、『ある朝、鬼瓦権三が何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で、一匹のネコに変わっているのを発見した。』 というふうになっていないだろうか・・・。
ミャゴ、ミャーゴ・・・。あな恐ろしや。」
(参考文献: 『第二の性』 ボーヴォワール著 生島遼一訳 新潮文庫、『変身』 カフカ著 高橋義孝訳 新潮文庫)