ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(182)

2011-03-15 17:54:23 | Weblog



3月15日

 暖かい日が続いて、ワタシは毎日、飼い主と散歩に出かけている。その他の時間は、座布団の上やベランダで横になって、ウトウトと寝て過ごす。
 夕方になって、待望のサカナをもらうと、この年寄りネコのワタシにも、とたんに元気がみなぎってくる。ひとしきり、家の内外を走り回り、飼い主が寝る時間には、おとなしくコタツにもぐり込む。そうして一日が終わる。
 日々こともなく、時は過ぎていくのだ。

 「 大地震、大津波に原発事故・・・私は、ただただおろおろと、言葉もなく、衝撃的な映像を見続け、時には同じように涙ぐみ、人々のことを思った。  

 震災からは遠く離れて、テレビを見ているだけの、そんな私にできることは・・・被害を受けなかった私たちすべてが、それぞれに、せめて彼らの日常の負担を、少しずつ分担援助するぐらいのことだろうが。
 そして心の負担の方は・・・、数十万人もの避難している人々には、それまでに、それぞれの家族との毎日の暮らしがあったはずなのに、それを一瞬のうちに失ってしまったのだ・・・その喪失感たるや。

 7年前、私は一緒に暮らしていた母を、突然の急病で失くしてしまった。そして、その日のうちに、私は母の棺の前に座っていた。
 涙が止まらなかった。
 葬式がすんで、ひとりになった私は、何かにつけて涙もろくなってしまった。後悔の思いと自責の念で、ただただ毎日が、空しく過ぎていくだけだった。

 私は二日とあけずに、家の近くの、道もない山々や谷川を歩き回った。そして家に戻っては、バッハの曲を聴いていた。傍にいるのはミャオだけだった。

 『 われら涙してひれ伏し、墓にあるなんじを呼ぶ。
    憩(いこ)え、安らかに、安らかに憩え。・・・』

 (バッハ『マタイ受難曲』第78曲終曲コラール。音楽之友社『名曲解説全集』より)

 一カ月、二カ月、三カ月・・・そして百日目の法要をすませて、私は友達のいる北海道に戻った、そこで北の山々に登りながら、少しずつ元気になっていった。

 あれから、7年もの歳月が過ぎたのに、今でも、私の心には、まだその時のつらい思いの棘(とげ)が、その傷が残っている。もう痛むことは、少なくなってきたのだが、その傷跡は消えることはない・・・。

 人間は、ひとりで生まれてきた以上、本来はすべてのことに、ひとりで耐えていくしかないのだろう。
 その時に、家族がいれば、確かにそれは大きな心の支えになるだろう。しかし、誰でもいつかは、そんな大切な家族を失う時が来る・・・。
 それほどに、つらい出来事が待ち構えている人生だとしても、この世に生まれてきた、喜びに勝るものはないのだ。

 今朝、窓の外を見ると、庭の梅の木の枝先には、いっぱいの蕾(つぼみ)がついていて、そのうちのたった一つだけが開いて、一輪の梅の花が咲いていた。(写真)
 生きている喜びに満ち満ちて・・・。」