ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(128)

2010-11-05 22:40:06 | Weblog



11月5日

 晴れた日が続いている。いつもの冬型の気圧配置の天気模様で、私のいる十勝地方などの道東は晴れているのに、日本海側の道北、道央などは天気が悪いのだ。
 もう一度、大雪山、十勝岳方面の雪山に登りたいと思っていて、天気になる日を待っていたのだが、予報を見ても天気は回復せずに、二三日してまた雪の日になるようだ。
 ということは、もう圧雪、アイスバーンの峠道になるということだから、そんな峠越えをしてまで行きたいとは思わない。
 それならば、まだ雪の少ない日高山脈のどこか低い山にでも登るしかないのだが、果たしてどうなるか。

 今年はどうも、大満足できた山登りの後は、計画倒れで終わることが多かった。
 まあ世の中、そう自分の思い通りには行かないものだから、むしろたいした事故もなく、これまでの山登りができたことに、感謝すべきなのだろう。
 
 まあそのためにというほどではないのだが、ずっと家にいて、毎日少しずつ変わっていく、家の林の紅葉を見ることができた。
 いつもの年よりは、真っ赤になった色が少なかったが(写真)、その分全体に黄色が多く、紅葉の期間もずいぶんと長かった。

 思えば、このカラマツの植林地を、切り開いて家を建て、生活するようになってから、もう二十年以上にもなる。
 そして、林の手入れをしながら、その中で芽を出し育ってきた落葉広葉樹が、それぞれに大きくなってきた。まだまだ、カラマツが多すぎるのだが、それでもいくらかは混交林(こんこうりん)のイメージも出てきた。
 特に、あちこちに赤く色づく、カエデ類の樹々が大きくなり、秋にはいつも私の目を楽しませてくれるようになった。
 さらにその、樹の周りには、種から芽を出した幼樹が増えてきている。ササ刈りなどをして、手入れしてやれば、それぞれに大きくなり、先には、全体が大きな紅葉の林になるかも知れない。
 その頃までも、私は生きてはいないだろうが、想像するのは楽しいものだ。

 人は何も、今日のためだけに生きているのではない。自分では見ることはできない明日のためにも、今日を生きるのだ。それが自分のためであるにせよ、誰かのためであるにせよ・・・。
 つまり、我々人間が他の生き物たちと違うことは、死に際して自分では知ることのできない明日に思い託すこと、さらにいえば、永遠を夢見ることではないのだろうか。
   死の恐怖から逃れるために、あるいは死にたくないという思いから、人は、あるかもしれない永遠へと思いをはせるのだ。

 
 前回からの続きであるが、私は、マーラーの交響曲を聴いて、いろいろと考えてみた。
 1ヶ月ほど前に、NHK・BShiで放送された「バーンスタイン没後20周年記念」番組から、その第3夜のプログラムである、リハーサル風景つきの「交響曲第5番」と「交響曲第9番」を見た。
 これらの映像は、ユニテルによる1975年制作のもので、当時からLD(レザーディスク)やビデオで発売されていて、話題になったものであり、今さら門外漢(もんがいかん)の私ごときが、評価の定まったものを、とやかくいうべきではないのだろうが、このところ気にかかっていたひとつの問題、永遠ということについて、あらためて考えてみたからでもある。

 有名な指揮者であり、作曲家でもあったユダヤ系オーストリア人のグスタフ・マーラー(1860~1911)は、九つの番号入り交響曲と、番号のつかない「大地の歌」交響曲、さらに未完成の第10番交響曲などの他に、多くの歌曲なども残した。
 その中でも、この一連の交響曲は、大いなる自然に対する賛美や、喜びと哀しみに満ちた人間社会での闘い、そして誰にでも訪れる終末の死という、当時の世紀末の不安を象徴するような問題が、テーマになっているといわれている。

 ここで、その二つの交響曲を指揮しているレナード・バーンスタイン(1918~1990)は、マーラーと同じくユダヤ系の血を引く、アメリカ人の指揮者であり、「ウエストサイド物語」などで有名な作曲家でもある。
 彼は、あのブルーノ・ワルターの代役で、ニューヨーク・フィルにデヴューして以来、十数年に渡ってその指揮者を務めてきたが、1969年に、主な活動の場をヨーロッパへと移し、特に名門ウィーン・フィルとは長きに渡って良好な関係を続け、「ベートーヴェン交響曲全集」(1977~79、DG)などの数多くの名録音を残している。
 そして、今回私が見たウィーン・フィルとの交響曲「第5番」(1972年録画)と「第9番」(1971年録画)は、まさしく、その両者の関係が深まっていく頃のものである。

 まず「第5番」のリハーサル風景である。彼は第1楽章冒頭のトランペットの入りの音に、細かい指示を出す。そしてその指示通りに演奏された音の、音楽として流れの何と納得のいくことか。
 バーンスタインは言う。「マーラーは、自分の楽譜に何度も手を入れ、付け加えた。それは彼が指揮者だったからでもあるだろうが(自分もそうだし)、楽譜をなぞるだけでなく、気持ちをこめて演奏することが大切なのだ。」
 「マーラーの音楽は、退廃(たいはい)的、通俗的だといわれているが、当時の人はそこに世紀末の匂いを嗅(か)ぎ取ったに違いない。」
 
 この「第5番」は、その出だしの「葬送行進曲」第1楽章よりは、あの第4楽章「アダージェット」の、美しい旋律が有名である。
 ドイツの作家トーマス・マンの『ヴェニスに死す』(1912年)を映画化した、イタリアの名匠、ルキノ・ヴィスコンティ(1906~1976)は、老作家の主人公を老作曲家に置き換えて、船でヴェニスの運河を行く時に、たゆとうような水のうねりを背景にして、この「第5番」の「アダージェット」を流したのだ。何という、情景にふさわしい音楽だったことだろう・・・。
 映画は、まさしくヴィスコンティの『ヴェニスに死す』(1971年)になっていたのだ。
 
 マーラーはこの「第5番」の作曲当時、41歳であり、ユダヤ人排斥(はいせき)問題もあってウィーン・フィルを辞任していたが、それまでの自作交響曲演奏の好評もあり、さらに、才色兼備の誉(ほま)れ高いアルマと婚約し、ついで結婚したばかりだった。
 人生の絶頂期にありながらも、理想を掲げ苦闘する彼の思いが溢れているような「第5番」であるが、その第4楽章アダージェットには、後に見られるような、あの救いようのないような死の思いはまだなく、愛するものへの、溢れるばかりの切ない思いが広がっている。
 
 そして、「第9番」。そのリハーサルは、終楽章のアダージョである。
 バーンスタインは語る。「オーケストラを説得してでも、自分の聴きたい音楽を引き出したいのだ。指揮している時には、自己が失われていくように、作品と一体化して、まるで自分が作った曲のように思えて、それは恍惚(こうこつ)というよりは、飛翔(ひしょう)に近い感じがする。」
 「この終楽章のアダージョでは、(マーラーは自分の死が近いことを知っていて)、死への意識と怒りを含んだ生への執着が交互に表れ、あらゆるものが自分から離れていき、宇宙の一部となっていく、禅の瞑想(めいそう)に似た思いがあり、それは西洋の音楽が東洋の思想に近づいた時でもある。そして、最後の弱音が続き、人生の終わりを心静かに受け入れていく。」
 
 私たちが、それまでこの曲に漠然(ばくぜん)と抱いていたイメージを、バーンスタインが見事に説明してくれたのだ。それはもちろん、若き日に初めてこの曲を聴いた時の思いとは、ずいぶん違ってきているが。
 年齢を重ねてきたことで、自分なりに解釈したこと・・・それは、あきらめることではなく、自分の残された時間を知り、あるがままの時の推移を認めて、最後には心静かに受け入れていくこと、永遠に続くだろう時の流れを見つめながら・・・。

 前回も、この「第9番」作曲時のいきさつについて書いたけれど、併せて「大地の歌」の”EWIG(永遠に)”について、そして、あのギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスの意味する永遠について(9月5日の項)などと、思いは続いていく・・・。
 考えるべきことは、まだまだ広く深く様々な分野にまで及び、とても浅学の徒である私ごときの手におえるものではない。

 例えばその一つだが、昨日、あの99歳の現役医師、日野原重明さんの今を伝える番組が放送された。そこでは、終末医療に携わる日常の医者の姿と、あのベストセラー『葉っぱのフレディ』を基にした子供ミュージカル公演にかかわる、とてもその年には見えない元気な姿を映し出していた。
 葉っぱのフレディは枯れ落ちても、次の春には、若い緑の葉の仲間たちがいっせいに芽吹いてくる、「命はめぐる」というテーマであった。

 東洋思想の根幹にもある、命の輪廻(りんね)、生まれ変わりという思想は、別に目新しいものではないし、死後の世界を思う時には、最も受け入れやすい、我々日本人の身になじむ考え方の一つである。
 あるいは仏教に言うように、死んだ先には、彼岸の世界があり、そこでは自分の知る死者たちに会うことができる。その死者たちに会うためのお迎えの儀式が、死なのだと。

 しかしそれらはすべて、来るべき死に際して、恐れ慌てふためかぬように、あらかじめ周知徹底された予防薬としての効果上げるべく、考え出されたものなのだ。永遠というイメージを含めて、そこには、見事に作り出された架空の穏やかな王国が広がっている。 

 それは思うに、誤ったお導(みちび)きということではないのだ。余りにもすべてのものを、科学的な実証主義にもとづいて、白日の下にさらけ出すよりは、何も知らないままに信じて、あるいは真実を知ってはいても、そのままうなづいて、自分にも言い聞かせた方が、幸せなのかもしれないからだ。
 この世に、本当に信じるに値するものがないとすれば、あの世に、そして永遠にこそ、確かなものがあるかもしれないのだから。

 「信じる者は救われる。」
 それは何も、キリスト教の世界だけではなく、仏教にも、イスラム教にも、さらには原始宗教についてさえいえることなのだ。
 若い頃、『晴れた日に永遠が見える』(1970年)という映画を見たことがある。14回も生まれ変わったという女を、あのバーバラ・ストレイサンドが演じていたが、その彼女のの目には信じるものの一途さが、怖いほどに・・・。

 ミャオ、九州の山間部では0度近くまで冷え込んでいるようだが、何とかしのいで元気でいておくれ。オマエには、ありもしないバクが食べるような永遠を考えるよりは、毎日の、ほんの少しだけの、食と住の安心できる毎日があればいいのだろうが。

                      飼い主より 敬具

 参考文献: 「マーラー」(船山隆 新潮文庫)、ネット上の「ウィキペディア」他。