ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(129)

2010-11-10 20:45:14 | Weblog



11月10日

 拝啓 ミャオ様

 久しぶりに快晴の空が広がっている。冬型の気圧配置になって風が強くなり、山側には帯状に雲が張りついている。もう、林の紅葉は殆んど終わり、秋の終わりを告げる、カラマツの黄葉が盛りを迎えた。
 林の中の落ち葉の道を歩いて行くと、黄金色の葉が雪のように降ってくる。見上げると、私を囲むように、カラマツの樹々が立ち並んでいる。(写真)

 もう、3週間も山登りに行っていないのだ。その上、天気予報も、ここ十勝地方の平野部では、これからも時々晴れの日があるのだが、日本海側の札幌、旭川などでは、ずっと雨か雪の毎日である。つまり山に登ろうにも、冬型の気圧配置では、この十勝方面の山にも雲が張りついたままになるのだ。

 今年は、夏以降、登山の回数が少なくなり、月にやっと一度という有様だった。山歩きの基本は、慣れであり、習慣化することであるから、自分の脚力を保つためにも、せめて月に二回は出かけたいのだが。
 それが、今年の、この私のていたらくはどうだろう。それには、もちろん生来のぐうたらさもあるのだが、人のいない平日の快晴の日にしか出かけないなどという、ゼイタクな基準を自分で設けているからでもある。
 ところが、あの快晴の美瑛岳(10月23日の項)に登った10日後に、またも快晴の日がめぐってきた。再び、初冬の美しい雪山に登れるチャンスだったのに、その日は日曜日だった。

 何ということだ、神様は、平日に仕事に携(たずさ)わり、思い通りの休日に恵まれていない者たちにも、まさしく平等になるようにと、ようやくめぐってきた快晴の日の休日を、彼らにお与えになったのだ。
 日ごろから、職場で忙しく働く者たちには、その日にこそ、青空の下で厳(おごそ)かに光り輝く山々を眺め楽しむべく、あるいは山登りを楽しむべく、ひと時のお恵みをお与えになったのだ。
 そして一方、ぐうたらに日々を過ごしている私には、出かけてはならぬという強いおふれを下し、雷の一撃をお与えになったのだ。
 
 昨日今日と、冷たい雨が降り続き、神様のお告げでもある大きな雷鳴も混じって、殆んど外にも出られなかった。ただでさえ、お天気屋の私は、いろいろと考え込んだりして、気持ちが落ち込んでしまった。
 そのうちに、ウトウトと部屋の中でうたた寝をして、はっと目覚めた。ここは、いつも寝て起きる屋根裏部屋ではない、と一瞬とまどった後、雨の降る音が聞こえる薄暗い中で、下の部屋にいることに気づいて、私は、そうだ夕食の支度をしなければと思った。
 腕時計で時間を確かめると、まだお昼前の11時だった。私はその時、例の”こここはどこわたしはだれ症候群”にかかっていたのだ。
 私は、居間に行って燃えているストーヴの火を確かめてから、揺り椅子の上に腰をおろした。窓の外では雨が降り続き、軒先から雨水が滴(したた)り落ちていた。
 
 「どうしようもないわたしが歩いている」

 という、種田山頭火(さんとうか、1882~1940)の句を思い出した。大地主の家に生まれたが、自らの事業に失敗し、妻子と別れ、さらに酒やお金での失敗を重ね、ついには禅寺に入り、出家得度(しゅっけとくど)した後の、放浪行乞(ほうろうぎょうこつ)の旅に出た時に書いた、俳句の一つである。
 ひたすらに山野を歩き旅することで、忘れようとしていた自分の過去の過ちが、人里の中に下りてくると、再びわが身を攻めるのだ、その余りにも情けないふがいなさに。

 人は誰しも、自分の人生の中では、いつも成功することは少なく、失敗の方が多いことを知っている。問題は、その失敗による心の葛藤(かっとう)を癒(いや)し補い、次なる目的へと向かうべく、苦境をどう乗り越えていくかなのだろうが。
 成功の甘い蜜の味だけを知っている者は、しかし、失敗の連続には打ちのめされてしまう。
 私たちは、仲間がいて順調にことが運んでいる時には、なにも気づかないが、いったん自分が挫折(ざせつ)して落ち込み考えるようになると、ひとりでいることの弱さに気づき、同じ傷を持った仲間に会いたくなり、話を聞いてもらいたくなる。
 ある人は、そこで山頭火の句集を開くのだ。
 余りにも、弱い自分をさらけ出し続ける、彼という人間に対する嫌悪感と親近感は、誰しもある自分の心の表裏であるのだが。


 さて、最近、NHK・BSで見た映画の話である。
 彼は、それまで、国家保安省の名うての取調官として、自分の職務に忠実であった。しかし、職務上、盗聴をして知った、ある進歩的舞台劇グループの一人の男の秘密に、それがまた別な意味で国のことを思う気持ちからのものだと分かり、一転して、それまでの自分の仕事に忠実ではなくなるのだ。
 陰ながら助けようとするその男だけではなく、自分の身さえ危険にさらされると知りながら、彼はその秘密を隠し続け、反体制派の彼らを何とか守ってやることができたのだが、犠牲者も・・・。

 しかし当然のことながら、彼は左遷(させん)されてしまい、以後4年にわたって地下での、私信開封という単純作業をさせられることになる。しかし、その時、東西を隔てていたベルリンの壁が開放され、共産主義国家、東ドイツは崩壊したのだ。
 とはいっても、孤独な彼の身の上に大きな変化は起きなかった。ただ、しがない郵便物配達の仕事を続ける毎日だった。
 ある日、彼は書店に掲げられた新刊書の広告に目がいった。それは、彼が助けた劇作家が書いた、体制側のひとりであった彼への感謝を捧(ささ)げる本であった。
 彼は、その書店の中に入って行った。そして、レジにいた店員の前にその本を差し出した。その最後のセリフの後、画面は彼の表情を映したままのストップ・モーションになり、終わる。
 何と見事な、話の結末だろう。今まで数々の、忘れられない映画のラスト・シーンを見てきたが、この映画もその一つに加えられるのかもしれない。
 
 それらの名ラスト・シーンに共通しているのは、いつも同じテーマである。無垢(むく)の無償の愛が報われる、その真実の瞬間・・・つまり、それまでの艱難辛苦(かんなんしんく)の時を経て、最後の一瞬に凝縮された、成就(じょうじゅ)の喜びであり、観客である私たちもそこで、すべてに納得し心満たされるのである。
 (もっとも、まったく逆に、壮絶な悲劇の結末で終わる場合もあり、それらもまた、情感を残しながらの忘れられない名ラスト・シーンになるのだが。)
 
 ともかく、この2時間18分にも及ぶ映画、『善き人のためのソナタ』(2006年、ドイツ)を、一気に見続けさせたのは、その緊張感に満ちたストーリー、脚本を書き、監督も手がけたフローリアン・フォン・ドナースマルクの力によるものだろう。

 もちろん気になる幾つかのこともある。一つあげれば、あれほど厳格な、ナチス時代のゲシュタポ(秘密警察)にも例えられる、旧東ドイツ、シュタージ(国家保安省)の反体制派取調官であった彼が、そうも簡単に、寝返ることができるものか、それも、映画の題名にもなった「善き人のためのソナタ」を、盗聴の際に聴いたくらいで、涙を流すものかと。
 しかし、あの『戦場のピアニスト』(2002年)でも、ピアノを愛するナチス軍の将校が、ユダヤ人のピアニストの弾くショパンを聴いて、立ち去る彼を見逃がしたように、極限の状態でも、私たち人間が持っているヒューマニスティックな感情は湧き出てくるし、誰しも本来は善き人なのだと訴えかけているのだ。今の時代だからこそ・・・。
 ベルリンの壁の崩壊前の東ドイツ・・・私は、若き日のヨーロッパ旅行の時に、当時のソ連(ロシア)から、ポーランドを経て、東ドイツのベルリン、ドレスデンなどに数日滞在したことがある。その時の、厳格な手荷物検査や、夜の街の不気味な静けさを思い出した。
 (さらにチェコ入り、そしてようやく西側の、オーストリアのウィーンに入った時の、自由に溢れた国へ着いた喜びは、今でも忘れられない。)
 ともかく、そんな意味からも、私には全く知らない国での出来事とは思えなかった。

 しかし映画で見ると、ホーネッカー国家評議会議長(党書記長)の支配による、旧東ドイツ共産主義国家が崩壊しただけで、その時、体制側にいて甘い汁を吸っていた上層部は、厳罰を受けることなく、生き残っていたのだ。
 今日、合併されてからもう20年近くにもなるが、旧東西ドイツ間の経済格差は、未だに縮まらず、東ドイツを懐かしむ声えさえあるという。
 
 さらに、取調室での尋問(じんもん)風景は、最近話題になっているどこかの国の検察官の証拠捏造(ねつぞう)、我田引水(がでんいんすい)論理を髣髴(ほうふつ)とさせるものだった。
 あのカフカの小説、『審判』などで描き出されているように、国家権力による強制的な取調べの前では、一個人でしかない者が、どれほど孤立無援(こりつむえん)の弱い存在でしかないか。
 民主主義社会にある、今日でもなお、検察、裁判所による誤審が繰り返されていて、あのアメリカ映画の名作、『十二人の怒れる男』(1957年)のような正義感溢れる結末が訪れることは、やはりある種の理想でしかないのだろうか。

 さらにもう一つ、映画の中で話されていたのだが、あのロシア革命を成し遂げたレーニンが、言ったという言葉。「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ『熱情』を、本気で聞いてしまうような人は、悪人になりきることができない。」
 そこから、「善き人のためのソナタ」という曲が生まれたのだろうか。ちなみに、映画のドイツ語原題は、”Das Leben der Anderen (他人の生活)”である。

 ともかく、いろいろなことを考えさせてくれる映画ではあったが、もちろん、幾つか少し気になるところもあって、私にとってのベストの映画ではないにしても、秀作映画であることに間違いはない。それも久しぶりに見た、見事なドイツ映画の一本として。
 
 こうしてブログの一編を書いている窓の外に、カラマツの葉が散っているのが見える。後で外に出ると、庭も一面に、黄色く被われてしまっていた。
 葉を落としたカラマツ林に、初雪が降るのもそう遠くはないだろう。

                      飼い主より 敬具