ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(37)

2008-10-17 16:55:24 | Weblog
10月17日
 拝啓 ミャオ様
 もう一週間以上も、晴れの日が続いている。それで、家の井戸水が涸れてしまわないかと心配になるほどで(今年は、春先に水が出なくなり、もらい水に行かなければならなかった)、ともかく雨が少ないのだ。北海道では、春先の早すぎる雪解けに始まって、それなのに遅霜があり、ヒョウの被害、夏の高温と秋の少雨など、地球温暖化によるかもしれない気象変化が問題になってきている。
 最近では、様々な有害動植物の分布地を越えた北海道上陸が報告されているし、今年の栽培野菜には、本州にしかいないはずの害虫が発生しているとのことだ。一方、寒冷地の米は美味くないといわれていたのは昔話で、品種改良の効果とあいまって、気温上昇による稲作適地化で、今や北海道米の評価はあのコシヒカリに迫る勢いだ。
 寒い北海道に住む人たちの殆どは、雪が少なくなくなり暖かくなるのは大歓迎なのだろうが、スキー場関係者などのごく少数の人たちや私にとっては、余り喜ばしいことではない。
 それには、地球的な規模での恐るべき温暖化を憂慮する思いもあるのだが、何よりも私にとっては、いつも楽しみにしている、冬の雪景色や雪の山岳景観を見ることのできる日が、少なくなくなる心配があるからだ。
 雪が降り積もってこそ、美しい景色がある。春先の新緑や花咲き乱れる夏、そして錦織りなす秋も素晴らしいけれど、何といっても山が一番見事に見えるのは、冬の雪に覆われた姿である。
 その白い雪に覆われた山を早く見に行きたい。天気の良かったこの一週間、その機会をうかがっていた。それなのに、行かなかった。理由はいくつかある。痛めた足首に不安があること、一日すっきりと晴れた日がなかったこと(ウェブ画像で見ると、昨日は予報に反して、一日中、雪の山頂が見えていた・・・残念)、さらにその雪の山が、その後はあまり雪が積もらず、まだら模様になっていて、そんなベチャついた雪の上は歩きたくないと思ったことなどである。
 それはつまり、誰に相談するでもなく、ひとりで登るゆえの私のわがままなのだ。しかし、昨日は、山の天気は良かったのに行かなかった。その決断力のなさと、他にもちょっとした哀しいことがあって、すっかり落ち込んでしまった。こんな時に、ひとりでいると辛い。
 何もする気がしなくなるほどだった。ミャオ、そんな時オマエはどうするんだ。オマエは私みたいにふさぎこんだりはしないよな。恐らくそんな暇もないのだろう。周りの物音、敵はいないかと気になり、エサのことも、おじさんからもらえるとはいえ、毎日心配しなければいけないし。
 しかし、私のように馬鹿な人間どもは、考え込んで落ち込んでしまうのだ。そんな時、同じようにひとりで暮らしている他の人たちは、どうしていたのか。そこで、昔の人たちに思いがいく・・・。
 あの鴨長明は「方丈記」に、兼好法師は「徒然草」に、その思いのたけを書き綴り、良寛和尚は俳句、短歌、漢詩などに、ひとり耐える日々の暮らしを読み込んだ。漂白の旅を続けることで、己の弱さと対峙していた種田山頭火は、定型破りの俳句に、その寂寥感を歌った。
 私は、それらの先人たちの思いをたどってみる。しかし、彼らの辛い思いや孤高の気持ちに共感はできても、今ある事への解決策を見つけることはできない。それで思い当たったのだ、ミャオのことを。つまり、何の才能もない私に残されているのは、自分の体だけだ。その体を使い、動きまわること、働くことしかないと。
 それでこの一週間は、毎日、薪割りと、カラマツ丸太の皮むきに明け暮れたのだ。今は、その成果が目の前にある。薪小屋は薪でいっぱいになったし、皮をむいた丸太が三十本はある。知的な方法で悩みを解決することのできない私は、体を動かすことで、ようやくその辛い思いを忘れ去ることができたのだ。
 それでいいのかもしれない。自分で変える気がなければ、仏教でいう他力に身を任せて生きていく他はないのだろう。思えば、この「御仏の御心のままに・・・」という思いと、キリスト教やイスラム教の「神の御心のままに・・・」という思いは本来は同じであり、つまるところは、仏教にもキリスト教・イスラム教にも信仰心のない私には、ただ私の神である自然の中に身を任せ、日々の暮らしを送ることこそ、迷いは多々あるにせよ、最善の方法なのかもしれない。
 私が、この一週間を、日ごとに紅葉が進む林の中(写真)での仕事で過ごしたことは、それはそれで良かったことなのだ。以下にあげるのは、遠い昔の、ギリシアの詩人、ヘーシオドスの「仕事と日(労働と日々)」の一節である。

  刺すごとき陽の力が衰え、汗を吹き出す暑熱も和らいで、
  その力いとも強きゼウスが、秋の雨をお降らせなさると、
  人間の身もにわかに軽やかに動くようになる。
  ・・・
  さてこの時期には、斧で伐った材木に最も虫がつきにくい、
  樹々は葉を地上に落とし、発芽をやめる。
  されば心して、この季節に木を伐れ、
  それが時節にかなった仕事なのだ。 (松平千秋訳 岩波文庫)
   
 ミャオも元気にしていてくれ。秋が終わる頃には、帰るからね。
                      飼い主より 敬具