ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(35)

2008-10-09 20:53:48 | Weblog
10月9日
 拝啓 ミャオ様
 朝の気温10度から、余り上がらず、13度という肌寒さ。昼過ぎから雨になる。
 薪ストーヴに火をつけると、ゆっくりと部屋が暖まっていく。今日は、ジャム作りをしよう。そこで、先日、採ってきていたヤマブドウを、一粒一粒、皮と中味に分けていく。
 1cmほどの小さなヤマブドウだから、ジャムとしての果肉を期待することはできない。ブドウ・ジャムの果肉としては、別に用意しなければならない。ちょうど、今の時期、北海道では地元産のブドウが安くなっている。キャンベル一箱2kgで、780円位だ。半分以上は、食後のデザートにいただいていて、残りのものを利用する。
 つまり、栽培ものの皮は農薬などの心配もあり使わないことにして、ヤマブドウの方の皮を使うことにしているのだ。しかし、このキャンベルの皮と果肉を分け、さらに種を一つ一つ取っていく作業も手間がかかる。
 ようやく一仕事終わり、今度はヤマブドウの皮だ。今までは、包丁で細かく刻んでいた。ところが、この秋から新兵器が登場したのだ。
 ジャーン、ついにミキサーを買ったのだ。5000円もするメーカー製だ。やったね。嬉しくて、毎日、見られるように台所の目立つところに置いてある。そのミキサーの出番だ。
 ブドウの果肉と皮をミキサーにかけ(あっというまだった)、それをホウロウの鍋に入れ、同じ量か少な目の砂糖を入れて、煮詰めていく。ころあいを見て、火を止め、隣で煮沸消毒をしていたビンをお湯の中から取り出して、出来上がったジャムを入れ、固くふたをする。
 これで、冷ました後に冷蔵庫で保管すれば、数年は楽にもつ。昨日、コクワのジャムを作り、今日はこのヤマブドウと、先日採ってきていたガンコウランのジャムを作った。それらのジャムをテーブルに並べて、なぜかゼイタクな金持ちになった気分がして、ひとり、含み笑いをする。(鬼瓦の飼い主がクックックと笑う姿など、ミャオにキモーイとか言われそう。)
 私は、朝食がパンだから、その時に使えるし、またヨーグルトにかけてもいい。もっとも毎年、8缶くらいは作って、その半分は友達にあげているのだが、それでも冷蔵庫には、まだ数個の作りおきのジャムがある。
 それは、今年は作らなかったコケモモやハマナスなどの、秘蔵品だ。夜中に、冷蔵庫のドアが静かに開く。電気もつけていない暗い台所で、その冷蔵庫の明かりに照らし出されて、ビン詰めジャムを見てほくそ笑む男の顔が・・・きもちわりー、アホかオマエは、とまたミャオに言われそう。
 確かに今時、スーパーでは100円位で売っているのに、手間暇かけてジャム作りするのは、無駄なことかもしれないが、私にとっては秋の季節を感じる大切な儀式の一つなのだ。
 ところで外に出ると、遠くに雪の山が見え、すぐにでも登りたいのだが、このところどうもすっきりとは晴れてくれない。足首の具合がまだ十分ではないので、休養にはなるのだが、それだからこそあの白い山々の連なりには、心が動かされるのだ。
 そんなふうにして家に居るから、時間は十分にある。このところ録画しておいた番組を幾つか見た。
 BS2 「クラッシック・ロイヤルシート」 10月5日 0.40~4.00
内容は、クラウディオ・アバドの指揮するバッハの「ブランデンブルグ協奏曲」とマーラーの「交響曲第9番」。比較的新しい去年のアバドの姿と、2000年に胃がんの手術を受けてその3年後に、音楽に戻ってきたばかりのころのアバドの姿を見ることができる。特に後者の、若者たちを集めたグスタフ・マーラー・ユーゲントO.を指揮してのマーラーは、病後のことを思うと胸に迫るものがあった。
 楽章が静かに終わり、音の余韻が消えてゆき、アバドは祈るかのように、指揮棒をゆっくりと胸の前に合わせる。静寂のローマ、サンタ・チェチーリアのホール。そして長い沈黙の後に、聴衆の拍手とブラボーの声が満ち溢れる。指揮者、オーケストラの若者たち、そして聴衆たちの上に、音楽の神、ミューズが舞い降りた素晴らしい瞬間だった。
 この演奏は、すでに何度か放送されて評判になっていたものだが、私はようやく最近購入したDVDレコーダーで録画して、見ることができたのだ。さらに同じように、次の番組も何度か目の再放送で、前から知ってはいたのだが、ようやく見ることができた。
 NHK Hi 「天才画家の肖像」10月6日 9.00~10.50 
「レンブラント 自画像が語る光と影」と題された番組で、63年の生涯のうちに、約60点もの自画像を残したレンブラント、それらの絵の中に、彼の浮き沈みの人生の光と影を垣間見ることができる。そのレンブラントの自画像の何枚かを取り上げて、ある種の謎解きの面白さで見せてくれる。ありきたりの、単なる美術史的な解説ではなく、現代科学の証明による解説に、納得のいく興味深い番組構成だった。
 私は若い頃に、長い期間、ヨーロッパを旅したことがある。絵を見ることがその目的の一つでもあったし、好きな画家の一人でもあるレンブラントの自画像には、各地の美術館で出会うことができた。
 中でも心引かれたのは、彼の死の年に描かれた自画像である。薄命の光の中、老いた男が一人、こちらをただぼんやりと見ている。その視線は、遥かなる過去への追憶の思いか、それとも彼岸への穏やかな諦めか。
 その当時、まだ若い私だったが、その一枚の絵は、静かに時を隔てて、確かな何かを教えてくれていたのだ。
 そんな、絵を見ることが好きな私にとって、幸運にも、同じ時期(12月初旬まで)に同じ場所(東京・上野)で開かれている二人の画家の絵画展には、何としても行かねばならない。フェルメールとハンマースホイだ。
 ミャオ、ごめんね。オマエに会いに行くよりも、絵を見に行くことが大事だなんて。しかし、オマエには絵に描いたモチであっても、私にはある意味で、モチよりも大切なものなのかもしれないのだ。分かってくれ。
                      飼い主より 敬具