ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(52)

2008-06-18 20:58:48 | Weblog
6月18日 梅雨らしい雨や曇りの日が続いている。ワタシは家にいるときは、ただひたすらに寝ている。
 キャットフードを少し食べ、ミルクを飲んで、飼い主のそばで横になる。今は、ワタシ自身も惚れ惚れとするほどの、つやつやとしたビロードのような夏毛に覆われていて、そのワタシの体を、飼い主が優しくなでると、今までの気苦労も忘れて、トローンとまぶたが重くなり、もう眠たいだけ・・・。時に、イビキをかきながら眠り込んでしまうのだ。
 そうして癒されるのはワタシだけではない、飼い主の方も、やわらかい小さな生き物を、なでて可愛がることによって、心が落ち着き、優しい気持ちになれるのだと言っていた。
 他の小さな生き物を可愛いと思う気持ちは、原則的には、すべての生物の心の中にあるに違いない。母親犬が子猫を育てたりするように、種類が違う動物間の子育てや、仲間として生活を共にするということは良くあることだ。
 もちろん原則的にと言ったように、例外もある。クマやライオンのように、自らの優性本能から、メスの連れているコドモを殺したりする場合もある。もっとも、動物界で最低のモラルしかない人間は、自分の気まぐれや勝手な都合で、子供を殺してしまうのだから論外であるが。
 まあ、この問題は色々とあるからそのくらいにして、ともかく小さな生き物を可愛がることによって、心が癒されることは確かだろう。長期療養のお年寄りたちが、犬やネコに触れることで心からの笑顔を取り戻したり、家でペットを飼えない子供たちが、学校でウサギやニワトリを共同飼育したりなど、その効用は広く知られている。
 先日、理由もなく人々を殺して回った若者に、もし日ごろから可愛がるペットがいたらとか、あるいは大地震で避難生活をする人々のところに、犬やネコがいたらと思ってしまうのだ。
 まして家でペットを飼っている人たちにとっては、自分の心の癒しにと言うよりは、同じ家族の一員なのだという思いが強いだろう。しかし、そのかけがえのない家族としてのペットに対する思いが嵩じると、自分のペットだけを偏愛するようになってしまう。
 そのあたりの効用と危険性を、自分の体験から冷静に分析、評論した「イヌネコにしか心を開けない人たち」(香山リカ著)は、なかなか興味深い本だ。今までよく読まれてきた、ペット愛好家の著名人たちが書いたエッセイや、動物生態学者たちが書いた本などと比べると、精神科医としての著者の視点が新鮮に思える。
 さて、ワタシと飼い主との関係は、そう簡単に、一般的なペットとその愛好家という範疇ではくくれないのだ。それは、ワタシが今や、すっかり半ノラ的な性格になってしまったからだ。
 確かに、飼い主が出してくれたミルクをなめ、サカナを食べると、やはり家はいいなと思う。そして何より、安心して、ぐっすり寝ることができるからだ。
 しかし、あのニタニタ笑う鬼瓦の飼い主の顔に、いいかげん見あきて、あくびが出たときに、ふと半ノラとしての野生の思いが膨れ上がってくる。こんな所にいるより、あのポンプ小屋に戻ろう。
 そこは、ひと時たりとも、心落ち着ける所ではないけれど、逆に、常に何かの物音がして緊張し続けることで、本来の野生のネコとしての、本能や感覚が研ぎ澄まされていくのだ。
 ネコはヒマだから寝ているのだ、と言った学者先生もいたが、ワタシは、敢えてヒマな家にいるより、緊張の野外を選んだのだ。飼い主がいつも家にいる、普通の飼い猫なら、そんなことはしないだろう。繰り返すが、そんな半ノラに好き好んでなったワケではないし、いまさら飼い主がいる時に、ワタシも一緒にいるという、飼い主ベッタリ依存の生活には、もう戻れなくなってしまったのだ。
 それにしても、今日は暗いうちから出ていたので、おなかがすいた。明日の朝、飼い主が迎えにきたら、エサと睡眠のために一緒に家に帰ろう。それが、ワタシの生きる道なのだ。
 心配しないで。それは、別に厭世的になっているからというワケではなく、むしろ、ひとりで生きて行く気力に満ち溢れているからなのだ。