ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシの飼い主(16)

2008-06-08 22:05:15 | Weblog
6月8日 曇り後小雨。気温18度。
「ミャオの様子がおかしい。家のネコではなくなってしまった。私の知っているミャオではない。
 ミャオを可愛がっていた母が亡くなって四年になる。その間、私は北海道を往復する中で、ミャオを二ヶ月から四ヶ月もの間、ひとりにしておいてきた。それだけでも、飼い主としては、なんの申し開きもできない。しかし、この家に戻ってくるたびに、ミャオは飼い主である私を喜んで迎えてくれた。
 そのことに、私は慣れていたのかもしれない。ミャオは他人にはあまりなつかないから、私さえ戻ってくれば、すぐに家に帰ってくるはずだと。
 ところが、五日前に戻ってきたのに、ミャオは家にいてくれないのだ。私がいない間に見つけた自分の隠れ家に、すぐに戻って行ってしまうのだ。
 ミャオのいない家のなんという空しさ、寂しさ、私が悪いのだからとわかっているからこそ、後ろめたい思いにさいなまれるのだ。
 ところで、ミャオと一緒にいたときには、そんなことなど考えてもいなかったのに、いざいなくなると何というつらさだろう。それは人間でも同じことだ。一緒に暮らしている家族の一人がいなくなって初めて、その有り難味がわかるものだ。まして二人だけで暮らしていて、相手がいなくなったときの喪失感は、耐え難いものになるだろう。
 しかし生きとし生けるもの、すべてに等しく死は訪れ、いつの日にか、その別れの日は来るのだ。宗教のような終末観をあおるつもりはないが、その終わりの日があることを、しっかりと分かっておかなければならない。
 それにしても、こんな半ノラのネコにしてしまったのは、すべて飼い主である私の責任なのだ。この数日の経過をたどってみると・・・。
3日 夕方に家に帰ってきて、早速、ミャオを探しに行くが見つからず。
4日 朝、エサをあげてもらっているおじさんから、ここ何日か姿を見ていないと聞く。探しに行くが見つからず。昼前、昨日ミャオを見かけたとの情報で、再び探しに行く。地区のポンプ小屋でミャオを見つけて、つれて帰る。しかし、サカナなど食べた後、なんとマイケルが来てにらみ合う。夜には出て行って戻らず。
5日 夕方まで帰ってこないので、ポンプ小屋に行って、見つけてまたつれて帰るが、サカナを食べた後、また自分のすみかに帰って行く。 
6日 朝、またポンプ小屋まで行って、つれて帰ってくる。この日は夕方までいるが、サカナをやった後、一緒に散歩に行くと、途中で座り込み動かず、そのまま帰ってこない。
7日 朝、予定していたミヤマキリシマが盛りの九重の山に行く。昼には戻るが、やはり帰ってきていない。ポンプ小屋に迎えに行って、つれて帰る。
 つまり、ミャオはここでサカナなどを食べさせてもらうとしても、この家のいたるところにマイケルの臭いがついていて、ずっといるには危険な所になっていたのだ。
 ミャオの友達とばかり思っていたマイケルが、実はミャオにとっては、心身ともに深い傷を負わされた恐るべき敵だったのだ。そのことに気づかなかった私が悪い。
 今までこんなことはなかっただけに、私が帰ってくれば、ミャオもすぐに家に戻ってきていたのに、マイケルのせいで、自分の家ではなくなっていたのだ。
 ポンプ小屋に行っても、びくびくして出てくるミャオ、家でサカナを食べた後、いそいそと自分の隠れ家に戻っていくミャオ。そこには、ミャオの深い孤独の影が見えていた。ひとりの生き物としての・・・。それは、飼い主である私の心を映す鏡でもあったのだ。
 しかし、マイケルを追い払ったこともあってか、やっとのことで、ミャオは昨日からずっと家にいるようになった。多分もう大丈夫だと思うが、まだ問題は解決したわけではない。
 二週間後、私は北海道に戻らなければならない。飼い主の責任を放棄して、またミャオを置いていかなければならない。またミャオは、あの歌のせりふのように、星の流れの元で、ネグラを探し、鳴いて涸れ果てた声で、言うだろう、こんなノラに誰がしたと・・・ああ、ミャオよ。」