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映画 クリント・イーストウッド『父親たちの星条旗(‘06)』、『硫黄島からの手紙(’06)』

2007-05-28 13:37:51 | 映画

「父親たちの星条旗」
              
 1945年(昭和20年)2月23日硫黄島の摺鉢山に、米軍兵士6人によって日本軍が放棄した鉄管に結わえられた星条旗が翻った。
 2月16日に始まった戦闘が終結したのは、3月26日だった。この戦闘による日本軍の人的損害は、20,933名の守備兵力のうち20,129名が戦死した。米軍は戦死6,821名、戦傷21,815名で、米軍地上部隊の損害が日本軍を上回った唯一の事例といわれる。

 星条旗を掲揚した6人のうち3人がその後の戦闘で戦死した。掲揚したときの一枚の写真が、その後の3人の人生に多大の影響を与える。全米に配信された写真によって3人はヒーローになる。
 この現象を見逃さなかったのは当時の大統領ルーズベルトで、戦時国債の販促に活用する。軍の命令とあれば拒否することも出来ず、全米をセールス行脚に明け暮れる。
 その3人は、海軍衛生士官のジョン・ドク・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)、海兵隊一等兵レイニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)、同じく海兵隊一等兵でネイティブ・アメリカンのアイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)だった。
              
 3人とも自分たちはただ重い鉄管を支えただけでヒーローでもなんでもないんだという思いを抱き、予期せぬ出来事に戸惑ってもいた。主に海軍衛生士官のドク・ブラッドリーの視点が、この映画の根幹になっている。随所に壮絶な戦闘場面を配して戦争の残酷さを描写し、エンディングでは年老いたドク・ブラッドリーが息子に看取られながら息を引き取る場面とその息子のナレーションが印象的だった。
 次のようなナレーションが、兵士たちの遊びで海に飛び込む場面に重なる。“おそらく父の言うとおりだ。英雄なんてものはいない。皆、父のような普通の人間だ。父が英雄と呼ばれるのを嫌がった気持ちが分かる。英雄とは人間が必要にかられて作るものだ。そうでもしないと、命を犠牲にする行為は理解しがたいからだ。だが、父が、戦友たちが危険を冒し、傷を負ったのは仲間のためだ。
 国のための戦いでも死ぬのは友のため共に戦った男たちのためだ。彼らの栄誉をたたえたいなら、ありのままの姿を心にとどめよう。父がそうしたように”

 今年77歳になるクリント・イーストウッドの人生の終焉が迫るとき、なんのてらいもなく虚飾を捨てた心からのメッセージと受け止めた。

 監督・音楽クリント・イーストウッド1930年5月サンフランシスコ生れ。
 キャスト ライアン・フィリップ1974年9月デラウェア州ニューキャッスル生れ。最近の映画では「クラッシュ」に出ていたようだが、2007年度は3本の映画出演がある。‘99年リース・ウィザスプーンと結婚。
              
 ジェシー・ブラッドフォード1979年5月コネチカット州生まれ。着実にキャリアを積みつつある。2007年度は2本の映画出演がある。
              
 アダム・ビーチ1972年11カナダ生れ。2007年度は、テレビ5本、映画2本に出演。2008年度も決まっているようだ。
              
いずれもこの映画のおかげかもしれない。(ウィキペディアを参考にした部分もある)

「硫黄島からの手紙」
              
 硫黄島二部作の日本軍の戦いを描いてあるが、「父親たちの星条旗」を先に観た方が順序としてはいいように思う。「父親たちの星条旗」でメッセージ性のあるナレーションを流していたが、「硫黄島からの手紙」には一切そんなものはない。淡々と事実を描写している。
              
 西郷(二宮和也)の「こんな小さな島、アメリカにくれてやれ!」と吐き捨てたり、米兵が日本兵捕虜を撃ち殺したり、米兵の捕虜に西竹一中佐(伊原剛志)が傷の手当てを命じたり伊藤中尉(中村獅童)の見事に洗脳された軍人など誇張するでもなく描いている。
              
 観る人それぞれの思いがあるだろうが、根底にあるこの地に散った日米の将兵に対し、ただ事実を伝えることが唯一の鎮魂になるというメッセージは伝わってくる。

 ではなぜこんな小さな島が激戦地になったのか。東京からおおよそ南へ1,250キロの小笠原諸島に属する火山島で、ここに日本軍は基地を構築していた。そしてここが最後の砦としていた。
 米軍は1944年11月以降B-29爆撃機による日本本土爆撃を開始した。しかし、硫黄島は日本本土に向かうB-29を無線で報告する早期警戒拠点として機能しており、米軍基地があるマリアナ諸島からの出撃では距離の関係上、護衛戦闘機が随伴できなかった。
 それに、日本上空で損傷を受けたり故障したりしたB-29が、マリアナ諸島の基地までたどり着けず海上に不時着することも多かった。そして、しばしば日本軍爆撃機が硫黄島を経由してマリアナ諸島の米軍基地を急襲し地上のB-29に損害を与えた。
 米軍は日本軍航空機のサイパンへの攻撃基地としての硫黄島の撃破、レーダー早期警報システムの破壊、航法上B-29は硫黄島を迂回しなければならないというロスの解消、損傷爆撃機の中間着陸場と長距離護衛戦闘機の基地の確保という目的のもと大部隊を投入した。
             
 硫黄島の戦いについて、当時、戦時中のみ天皇直属の最高統帥機関であった大本営の放送は次のようなものであった。「17日夜半ヲ期シ最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ヲ安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶エ、コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ」(ウィキペディアから引用)いやはや、国民に死を求めているとは、どこまで狂っていたのか。
 この大本営は、太平洋戦争末期になると戦況の不利をいかにも有利なようにでっち上げて放送したといわれていて、国民を欺いた罪は大きい。敗戦と同時に大本営は姿を消す。

 それにしても硫黄島の戦いが終わるや否や1945年3月26日から6月23日まで、多くの民間人の犠牲者を出した沖縄戦に突入した。そのあと8月6日広島に原爆が投下され、8月9日には長崎にも投下されて、民間人が多数犠牲になった。 ようやく8月15日天皇のいわゆる玉音放送で敗戦が決まる。硫黄島以降の犠牲は必要だったのかという疑問がぬぐえない。まあ、特攻隊という人命無視もはなはだしい発想の軍部指導者たちだから意に介さなかったのだろう。それがなぜ英霊といわれる将兵と同じ靖国神社に合祀されているのか、理解に苦しむ。

 ここまで思考を広げると、映画から離れすぎたようだ。映画に戻ると、一つの戦いを双方の視点、この場合日米それぞれの視点で描くという発想は、かつて誰も思いつかなかった稀有なことで称賛に値する。
 それもかつて日米合作映画のように中国的なイメージの音楽やアメリカ人俳優のわざと目を細くしたメイキャップなどの不快なものではなく、(チョットたとえが古いかな!)まじめに取り組んでいるのには好感がもてる。
 イーストウッドが、これからどんな映画を私たちに与えてくれるか楽しみではある。クリント・イーストウッドほか「父親たちの星条旗」とスタッフはほとんど変わらない。音楽の担当に、息子のカイル・イーストウッドをあてている。1968年5月ロスアンジェルス生まれで、ニューヨークのジャズ・コミュニティでよく知られるベース奏者。
              
 キャスト 渡辺謙1959年10月新潟県小出町生れ。
              
      二宮和也1983年6月東京生まれ。
      伊原剛志1963年11月小倉市生まれ。
      加瀬亮1974年11月横浜生れ。
      松崎悠希。
      中村獅童1972年9月東京生まれ。

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